第136話 ささやかな成果
風もなく静かで、頭上を見上げれば枝葉の隙間から揺れに邪魔されることなく、夜空と光の帯が見えた。そこに重ねるのは、イフレニィの脳裏に過る昼間のことだ。様々なことが詰まった一日だった。
見張りを買って出たイフレニィは、セラとバルジーの二人を先に眠らせ、ぼんやりと枯れ枝の間にくすぶる火を眺めていた。まずは髭面が見張りをすると言いだしたことで、警戒は解いていないと態度で示したということもあるのだが、他に気になることもあった。髭面の目的を確かめるべきだと決めたのだから、良い機会である。まともに返事があるなど考えてはいないが、これはイフレニィ自身が決めた、けじめなのだ。
今、髭面がここにいる理由など分かりようもない。もし戦うということにでもなれば、自分は死ぬだろうと思えた。そして、二人を逃がしてやることもできない。
「そう、力むな」
不意に、髭面がくぐもった笑いを漏らした。
「可笑しいか。それだけ疑われるような行動を取っておいて」
腹を立てるでもなく、イフレニィは淡々と返す。組合からの断片的な情報とはいえ、ずっとイフレニィの旅の行き先を追っていたのは確かなのだ。回廊対策の準備が整ったことで手が空けば、今度は直接関わってきた。元老院へは、イフレニィらも急遽予定したことだから偶然かもしれない。しかし、行き先が同じならということだろう、無理に同行してきた。元老院が考える、トルコロルの民との協議による策だろうか、それは帝国側にも得があることなのだろう。だが、あくまでも賛同していると見せているだけのようで、積極的な行動の全ては女騎士の要望だと、これまでは思ってきた。それも勘違いだったなら、もはやどうすれば良いのか、イフレニィに打つ手はない。
「俺に、何の用がある」
それでも、疑問を口にしていた。
「用か。特には、ない」
ふてぶてしい返しに、思わず睨みつけていた。思い返してみれば、女騎士の陰にありながら、常にこちらを観察しているようだった。今もただ、監視役を引き受けてきただけとでもいうのだろうか。
こちらの大陸では裏から様子を探ろうにも、帝国の息のかかった者はいないだろう。街の住民ならまだしも、あの元老院の様子では、人を送り込むのも難しいように思える。それで髭面自身が、こうして動くしかなかったのかもしれないと考えてもよいのだが、それには髭面の立場が重すぎる。
建前だろうと元老院への使者として訪れたのならば、その用件を済ませずして、こんなことに時間を割くほど暇を持て余しているものだろうか。危機への対処を急いでいながら、随分と余裕のある態度が、個人的に鼻につくだけなのかもしれない。イフレニィは、好んでこんな場所まで渡って来たわけではないのだ。
「……どうせなら、爺共と遊んでろ」
思わず愚痴が漏れていた。精神的な疲労が相当に蓄積しているのは自覚している。
それからは無言を貫いた。どのみち、返された一言以上の言葉を引き出すことなどできないだろう。
だが、と、イフレニィは、これまでに髭面と交わした場面を思い返す。髭面の一言は、長さ以上の情報が詰まっているようにも思えていた。
特に用はない――特別にでなければ、あると言ったも同じだ。
セラと見張りを交代したところで、髭面も横になった。それを見てイフレニィも、わずかに緊張を解いて眠りにつくも、明け方には目が覚めていた。眠っている間に何事かが起こることもなく、いつものように手早く支度を済ませる。
街道は一本道のようだったが、髭面が地図を取り出し距離を測る。やはり髭面は、このまま同行するらしい。どこまで進むかと大体の予定を立て、旅立つ準備は整った。
イフレニィは、セラに問いかける。
「本当に、いいのか」
もう一度、セラの心積もりを確かめたかった。
「朝から暗い顔をするな。本当に十分だよ。その理由を道中話そう」
そう言いながらセラは、荷車を引き始める。イフレニィは、真顔になった。
――待て、理由は聞きたくない。
「あんた用に考案した魔術式があったろう」
想像通りだ。無意識に拒否しかけるが、歯を食いしばって堪える。
「ここのところ、精霊力の流れに干渉する魔術式の構築に取り組んでいる。制御に関する式なんだが、あの広間の魔術式は、まさに精霊力の流れを誘導し意図的に形作る、そういった仕掛けが施されていた」
どこか遠いところを見つつ、セラは話し出した。
「そうか」
イフレニィは、どうにか頷くことしかできない。
「俺が持って行きたい方向と同様の効果を持つものではないが、大いに参考になった。今度の改編には期待してくれ。そうだ、その制御機構がだな……」
言っていることでイフレニィに理解できるのは、一応は同じ言語体系を持つらしく、発音を聞き取ることができることのみだ。要するに、意味はさっぱり分からない。
バルジーは相変わらずこういう時は後方で大あくびをし、そっぽを向いている。これを初めて目の当たりにした髭面は、眉を顰めていた。だが、これが自分に対するものでなくて心底安心したというような口元の笑みに気付いてしまい、イフレニィは恨めしく見ることしかできなかった。
一週間もかけた船旅の結果、目的は果たせず、元老院へは半日ほど閉じ込められていただけ。
セラの目的を叶えてやれず、心残りではあるが、戻ると決めたなら早く行動した方が良い。なるべく元老院から離れるべく来た道を戻り、ひとまずは拉致された渓谷を目指していた。行きがけの馬車では、休みながらも一日かけた距離だ。セラにも普段よりは急いでもらうよう話したが、それでも徒歩だと二日だろうか。
そんな方針を決めた後は歩くのみ、なのだが、セラの恐ろしい魔術式に関する考察だけは途切れることなく続いていた。
イフレニィは、それを罰だと心して聞いた。
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