36


 とっさのことに足が動かない。

 身体も強ばってしまっている。

 先ほど宝具に触れてから三十分は経っているので、宝具による自動的な防御は期待できなかった。

 セシリアは衝撃を覚悟してぎゅっと目をつむる。

 その瞬間、誰かに身体を突き飛ばされた。

「きゃっ!」

 身体がよろける。背中を壁に打ち付けた衝撃で目を開けた。

 するとそこには、太い柱に押しつぶされたマーリンがいた。

「大丈夫ですか!?」

 セシリアは慌てて近寄る。マーリンの上に落ちた柱は重かったものの、一人でもなんとか持ち上げられる重さだった。

 セシリアは柱をどかし、マーリンの上半身を抱き上げる。

 頭を支えた手のひらに赤い血がついた。どうやら先ほどのことで切ってしまったらしい。セシリアに支えられながらも動けない様子を見ると、もしかしたらどこか骨でも折っているのかもしれなかった。

「なんで……」

「……アンタが怪我したら大変だからね」

「私が公爵家の人間だからですか?」

 そんなことで……。そんな思いから言葉が口をついて出た。マーリンは緩く首を横に振る。

「それももちろんあるよ。だけど、アンタはダンテの友達だからね。怪我させたら私があの子に怒られちまう」

「友達?」

「なんだろ? 前にあの子が帰ってきたとき、楽しそうにアンタのこと話してたよ。女のくせに男装して学園に通ってる面白い奴がいるって……」

 まぁ、その直後に組織を抜けるって言い出したんだけどね。と、マーリンはへらりと笑った。

「セシリアだっけ? 私は置いて行きな。もうまともに走れそうにない」

 血を流しすぎて意識が途切れかけているのか、うつらうつらとマーリンの首が揺れる。セシリアは彼女の意識を保つ意味も含めて声を張った。

「そんなのできないですよ!」

「何を言ってるんだい。私はアンタを拐った組織の首領だよ」

「それでも、私のことを助けてくれました」

「馬鹿なこと、言ってないで、はや……」

 マーリンはその言葉を残し気絶してしまう。

 セシリアは彼女の身体を抱え込み辺りを見渡した。

「どうしよう……」

 先ほど進もうと言っていた方向は、もう炎に包まれている。

(とりあえず、私がなんとかしなくっちゃ)

 セシリアはマーリンを背負った。

 今自分が無事なのは彼女のおかげなのだ。おいていけるはずがなかった。

「――っ!」

 体重がかかった瞬間に、右足首に痛みが走る。

 見れば、右足首は赤く腫れていた。先ほど突き飛ばされたときにひねったのだろう。しかし、マーリンに比べれば軽傷だった。

 セシリアは再び宝具に触れる。

 背負ったマーリンの身体も含めて膜が張った。

「とりあえず、武器庫の奥に……」

 このまま進んでもじり貧だと言うことはわかっていた。けれど炎から逃れるためには進むしかない。ギルバートの宝具で守れるのは物理攻撃だけで、煙や炎の熱からは守ってくれないのだ。

 セシリアはひょこひょこと足をかばいながら武器庫の奥に行く。もしかしたら、窓でもあるかもしれないと少し期待したからだ。

 しかし――

「嘘でしょ……」

 確かにそこには窓があった。採光のためだけの窓なので四角いステンドグラスがはめ込まれているが、そのステンドグラスを割ってしまえば開口部も申し分ない窓である。

「でも、こんなの、無理じゃない」

 けれど、その窓はとんでもなく高い位置にあった。セシリアが二人いてもきっと届かないほどに高い位置だ。

 一人でも到底届かない。足首をひねり、マーリンを背負った状態では、その高さは絶望的だった。

「どうしよう……」

 辺りを煙が覆い始める。

 マーリンが頭を乗せている肩には血が伝った。

 セシリアは先ほど取り戻した私物のハンカチを彼女の出血部分に当てる。血がにじみ、すぐに患部とくっついた。

「セシル!」

 その声が聞こえた瞬間、見上げていたステンドグラスが割れた。

 そして、誰かがほとんど自然落下の勢いで誰かが降りてくる。

「え? ――ダンテ!?」

 そこにはロープのような紐をもつダンテの姿があった。いつもの軽薄そうな笑みはなりを潜め、真剣な表情を浮かべている。彼はセシリアを目にとめると、駆け寄ってきた。

「大丈夫!? うちの連中が馬鹿やったって聞いて飛んできたんだけど!」

「え、うん。私は大丈夫なんだけど……」

 ダンテの視線はセシリアから背中でぐったりとするマーリンに移された。

 ダンテの顔に動揺が広がる。彼にとって、マーリンは母であり、父であり、姉であるのだ。そんな彼女が、血を流しながら意識を飛ばしている姿を目の当たりにして、動揺しないわけがない。

 ダンテは数秒間固まった後、すぐさまセシリアに向き直った。

「セシル、ここから逃げよう」

「うん」

「じゃ、とりあえず、マーリンを置いて」

「え?」

「俺の力じゃ一人しか連れて行けない」

 その言葉に肝が冷えた。彼の表情はどこまでも真剣で、冗談を言っているようには見えなかった。

「セシル、その足じゃこのロープは上れないでしょ? 俺は一人なら背負っていけるけど、二人は無理だ」

「でもっ!」

「……セシルと違って、マーリンは自業自得だ」

 そうは言うが、彼の瞳には悲しさと悔しさが漂っていた。

 本当ならマーリンも一緒に助け出したいのだろう。

 城の敷地はかなり広い。もしセシルを先に連れ出した場合、戻ってくるまでにマーリンの身体は炎に包まれてしまうだろう。

 ダンテはマーリンを見殺しにすると決めたのだ。

「ダンテにとって、マーリンさんは大切な人なんでしょ?」

「……どうせ俺たちはろくな死に方はしない」

「でも!」

「早く! 炎が回ってくるよ」

 言葉を遮るようにして、ダンテが声を上げる。腕も引き寄せられた。

 セシリアはとっさにダンテの腕を振り払う。

(このままじゃ、だめだ!)

「セシル!」

 責めるような声にセシリアは下唇を噛みしめる。 

 命は惜しい。

 だからこそ、彼女はセシリア自分の運命を知った瞬間から努力を始めた。全く休まなかったというわけではないけれど、十二年間、できうる限りのことはやってきたつもりである。

 すべてはこれから先の人生を、のほほんと積み重ねるためだ。

 けれど、セシリアは誰かの命を犠牲にしてまで助かるつもりはなかった。もしこれがセシリア自身の運命だとするのならば、マーリンを見殺しにすることは自分の運命を彼女に塗りつけることだった。

 それだけは決してしてはいけない事である。

(それに……)

 ダンテがマーリンを慕う気持ちはなんとなくわかるような気がした。彼にとって彼女は唯一の家族なのだ。そんな彼女を自分の判断で見殺しにしたとなれば、ダンテはこれから先、一生その傷を背負い生きていくことになるだろう。

 セシリアは顔に笑みを貼り付ける。

「ダンテ、やっぱり先にマーリンさんをお願い」

「でも!」

「私は、これがあるから大丈夫なの」

 セシリアは宝具を見せた。

「これをつけてると、誰の攻撃も私に届かないの。もちろん、炎や煙もよ」

 真実に若干の嘘を混ぜる。

 さすが元演劇部である。ダンテにはばれていないようだった。

「私の事を最初に助けると、マーリンさんは絶対に助からない。でもマーリンさんを最初に助けると、二人とも助かるの」

 ダンテの手を取った。

「私は大丈夫だから、マーリンさんを最初にお願い! 私、この宝具で身を守りながらダンテが帰ってくるの待ってるから」

「本当に?」

「試しに殴ってみる? 結構な勢いで跳ね返すから、痛いじゃすまないかもよ?」

 ダンテはしばらく考えていたが、やがてゆっくりと頷いた。

「わかった。マーリンだけ連れ出したら、すぐに助けに戻ってくる」

「うん。待ってる」

 ダンテはセシリアからマーリンを受け取ると背負った。そして、ロープを伝い、軽々と上がっていく。

 その背中が見えなくなるまで見送って、セシリアは壁に寄りかかった。

「かっこつけちゃったなぁ……」

 後悔はなかった。けれど、恐怖はあった。

 ダンテが間に合うのかと聞かれれば、おそらく間に合わないだろう。

 他に助けも期待できなかった。誰かが来てくれたとしても、こんなところに閉じ込められているだなんて誰も思わない。

 諦めてるのかと言われればそうではないが、何もできないのが現状だった。

 瞳を閉じれば、見覚えのあるようなないような、複雑な光景が広がる。

 炎が広がる映画館。

 目の前には一緒に助かるはずだった親友と彼女が、救おうとした人と共に倒れている。

 自分の服の袖には火がついていて――……

「きゃぁ!!」

 セシリアは思わず手を払った。

 そこには当然のごとく火はついてない。

 しばらく混乱したように目を白黒させたあと、自らを落ち着かせるように身体を抱きしめる。

「そっか。私、火事で死んだのか……」

 こんなにも火に身が竦むのは、前世の記憶が知らず知らずのうちに恐怖を煽っていたからだ。足が動かないのも、身体が震えるのも、同じ理由である。

 とうとう武器庫にまで炎が広がり始める。

 身体が震えた。立っていられないほどに膝が言うことを聞かなくなる。

 もうこうなったら、運命なのかもしれない。自分は炎に焼かれて死ぬさだめなのだ。

(せっかく、ギルやオスカーともちゃんと仲良くなれたのに……)

 炎の前に煙が充満する。セシリアの気は遠くなる。

 崩れるように床に倒れ込んだ。

「今回はちゃんと生きたかったなぁ……」

 そうつぶやいた瞬間、意識が沈んだ。

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