第36話 そしておかえりなさい。

 いい天気だ。

 二階の窓から眺める空はうんと青く晴れ渡り、今までなら絶好の洗濯日和だなあなんて七瀬春子は笑みを零す。

 随分と能天気なものだ。こんなゾンビだらけの世界で生きてる人もいるのかいないのかわからない、自分もいつ死ぬかわからない世界で。


 それでも彼女の心は穏やかだった。


 もしかしたら今日帰ってくるかもしれない。


 そう想いを寄せるのは今は亡き夫か、それとも命の恩人である不思議な男か。



 七瀬春子は夫を心から愛していた。

 一生を共に生きていくのだと誓い、夫のそばにいるだけで幸せだと思い、愛娘にも恵まれて。きっとこのまま二人ゆっくりと歳をとって、いつまでも幸せに暮らしましたとまるで童話のようにやがて人生に幕を下ろすのだ。そう思っていた。


 しかし一年前、夫は交通事故に合い……亡くなった。


 目撃者の話では道に飛び出した高校生の男の子を助けようとし、共にトラックに轢かれたらしい。

 そしてこの事故は奇妙なもので。いまだ分からず終いだが、多くの人が事故を見ていたというのに、事故の直後道に横たわっていたのは一人だけだったのだ。

 夫だけが、力なく、その場に残されていたのだ。

 共に轢かれたはずの男の子の姿は消えていた、と。周りがそんな噂話をしていた気がする。

 その頃は失意の底にいて、そんな話なんてどうでもよくて、ぼんやりとしか覚えていないが。


 二度と目を覚まさない夫と再会しても、葬儀が終わり、夫の遺骨を埋葬しても、その事実が信じられず、信じたくなく、彼女は夫の帰りを待ち続けていた。いつかひょっこりと帰ってきてくれる。それまで自分が愛娘を守ろうと……


 もう夫は戻ってこないということくらい、本当は分かっているのに。



 ぼんやりと過去を思い出しながら家事をしていると、突然玄関のインターホンが鳴った。



「……冬真さん?」


 亡き夫の名をふいに呟き……



 ――違う。



 まだ眠そうに目をこすりながら「おかーさん?」と小首を傾げている愛娘の頭を優しく撫でる。


 小走りで玄関へ向かい、そっと扉を開けると



「あっ……すみませんもしかしてタイミング悪かったですか?」



 そこには命の恩人である不思議な男、山本紘太が立っていた。どこか気の抜けた顔で困ったように笑う。


「や、山本さん! いえそんな、大丈夫ですっ」

「そうですか? でも、えーと」

「?」

 もにょもにょと口籠もり、一言。


「鼻に泡……ついてます」


「ええっ!?」


 慌てて鼻をこする。さっき食器洗いをしていた時についたのだろうか。

 は、恥ずかしい……!

 顔が熱くなるのを感じ、七瀬はそれを見られたくなくておもわず両手で顔を覆い隠す。


「ぷっふふふ」


 ああもう。笑われてしまった。

 ちらりと様子見。


「でも、元気そうで良かったです」


 山本紘太が心からホッとしたように言う。


「山本さんこそですよ! 本当に、無事で良かったです……」



 彼もまた帰ってこなかったら、と。

 最後に見た夫の姿を思い出す。

 いつものように「いってきます」と言って出ていった彼の後ろ姿を。



「……おかえりなさい」



 顔を上げる。そしていつか言えなかった言葉を口に、微笑んだ。





「えーと……」


 そんな俺たちの背後から秋月ちゃんがそろそろいいですかと声をかけてきた。


「私たちもここにいていい……んだよね?」


「あっ」


 そ、そうだった。七瀬さんに秋月ちゃんたちのことを説明しないと!


「ええと、彼女たちとはショッピングモールで会ったんですけど」

「あらー」


 俺の後ろにいた秋月ちゃんとチョコ太郎を見て七瀬さんがぽかんと口を開ける。おもにチョコ太郎に対してのリアクションだろうけど。


「草加秋月です。紘太さんにはショッピングモールで助けて頂きまして」

「そうなんですね。あ、私は七瀬春子と申します。よろしくお願い致します」


 ぺこぺこと互いに頭を下げ合う。


「えーと、この子はチョコ太郎で……その、いろいろありまして」


 本当にいろいろあったからなあ。

 チョコ太郎をなんと説明したものかと秋月ちゃんが困っていると



「おっきなわんちゃんだ――――っ!」



 家の中から花奈ちゃんが嬉しそうに走ってきた。

 そのままチョコ太郎に抱きつく。


「ふさふさー! わんちゃん可愛いー!」


「こ、こら花奈っ」

「ははは」


 相変わらず可愛らしいなあ。


「と、とりあえずみなさん中にどうぞ」

「は、はい。ありがとうございます」

「お邪魔します」

「でござる」


 こうして俺はまた七瀬さんのご自宅にお邪魔させて貰うことになって


「え? 今このわんちゃんござるって……」


「あ」


「ござる?」


「わんちゃんがしゃべった――――!!!」


 ウキャ――! と再び花奈ちゃんがチョコ太郎に飛びつく。大大大興奮って感じだ。はは、子供らしいリアクションだな。


「あわわわわ、秋月殿〜〜っ」


 さすがのチョコ太郎も花奈ちゃんの勢いにはたじたじのようだった。

 それにしても、ただでさえ大きなチョコ太郎だ。花奈ちゃんからすればさらに倍の倍くらいに見えるだろうに……子供の純粋さってすごいな……いや度胸か?

 うーむ、と。俺は花奈ちゃんによじ登られながら振り落とすこともできず「あわわわ」を繰り返しているチョコ太郎を見て、花奈ちゃんは将来かなり大物なりそうだなあと心の中でひとり頷いていた。



★★★



「スタジアム、ですか……」

「ええ。それと、自衛隊の人が言うにはもうこの近辺に人はいないようです」


 そのあと俺はショッピングモールであったことを七瀬さんに話していた。まあゾンビパンデミックのことや生存者同士のいざこざがあったことはなんとなくはぐらかしたけどな。

 こんな世界になっても人間同士の悪意が原因で命が失われているなんて、わざわざこと細かく言わなくてもいいだろう。

「そんなことになっていたんですね……」

 七瀬さんは俺の話を聞きながら少し考え込み、何か思案しているようだった。


 七瀬さん的にも何か思うことがあるのかな……もしかしてスタジアムへ行きたい、とかか?

 それなら俺が送ってあげるべきだよな。

 ここにいても俺が魔法で家を要塞化したから大丈夫だと思うけど、でもやっぱり他の生存者の人たちと一緒に避難していたいはずだし……



 そんなことを考えているとリビングのドアが開く。そこには制服からゆったりとしたルームウェアに着替えた秋月ちゃんがいて。

 髪もまだ湿っていて頰がほんのり赤い。

 うわー女子高生のお風呂上がりなんて初めて見たなー……がぶ。



 …………がぶ?



 突然目の前が真っ暗になる。



「秋月殿に対しそのような下劣な考え許さないでござるよ――ッ!」

「ギャ――――ッ!!」


 チョコ太郎が俺の頭にばくりとかぶりついていた。


「考えてないっ! 考えてないから――っ!」

「嘘でござる! ござるでござる――っ!」


 ちくしょーそうだった!

 チョコ太郎には従属テイムの影響で心が読まれるんだった! ああもう、なんとかならないのかよこれ!?

 先生もどうせ教えてくれないし、自分で解決策を模索しないとなあ……はあ。

 心の声は俺だけの聖域なんだぞ?

 下劣な考えなんて一切してないけどね。いやマジで!


 チョコ太郎の口腔内から脱出する。

「はあ、はあ……」

 まったく、ことあるごとに噛みつかれるのはごめんだ……そのうち丸飲みされそうだし。


「ん? そういやチョコ太郎、なんかお前もほんのり湿ってないか?」

「某も秋月殿と一緒にお風呂に入ったからでござるよ」

「あーなるほどねいやなるほどじゃねえ! 一緒に入っただあ!? 」

「ござるよ」


 チョコ太郎はさも当然のように頷く。それが何か? みたいな顔で。


 いやいやいやいやいや!


「おいチョコ太郎、お前雄だよな?」

「もちろん立派な武士たる雄でござるよ」


 チョコ太郎が得意げに鼻を鳴らす。

 ちらりと秋月ちゃんを見て、もう一度チョコ太郎を見る。

「ちょっとこいチョコ太郎」

 俺は秋月ちゃんには聞こえないよう少し離れた位置で改めて小声で話を続けた。

「いいかチョコ太郎、秋月ちゃんは年頃なの。で、お前は雄。つまり男ね? 俺と同じ。なのにお前……年頃の女の子とお風呂とかお前……絶対ダメだろっ!」


 最近は女湯にまだ小さな男の子を連れてきただけのお母さんでもセクハラとかなんだので炎上する時代なんだぞ!?


 しかし当の本人、いや本犬のチョコ太郎はやれやれという風に首を振ると


「いや某は犬でござるからセーフでござる」


「ちっくしょ――――!!!」



 もうただの犬じゃないくせに!

 むしろもう見た目だけでかい犬ってだけで中身こっち寄りなくせに!

 ずる、いやずるくないけど!?

 羨ましいとかは思わないけど!!!?



「わんちゃーん! 今度は花奈とお風呂入ろうねー!」

「もちろんでござるよー!」


「や、やめろおおお――――ッ!!!」




 先生、従属テイムした犬が雄のくせに女子高生や幼女さんと一緒にお風呂に入るのですが……同じ雄として俺は複雑です。


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