天宮聖羅Ⅳ 変異
天宮聖羅Ⅳ-1
車にキーを差し込み、エンジンをかける。同時に助手席のドアが開き、無言で神那が乗ってきた。天宮は一瞬降りてと言おうとしたが、口をつぐんだ。きっと指示には従ってくれないだろう。
それに天宮は神那にどこか頼もしさを抱いていた。彼ならなんとかしてくれるのではないだろうか、そんな期待が頭の片隅に浮かび、それを消し去ることはできなかった。先ほどの化け物に向かっていったその勇敢な態度からも、そう思わずにはいられなかった。
「しっかりシートベルトしてね」
その言葉に応えるように、神那はシートベルトを締めた。
アクセルを踏む。まだ午後の授業は残っている。教師が授業を放棄するなんてありえない。なんらかの罰は避けられないだろう。でも、それでも行かなくてはならない。何かとても良くないことが起きている。そう胸騒ぎがしてしかたなかった。
携帯電話が鳴った。画面をちらりと見ると、教頭からだった。天宮はそれには出ず、そのまま携帯の電源を落とした。
信号待ちの間に流れる町並みはあいかわらず普遍的で、変化はない。それでも止まらない動悸が、不安をかきたて続けていた。ウィンカー音だけの車内が重く圧し掛かってくる。耐えかねて、ラジオをつけた。陽気な声が車内に響く。局番を何度か変えてみたが、どの局もこれといってこの町のことを話題にしている様子はなかった。さきほど空を覆っていた黒い煙のことは、まだニュースなどにはなっていないようだった。
昨日通ったのと同じ道を進んでいくと、そこまで車の行き来がない逆方向の車道から救急車が走り抜けていった。それも1台だけではなく、2台、3台と。不安が増長する。ハンドルを握る手に力がこもる。天宮はアクセルを踏み込んだ。
だが、その勢いはすぐに止まった。小学校へ向かう坂道のはるか手前で何台ものパトカーが止まり、警官が赤い誘導灯を振っている。どうやら道が封鎖されているようだった。しょうがなく車を止めると、すぐに近くの警官がこちらにやってきた。
「事故が起こってこの先は封鎖されています。引き返してください」
「何が起こったんですか?」
「事故です」
「事故って何の事故ですか? あの黒い煙が何か関係しているんですか?」
煙のことを口に出すと、警官は露骨に嫌な顔をした。
「それまだよくわかっていません。とにかく危険なのですぐに引き返してください」
警官は有無を言わさず、戻れと命令する。意地でも通す気はないらしい。
「この先に用があるんです!」
「危険なので引き返してください!」
埒が明かない。そう思った瞬間、天宮は若い警官の顔越しに見知った顔を見つけた。顔を窓から乗り出し、大声で名前を叫ぶ。
「橘さん!」
橘と呼ばれた男はこちらのほうに振り向き、天宮の姿を確認するや否や微笑んだ。
「おう、天宮のところの娘か」
車を降り、橘と呼んだ男性の元に向かう。天宮に話しかけてきた警官が「ちょっと」と注意したが、もう積極的にひき止めようとはしなかった。あきらかに自分の上司である人間と知り合いということに、戸惑っている様子だった。天宮はそれをいいことに彼を無視し、橘に近づいた。いつの間に降りたのか、神那もすぐそのあとに続いていた。
天宮は父の上司であり、子供の頃からいろいろと世話を焼いてくれた橘刑事に話しかけた。
「橘さん、何が起こってるの?」
「そりゃ、こっちが聞きてぇセリフだよ。急に黒い煙が沸き起こったかと思ったら、すごい勢いで広がってやがるんだ」
「火事か、テロか何か?」
「わからん! だが、火事じゃないことは確かだ。火元がどこにも見当たらないし、そういった報告もない。ただテロとも考えづらい。こんな何もないような場所でテロ起こす意味がな。もっと大都市や、人が密集してるようなところなら話は別だが……」
橘は眉間にしわを寄せ、険しい顔をして答えた。
たしかにここにはあの小学校以外、人がよく出入りするような目立った建物はない。その小学校も廃校で、登校する児童も教師もいない。テロ行為はやり方はともかく、社会や宗教に対しての反抗の意味合いが強い。こんな犠牲者がほとんど出ないような場所で行う可能性はかなり低いだろう。
「考えられるとしたらなんらかの薬品が流出したか、洞窟があるからそこの地下から有毒ガスが漏れたかだな」
「洞窟?」
「学校の裏側をすこし登ったところにあるんだよ。まあ、あそこは地元のものでもほとんど近寄らないから、知らないのは当然なんだが。入り口も封鎖してあったんだが、壊されていたらしい。おそらくそこから漏れたんだろう」
橘は考えこむように黙った。
本当にただの有毒ガスが漏れただけなのだろうか?
天宮の中で、昨日のなぎさの言葉が反復する。あの正体不明の化け物のこともあり、天宮にはどうしてもこれがただの事件には思えなかった。なぎさが言っていたように、何かよかならぬことが起ころうとしている、その前兆のように感じられた。
「実際、調べに行った別の者があの煙に触れたとたん、具合が悪いなどの症状を訴えてるらしい。まあ、軽い頭痛や吐き気だったみたいで、最悪命にかかわるようなことにはないみたいだが。ただ……」
「ただ……?」
橘は口をへの字に曲げ、難しい表情をした。内容を話すかどうか迷っているようだった。
「いくつか気になることがあってな」
「気になること?」
「ああ、1つはいま言ったとおりだが、消防隊員の者が洞窟を調べようとしたんだ。毒ガスの可能性が高いから化学防護服を着てな。だが、しっかりした装備を着けていたにもかかわらず、隊員全員が体調不良を訴えた。そのせいでほとんど何も調査できずに撤退することになったらしい。毒ガスの中には皮膚に触れただけで、効果があらわれるものもある。だが、今回は防護服に身を包んでいたにもかかわらず、そういった症状が起きた。極めて危険な化学薬品である可能性が高い」
「もう1つは?」
「それは……この煙がどんどん広がっていることだ」
「どういうことなの?」
「いいか、そもそもこの煙が毒ガスかウイルスだとしても、常温、常圧では液体や固体であるはずで、それは風が強くてどんなに長く空中を漂えるとしても、やがては地面に落ちていくものなんだ。噴霧して散布しない限り、広範囲にわたってガスをまき散らすことは難しい。それなのにこの煙はそういった気配は一向に見られず、まるで炎が燃え上がるかのように空へ広がり続けている。こんなことありえるはずはないんだ。さらにその残留が、まるで人が山を下るように山頂から麓へと移動している。その洞窟からここまでは結構な距離があるにもかかわらず、すぐそこまで煙が来ているのはそのためだ。こんな広範囲に広がる薬品は聞いたことがない」
橘の口調には焦りの色がにじみ出ている。
「とにかく現状は人も装備も足りなくてな。はっきりとした調査は大量の化学防護服と空気呼吸器を装備した部隊の到着待ちだ。いまは近隣住民の避難と、道路の封鎖を最優先でやっている」
「この町全体を封鎖するの?」
「それは難しいな。よくあるゾンビ映画のように唾液や血液から感染するウイルスが主流なら封鎖は効果的かもしれない。だが、空気感染なら正直防ぎようがない」
橘は山頂を見上げた。黒い煙が充満し、昼すぎなのにそこだけ夜のように暗かった。
「杞憂であればいいだが……」
橘は独り言のようにつぶやいた。
「まあそういうことだから、ここは警察に任せてお前は早く安全な場所に避難しろ」
「でも……」
「でもじゃない。ここはプロに任せろ。あと、いま話したことは内緒だからな。お前だから話したんだぞ」
「そこは安心して」
「とはいっても、もう住民に知れ渡ってるようなんだがな」
「えっ、こんなに早く情報が伝わるものなの? ニュースでもまだ……」
「SNSだよ、いまはなんだ、誰でもなんでも情報を発信できるだろ。黒い煙が漂う動画が拡散されてな、すごい勢いで広がっているらしい。まだたいした騒ぎにはなってはいないのが幸いだが、このまま収まらければ、町は大混乱になる可能性がある」
橘は苦虫を嚙み潰したように苦言を吐いた。
教師という職業柄、この手のSNSは禁止されているため、実際にその動画を見ることはできないが、なんとなく予想はついた。いまは携帯のカメラでもかなり性能がいい。学校の屋上から様子がわかったように、これだけ黒い煙が上がっていれば、遠くのビルからでもはっきりとその模様を動画に収めることは可能だろう。そして、それをネットにあげる。真実だろうとフェイクだろうと、話題になりそうな出来事は伝達していく。
「ホント良いんだが、悪いんだがわからない時代になったよ」
橘は顔をしかめた。
「天宮、実家は近いだろ。お母さんにも一応注意するよう警告しておけよ。あと帰りはコンビニでも寄っていろいろと準備をしておけ。万が一ということもあるからな」
「橘さんは?」
「俺は警官だ。最後までここの指揮をとる」
「私も手伝います!」
まるで条件反射のように天宮はそう言った。なんの装備も持たないただの一般人である自分が役に立つわけがない。でも、何もしないわけにはいかない。
「お前、自分が何を言ってるのかわかってるのか?」
あきれたように橘が答える。
「人が足りてないんでしょ」
「バカを言うな」
「避難誘導くらいはできるわ!」
まっすぐ橘を見つめる天宮の視線に根負けしたのか、
「ホントお前は親父さんにそっくりだよ」
そう言って、橘は頭を掻いた。
「山の向こう側に数戸の家がある。人員が足りてなくて、そちらの避難誘導がまだの状況だ」
天宮は橘が差した方向を見た。黒い煙がわずかだが、そこにも浸透しているように思えた。
「いいか無茶はするなよ、気分が悪くなったり、危ないと思ったらすぐ戻れ! けして無理に他人を救おうとせず、自分の命を第一に考えて行動しろよ! 絶対だからな!」
その言葉の裏にある真意を理解し、天宮はうなずいた。
「行きましょう、神那くん」
すぐ後ろでじっと話を聞いていた神那にそう呼びかけると、天宮は踵を返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます