あなたのキスはチョコの味

吹井賢(ふくいけん)

あなたのキスはチョコの味



 彼女との初めてのキスは、かなり唐突だった覚えがある。

 もう三年も前のことで、しかも、相当に緊張していたものだから、彼女が何を話していたかは全然覚えていないけれど、その時の彼女の驚いた顔だけは鮮明に思い出せる。

 付き合い始めてすぐのことだった。

 僕達は夜の公園にいて、それは何度目かのデートというやつで、二十歳になるまでロクな恋愛経験もなかった奥手野郎が頭を捻って考え出した結果、そんなところに赴いた。大学の近くだが小高い丘になっていて、多少は夜景が綺麗だから、という理由だった。

 二人で並んでベンチに腰掛け、眼下に広がる街を見ながら、壊れかけの自販機で買った缶コーヒーを飲んでいた。

 彼女の横顔は、とても綺麗で。

 夜風が吹くとセミロングの髪がサラサラと揺れて。

 コーヒーの匂いに混じり、彼女の香りがして。

 本当にどうしてこんな人が僕と付き合ってくれたんだろう?と、只管に疑問だった。

『もう三月も終わるけど、まだ少し、寒いね』

 そう言って、彼女は鞄から袋入りのチョコレートを出すと口に入れた。

 その瞬間、僕はその形の良い唇から目が離せなくなって、気が付いたら、抱き寄せキスをしていた。

 彼女は目を真ん丸にしていたけれど、驚いたのは僕も同じで、何故そんなことをしたのか、どうしてそんなことができたのか全く分からなかった。ただ、どうしてもそうしたくなってしまったのだ。好きという気持ちが抑え切れなくなったのだ。

 そう、彼女に告白した時と同様に。

『……あ、その……!』

 我に返り、思わず距離を取ろうとするも、右手を掴まれた。そうして、逃げちゃ駄目、と言わんばかりに固く手を握られた。

『……ビックリした。こういうこと、いきなりする人だと思ってなかったから』

『ごめん……』

 いいよ、と彼女は言って、「こうなるって分かってたら甘いリップを塗ってきたのに」とはにかんだ。

 尤も彼女との初キスは十分に甘いものだったのだけど。


 後から知ったことだけど、彼女が僕の告白を受けてくれたのは、「優しい人に見えたから」だったらしい。

 実のところ、彼女も彼女で恋愛経験がなく、異性に対し恐怖心に近い感情を抱いていて、想いを伝えられても断ってきていたという。そんな中、僕だけは優しそうに見えて、好意を抱いたとか、なんとか。本人である僕に言わせると根暗なだけだったと思うのだけど、何が幸いするか分からないものだ。

 今はもう、部屋を行き来するのが当たり前になったが、当時を思えば考えられないな、と一人笑う。

 チャイムが鳴ると、ガチャリという鍵の音が響く。

 壁掛け時計に目を遣った。泊まりに来るとは聞いていたものの、思っていたよりも随分と早い。

「ただいまー」

「うん、おかえり」

「あー、つかれたー」

 パンツスーツ姿の彼女は、あの頃よりもずっと美人になった。僕はどうだろう? 彼女に相応しい男になれているだろうか? 怖いので訊ねることはしないけれど、そうなれるように努力はしたいと常々思っている。

 彼女は鞄を手渡すと、そのまま抱き着いてくる。玄関先でもお構いなし。「あー、落ち着く」。僕は落ち着かない。未だにドキドキする。

「ホワイトデーのお返しは? 結局、どうしたの?」

 体重を預けられ、耳元で囁くように問い掛けられた。

 感じるのはくすぐったさと恥ずかしさ、そして、気持ち良さ。頬が赤くなってきたことを気付かれないように、顔を背けるようにして、「いつも通りにチョコにしたよ」と応じた。例年通り。

 本当は気の利いたプレゼントの一つでも用意したいのだけど、何が欲しい?と訊いても「一緒にいられればいい」と答えられてしまって、自分で考えようとしても、服飾品を選ぶセンスもない粗野な男子にはお手上げ案件だ。

「冷蔵庫の中? 出してもいい?」

「もちろん、どうぞ。あなたの為に買ってきたので」

 体温が離れる。彼女がそこそこ高級なチョコレートを取り出して、丁寧に包装を解いていく。リビングで座って食べればいいのに、コーヒーでも淹れるから。そう告げるよりも早く、彼女は一つ目を口に入れていた。

 相変わらず綺麗な唇だ。

「……うん。美味しいよ」

 彼女が笑う。

「だったら良かった」

「はい。そっちもね」

 言うが早いか、チョコを口に押し込まれる。口の中に甘い味が広がる。

 同時に、彼女に口付けられた。

 抱き着かれ、キスをされた。

「……っ、ん……!」

 最初は軽くなぞるように、次に上唇を甘噛みされて、そのまま一舐めされる。

 ぞくりとした快感に背中を震わせる暇もなく、彼女の舌が咥内に入り込んでくる。口蓋を擦り上げられ、また形容し難い心地良さに頭が犯される。半分ほど噛み砕いたココアの風味と彼女の匂いが混濁して鼻腔を満たし、脳全体がアルコールに浸けられたようにぼうっとしてくる。

 舌を絡ませ、唾液を交換する。お互いの舌の上に交互に乗せ合うようにして、チョコの欠片を口の中で転がす。そんなことをしている内に、お洒落な名前のショコラは原形なく溶けていった。

 このまま僕達も溶け合ってしまえばいいのに。そんな有り得ぬ妄想をしながら、夢中で互いの味を確かめ合う。唇が触れ合うごとにお互いの腕にも力が入り、強く、強く、抱き締め合う。舌を歯で撫でられ、やがて強く吸われる。僕まで食べられてしまいそうだ。

 それもいいかもしれない。

 なんて思ってしまうのはバカップルが過ぎるだろうか?

「……うん。こっちも美味しかったよ」

 五分近く続けたキスを終えた彼女は、はにかんだような笑顔を見せる。僕も同じような表情をしているだろう。

 これももう、恒例のこと。

 僕がチョコレートを食べていると、決まって彼女は口付けてくる。初めてのキスの意趣返しとでも言わんばかりに。

「シャワー浴びてくるね。残りはお風呂から上がった後に食べるから」

「じゃあ、コーヒーでも用意しておきます」

「よろしくお願いしまーす」

 言うや否や、彼女はあっという間にユニットバスへと消えていった。

 一人になった僕は、自分の唇のなぞり、先ほどまでの感触を思い出していた。


 初めてのキスはチョコレートの味がした。

 三年後の今も、それは変わらない。

 彼女とのキスは、いつまでも甘いものであって欲しい。

 できることなら十年後も、二十年後も、その先もずっと。


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