第39話、リーディングドラマ『トリスアギオン』を覚えていますか? そしてAIBOが発表され『ムトゥ 踊るマハラジャ』のミーナが来日する

【平成10年(1998年)6月の巻・上】


 トリスアギオンと検索サイトで調べると、出てくるのはゲームのスキルくらいです。そんなトリスアギオンという名前を持ったコンテンツでありプロジェクトが20余年前、立ち上がる兆しを見せようとしていました。


 企画したのは電通の田中渉という人物に。後に松久淳とともに『天国の本屋』を書いて大ヒットさせつつ、アニメーションでは『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』や『鉄人28号』に携わったりもするプロデューサーですが、平成10年(1998年)の時点では30歳を過ぎたあたりで、特に名前を残した仕事はしていなかったようです。それでも、オリジナルの企画を立ち上げたいという意欲はあり、アニメのスタジオや社内の詳しい人を回って賛同者を集め、形を作っていきました。それが『トリスアギオン』です。


 内容はといえば、世界で起こる災害に営利を伴わず出かけいっては人々を助ける未来版「国境なき医師団」、あるいはアニメ版「サンダーバード」、もしくは「ER」といったところ。「閉塞感にあふれている昨今の世界情勢の中で、どこかに救いを求めている人たちの気持ちを十分に惹きつける要素はある」と、当時のウエブ日記でこの企画を紹介しています。


 最初、この企画を持ち込んだのが、ノンリニア編集の第1人者として押井守監督や岩井俊二監督の作品に参加している掛須秀一でした。そこからビッグコミックスピリッツで話題の書道漫画『ラブレター』の原作をしているじんのひろあきに話が繋がり、より明確なコンセプトが形作られていきました。


 とはいえ、まったく社内的にも知られていないこの企画を、将来はアニメにして映画や漫画、ゲームに小説と広げていきたいという希望は持っていたようです。そのためにはまず、知ってもらわなくてはいけないと考え、平成10年(1998年)の6月27日と28日に、当時の渋谷にあった公園通り劇場でリーディングドラマを行うことになりました。つまりは一種の朗読劇です。


 出演するのは、『サクラ大戦』で真宮寺さくらを演じている横山智佐。彼女を迎えて開かれたイベントは、300人近いキャパの劇場のほとんどが埋まりました。2時間という長丁場の舞台、それも映像もなければアクションもない、ひたすら椅子に座って台本を読む地味な舞台でああったにも関わらず、ほとんどの観客が前を向き耳をそばだてて、読み上げられる物語の世界に聞き入りました。


 「人工衛星が墜落した街で、人ひとり救うことのできない自分の力の無さを痛感した少女が、舞い降りて来た全世界規模のお助け組織『トリスアギオン』の活動に打たれ、入隊を果たすまでを描いたもの。ヒロインこと沖野ミミカがモノローグで語る、この怠惰でのんべんだらりとした世界が、予想だにしない事故によって崩壊しつつあることへの第3者的な視点を通した懐疑には、今ここにこうして存在していることの意味なんかを感じさせられて、ちょっと胸が痛くなった。が、それすらも甘く思えるくらいに、『トリスアギオン』は世界の理不尽さを観客につきつける。それはこの世の誰が悪と正義を決めるのか、でもって自分は悪なのか正義なのかってことだ」。公演を見て書いたウエブ日記の感想です。


 「インターミッションを挟んで展開された第2部、ミミカが『トリスアギオン』に入隊して初めて出動した仕事でつまびらかになる『トリスアギオン』の闇の部分。観客は正義と悪にまっぷたつに割ることのできない世の中の複雑を見せられ、いったいどうすれば良いんだ、何が最善なんだと物語からではなく自ら考えることを問われるだろう。大勢の人を救うためにひとりの人間が犠牲となることは是か非か。古来より幾度となく問いかけられて来た命題をここで再びつきつけられて、観客は主人公といっしょに悩みながら少しづつ真実に、たぶんそれぞれに異なる真実に近づいて行くことだろう」。


 誰かにとっての正義が、別の誰かにとっては悪になるという、今も世界の紛争地域のそこかしこでみられるギャップが、ドラマの中にしっかりと描かれていたようです。アニメの企画としては、当時でも相当にシリアスでしたが、手応えはありました。「ほとんどの観客がアンケートを漏らさず記入して帰るだけのインパクトを持った作品だ。遠からず何らかの形で絵となるか、音となるか映像となるかして、僕の前に姿を表してくれるだろう」。そう日記には書かれています。


 けれども、残念なことに企画は滞り、今に至るまで復活する兆しはありません。それどころか、存在すら忘れられて検索にもひっかかりません。瞬間の花火だったのでしょうか。それも不発の。違います。こうして覚えているわたしがいて、たった4回の開催で、今となっては幻とでも言いたくなるようなリーディングドラマを劇場で見た人たちがいて、そして手がけたクリエイターがいる以上はいつか復活してくれると信じたいです。


 微力ながら20余年前に企画書をまるっと写し、舞台の感想も添えた『トリスアギオン』のサイト(http://www.asahi-net.or.jp/~WF9R-TNGC/trisagion.html)を作りました。見てもし、これは復活させたいと思う人がいたら嬉しいのですが。というか田中渉は今どこでなにを。当時一生懸命に記事にして、個人でサイトも作ったわたしが路頭に迷いかけている今この時に、現れて抜擢して欲しいものです、声優に。それは無理? でしょうね。


 1990年代後半のソニーを象徴する製品と言えば、やはり思い浮かぶのは家庭用ゲーム機のプレイステーションであり、犬型ロボットのAIBOでしょう。携帯型音楽プレイヤーのウォークマンに、フラットな画面が特徴的なトリニトロンのテレビモニターといったオーディオビジュアル関連製品こそがソニーの旗頭だったイメージが薄れ、出井伸之社長(後に会長)が提唱した「デジタル・ドリーム・キッズ」というキャッチフレーズの下、ロボットだとかゲーム機だとかインターネットだといったデジタル絡みの製品やサービスを次々と繰り出して、最先端企業といったイメージを世間に植え付けました。


 それが良かったかどうかは、今のソニーがプレイステーション4の成功を看板に掲げていることからある意味で正しく、けれども家電やAVや半導体や電子部品といったソニーの足下を支えた分野がどうなっているかを見たに、漂う寂しさといったものがあります。何しろAIBOも途中で事業が終わってしまって、故障したロボットを修理する場所もなくなって、それを専門に行うサービスが誕生したくらいですから。


 そんなAIBOが発表されたのが1998年の6月10日。ロボット事業というから本田技研工業の2足歩行ロボットASIMOのようなものを出してくるのかと思ったら、犬にそっくりな4足歩行のロボットでした。「これだったら八重洲地下街をピュウピュウ言いながら歩いている縫いぐるみ状の犬“ロボット”の方が可愛いぜって言いたくなる」と酷いことをウエブ日記には書きましたが、登場した製品はしっかりと動いて人にも甘える、まさにわんちゃんと呼べるものに仕上がっていました。そこは謝らなくてはなりません。


 当初、AIBOはハードウエアをモジュールにしていて、足を車輪に交換しても、CPUが認知して計算して走るようになるといった仕組みが導入されるとアナウンスされていました。ソフトウエアもモジュール化がされていて、入れ替えれば様々な動作をとらせることが可能となっていました。結局、リリースされたAIBOは手足を交換するような遊びはできませんでしたが、メモリースティックを使ってソフトを加えることはできました。犬型ロボットとしては究極で、確か25万円はしたのに予約が始まれば即完売という盛況で、ソニーへの評価を引っ張りました。


 そのAIBOも2004年に撤退のアナウンスが出て終焉に。ところが2018年、aiboとして復活して今一度、テクノロジーとエンターテインメントという分野でソニーのカラーを彩るような活躍を見せ始めています。ソニー・ピクチャーズエンタテインメントが手がけた「スパイダーマン:スパイダーバース」が大ヒットするなどエンターテインメントな会社という色を、より深めるアイテムとして必要だったのでしょうか。いらないと思われても復活できるなら、自分だってと思うのですがそもそもAIBOのような人気がなかったのだからこれは無理。せめてだから今のaiboは耐えることなく続いて欲しいものなのです。


 『バーフバリ』で今また話題になったインド映画が前に話題になったのは、平成10年(1998年)4月に日本で『ムトゥ 躍るマハラジャ』が大公開された時でした。3時間以上ある映画のそこかしこにダンスがあり、アクションもあってと楽しい映画を彩ったのは主役のラジニカーントと、ヒロインを演じたミーナでした。そのミーナが来日して、ポニーキャニオンで会見を行ったので見に行きました。インド風の衣装に身を包んだボディはボリューム感にあふれていて、歩くたびに空気までもが揺れるといった印象。サイズは上から98、65、105。身長は167センチで体重56キログラムとあって、とてつもないグラマラスぶりでした。


 エステについて聞かれて、「別に特別なことはしていません、ただしモイスチャーとクレンジングは欠かさないよううにして、いつも膚に潤いと湿気を与えて時にはスチームもかけて乾かないようにしています」と答えたようです。割と普通ですが、それを欠かさないからこその美貌なのでしょう。同時期に3本とか4本の映画にかけもちで出演して、忙しさに恋人も作る余裕がないと言い切っていました。あまりの人気ぶりに、血で書かれた手紙が送られてきたということも話していたのかな。そんな記述がウエブ日記にありました。あれから20余年、今もお美しさを保っておられるのでそうか。気になります。


長くなりましたのでこの月は分割します。


平成10年(1998年)6月のダイジェスト、上編でした。

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