讃岐院
三津凛
第1話
骸は盛夏に腐るのを厭われて、湧水に浸されている。鼻梁も瞼も、冷水に打たれるままにされている。
讃岐院が崩御されて、いまは3日目のことである。湧水は冷たく、院の骸は氷につけられた魚のように未だ滑らかで艶さえある。讃岐に流されたとはいえ、院は院である。一時は日を継がれたお方である。骸の扱いに、讃岐の人々は途方にくれて崩御を知らせる使いは都へと走った。
俗世の騒音はよそに、院の骸は盛夏の中で白く水の中に浮いていた。たまに梢から漏れる陽に、お顔が照らされる。固く閉じられた双眸は、まるで陽の光を厭うために閉じられているようである。骸のお守りは、時折お顔を覗いて「院は本当にお隠れになったのか」と訝しむほどであった。
いくら冷たい湧水につけられているとはいえ、やはり骸は骸である。水越しでもその肌はあくまで固く、蝋のようであった。讃岐から送った使いはなかなか帰って来なかった。
ようやく使いが讃岐まで帰ってきた頃には、骸もいくらか腐り初めていた。結局、院の願いも虚しく骸は都へは返されず讃岐の地で葬るようにとの沙汰であった。後白河帝は、この兄である院のことを嫌い怖れた。だがこの素っ気のない沙汰には帝の周りに侍る近臣どもの讒言もいくらかあったのかもしれない。
葬列はかつての帝には似つかわしくなく、簡素で寂しいものであった。折しも天候は悪く、陽は翳り神鳴まで鳴り始める始末だった。人々は院の怒りだと怖れ、柩の担ぎ手は揺れた。
その葬列を、宗久は骸の浸してあった湧水の側で眺めていた。思えば流転する院にお伴して、ここまで辿り着いたのである。その院が崩御されたいま、自分はいったい何を頼みとして生きていこうか。院の骸に最期のご挨拶する間もなく、人々は骸を柩に横たえて出発した。まるで今では一つの腐肉となった院を厭うかのようで、宗久は哀しかった。宗久は葬列の一番後列に並んでお供をした。院は最後まで帰京が許されることを乞うていた。住まいの庭を京風のものに設えて、秋の夜はしみじみとされ懐かしんでおられた。
都では院の崩御は一切黙殺されている。仮にも天子であられたお方である。なんと人の世の冷たいことよ、宗久は涙を溜めて歩いた。
葬列がしばらく立ち止まって、休むようである。宗久も疲れてその辺の石に腰を落ち着けた。すると何人かの童どもが群がって馬鹿騒ぎをしだした。宗久は無心にそれを眺めていたが、やがて童たちがただ遊んでいるのでないことに気がついた。1人やたら背の小さな、醜いかさぶたと垢だらけの童がいる。どうやら知恵も少ないらしく、体格の大きな童どもに小突かれるままにされている。彼奴らはこの1人を滅多打ちにして喜んでいるのである。宗久は可哀想に思って、その童を庇った。
「お前たち、やめなさい」
童どもは一喝に散っていった。宗久は優しく眉を広げた。
「これ、お前はどうしたんだ。父や母は何をしておる」
童はろくに言葉を話さない。話せないのかもしれない。宗久はよりいっそうこの童を哀れに思った。
童の鼻は殴られて血が滲んでいる。
「お前は可哀想な子だね」
宗久はかさぶただらけの童の頭を撫でた。その感触に、宗久は無性に亡き院を思い出した。畏れ多くも院に直接手を触れたことはなかったが、人生の大半は下ってゆく坂のように過ごされた院のことである。その手触りはこの童のように哀しさをもよおさせるものであったかもしれぬ。こんなことを大胆に心に抱けるのも、やはり院がすでにこの世にないからである。骸はただ腐肉と成り、あとは土に戻るのを待つだけである。
童は大人しく休む葬列を眺めている。やはり院の柩は重く、恨みの化身の神鳴はやまない。
「思えば、讃岐院の運命は胤の頃から決まっていたようなものだった」
宗久は自然と語り始めた。童は静かに聞いている。雷鳴は未だ遠く、近づいてくる気配はまだない。
讃岐院の血は、日を継ぐ血である。この国で最も高貴なる血と一族であられる。だがその運命は胤の頃から決まっていたようなものであったのだ。
人生の春の頃、まだ幼き若き頃の院はそれでも幸せであったのである。鳥羽帝からの譲位を受け、数え5歳で院は帝位につかれたのである。だが父である鳥羽帝は讃岐院を忌み嫌い、藤原得子様の産んだ新皇を帝位につけたのだ。その新天皇、近衛帝が若くして崩御されると鳥羽院は雅仁新皇を後白河帝として即位させるのである。
讃岐院の上皇としての親政はこれにより潰えた。それから間もなく、院は反乱を起こすのである。だがその兵力はあまりに微力で、すぐにその芽は摘み取られてしまったのである。
院の落胆は大きかったが、すぐに髪を落とし後白河にこれ以上逆らう意思がないことを示した。院はそれで赦されるとお思いになっていた。いっときは帝位につかれた方である。そして後白河は院の弟君でもあられる。
だが沙汰は厳しいものであった。
讃岐に配流す。院は赦されることもなくそのまま流された。
院の運命を決定づけたのは、戦没者供養のために書き上げた写経であった。五部大乗経の写本を院は苦労されて作られ、都へと送った。だが後白河帝は「呪詛でも込められているのではあるまいか」と讃岐へと送り返して来たのである。
讃岐院はこれに烈火の如く怒り狂い、舌を噛み切ってその後は髪も切らず、髭も剃らず、爪を切ることもなく生きながらにして恐ろしいお姿と成り果てたのである。それからほどなくして、院は崩御された。
いつの間にか、童は足元で眠りこけていた。宗久はその童をおぶってあとに続いた。
再び葬列が進み出し、骸は焼かれた。雷鳴は近くなるようである。そして、骸を焼く煙は天へは昇らずに都の方へとなびいて流れた。宗久はその煙のなびく方へと手を合わせた。院はまさに怨霊となって、禍をもたらすやもしれぬ。だがどうか濁世の雑音に成仏を妨げられることなく、天へと昇って頂きたいものである。
宗久は起きない童を足元に置いて、汗を流す讃岐の人々の群れの中から都の使い人を探し出した。
曰く、都は大変な騒ぎのようである。
摂関家も朝廷もいまは武家の牙に慄くばかりである。後白河の権勢もいつまで続くかは分からぬ。
讃岐院の運命は、胤の頃から決まっていたようなものだ。
だが、誰が天下の天子からかような扱いを受け、遂には大魔縁と成り果てることを見通しただろうか。宗久は院の骸を焼いた煙がはるか都の方へ恋々となびいていったのを思い出した。院はいまも尚、極楽成仏から遠く離れて都の空を覆っている。それもこれも人の世、濁世の騒音が院の御霊を引き止めるからである。恨みは海よりも深い。
人の性の浅はかなことよ、帝位が何になろう。放逐され死んでしまえば皆同じ、仏と地獄の前では何にもならぬ。高貴なる院は恨みの最中で遠く遠く隔たったところへといらっしゃる。
宗久は遠く、東の方に雷鳴を聞いて、嘆息した。
今日を境に出家して、荒ぶる院の御霊をお慰めすることに余命を捧げようと宗久は決意した。
童は起き出して、土の上に正座している。童の瞳は聡明で、澄んでいた。
「父母はいるのか」
童ははっきりと首を振った。
宗久はその子を立たせると髪を落とすため、まずは由緒正しい山寺を目指して歩き始めた。
讃岐院 三津凛 @mitsurin12
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます