第三章 青年期 新人拳闘士編

51話 商人の娘

 その日のマスタング邸は朝から修羅場であった。

 朝食の並んだ食卓に、バンっと両手を突くとロゼッタは立ち上がり声を張り上げた。


「そんなの聞いていないわ!」


 ロゼッタは怒り心頭と言った様子で、対面に座り食事を続けている父トーレスのことを恨めし気に睨み付ける。


 18歳になったロゼッタは見目麗しく成長していた。

 長く美しいブロンドヘアーを後頭部に編み上げ、真っ白な肌に切れ長の碧い瞳は、少しキツメな印象を漂わせてはいるが、高貴な雰囲気を纏わせている。

 そんな美貌を持つ大商家のお嬢様であるロゼッタは、様々な良家からの縁談を持ちかけられていた。


「言った筈よパパ。私は結婚なんて考えていないって!」

「食事中だぞロゼッタ、いいから座って話を聞きなさい」

「なによ、気取っちゃって……」


 トーレスに睨み返されると、ロゼッタはぶつくさと文句を言いながらも椅子に座り直した。

 マスタング家は大商家と言っても貴族ではない。

 トーレスが一代で築き上げたマスタング商会は、今では様々な分野に裾野を広げている。

 陸は勿論、今では海洋業なども盛んに行い、海を超えた交易はマスタング家に莫大な資産をもたらした。

 要するに貴族達は、そんなマスタング家の資産を目当てにロゼッタとの縁談を持ちかけてきているのだ。

 当然トーレスはそれを理解している。

 娘を貴族の家に嫁がせることができれば、ますますマスタング商会は盤石であると考えている。そのことがロゼッタのことを余計に苛立たせた。


「おまえももう十八だ、いい加減に縁談の話が一つや二つ出て来ても当然のことだろう」

「ふん、私よりもマスタングのお金と結婚したい奴らでしょ。パパだって、貴族達とのパイプを作る為に私を利用しようとしているだけじゃない」

「ロゼッタ、少し言いすぎですよ。父親にむかってそんなこと」

「ママだって私のやりたいことを知っているでしょう! どうして今なのよ、もう少し待ってくれたっていいじゃない!」


 ロゼッタのやりたいこと。

 彼女は兼ねてより、独立して父のように商売をしたいと思っていた。

 しかしそれは父の後を追うと言う意味ではない。

 自分の娘でさえ、まるで商品のように扱う父のような商人にはならない。

 人は商品ではない、人が商品を生み出すのだ。その思いを胸に独立を考えていた。


 その為にこの三年間、ロゼッタは勉強をした。

 そして父について周り、色んな商人達に名前と顔を覚えてもらった。

 商売とはコネである。どんなに良い商品を扱っていても、それを買ってくれる者がいなければ商売ににはならない。

 商売とは物を売るのではなく、自分自身を買ってもらうことであるとロゼッタはこの三年間で学んだのだ。


「お願いパパ、こないだの商談だって私の力で上手く纏めてみせたでしょう?」

「おまえの力だと? 自惚れるな。あれはガリウスが一緒に居たから纏まった話だろう」

「どうして私のことを認めてくれないの? わかったわ! パパは私のことが怖いのよ! 私が商人としてパパ以上に成功することが悔しいのよ!」

「ロゼッタ、なんてことを言うの、パパに謝りなさい!」


 トーレスは大きく嘆息すると、朝食を切り上げて席を立った。

 ロゼッタはそれ以上何も言えずに、唇を噛んで目に涙を浮かべている。


「ロゼッタ、パパはあなたのことを心配しているのよ? 女がその身一つで商人になろうだなんて、そんなに甘い世界ではないことは、あなただって重々理解しているでしょう?」

「わかってる……でも、私には私のやりたいことがあるの……やらなくてはならないことがあるのよ……」

「拳闘のことでしょう?」


 ロゼッタの母は大きく溜息を吐くと、困り果てた様子でそう尋ねる。

 その言葉には返事をせずに、ロゼッタは俯いたままでいた。


「パパもママも、三年前のあの日以来。あなたが心を痛めていることは知っているわ。でもねロゼッタ、これだけはわかって欲しいの。自分の子の幸せを願わない親なんていないのよ。あなたが、良家に嫁いでくれれば、こんな安心できることなんてないわ。だから考えておいてね」


 そう言い残して母も席を立つと、食卓にはロゼッタが一人残される。

 話しを聞いていたであろうメイド達は、素知らぬ顔で淡々と食器を片していた。



 ロゼッタは自室に戻ると、何もやる気が起きずベッドに飛び込んだ。

 うつ伏せになり枕に顔を埋めながら昔のことを思い出す。


 もう二年近く、拳奴達の練習場には顔を出していない。

 ロワードが拳闘試合で命を落してから、ロゼッタはショックのあまり一度は拳闘のことを忘れようと思った。

 拳奴達と仲良くする内に、情が移ってしまっていた自分に気が付いた時、商品である奴隷と深く関わるべきではないと思ったのだ。

 しかし、それは無理だった。

 忘れようとしても思い出してしまう、何度も何度も頭の中から追いやろうとするけれども、その度に浮かびあがってくるあの光景、熱、興奮、コロッセオを埋め尽くした大観衆の上げる歓声が耳から離れなかった。


 そして湧き上がるもう一つの思い。


 ある晩、偶然目にしてしまったあの光景。


 ロワードの死を前にしても涙を流さなかったロイムが、クイナの胸の中で泣き声を上げる姿を思い出す度に、ロゼッタは胸が締め付けられる思いになるのだった。

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