第102話 浮舟
午後も半ば、魚主人は荷運び作業員らに解散を告げた。
「お疲れさん! 今日はしまいだ。とっとと帰れ!」
疲れを言い訳に話しこもうとする連中を、追い立てるように手を打つ。随分と早い切り上げだが、朝も暗い内からの仕事というだけでなく、運動量の多さもあるのだろう。イフレニィも目が眩むような気分で日の高い空を一仰ぎすると、皆と別れて室内に戻った。すぐに汗を流し、洗濯も済ませてしまう。どのみち明日も同じ仕事だ。あっという間に汚れてしまうのだから、怠けるわけにはいかない。
部屋に洗濯物を干し終えると、隣室の扉を叩いてみたが人の気配はない。出かけようとすると、魚主人から伝言を受け取った。また二人は食材の確保に出かけているらしい。すぐに入り江に向かう。まだ早いが、すっかり空腹だった。
「どうだ」
振り向いたセラは満足気な顔だ。それで答えは分かったようなものだ。
「
バルジーが籠を海から引き揚げた。
「もっと大きなものを借りれば良かったな」
「そんなに釣ってどうする気だ」
イフレニィの呆れを含んだ問いかけに、セラは真面目に答える。開いてよく焼き部屋に吊るしておけば明日も食える、などと言って張り切っていた。明日、部屋が悲惨なことにならなければいいがと思いつつも、パンに挟んで食べたら美味しそうだと僅かながら期待してしまっている。駄目になったなら、魚主人からちゃんとした干物を買えばいいことだ。
昨日と同じくイフレニィは火の準備を始める。棒に刺した魚に火が通ると二人を呼んだ。また三人並んで齧りつく。二匹ほど平らげて腹が落ち着くと、珍しくセラから率先して世間話が始まった。世間話と言えど、セラが仕入れてくる情報は馬鹿にならない。が、どうも様子が違う。微妙な面持ちだ。
「あんたから聞いた話だと、北方で精霊力の活性化があるんだったな。それが、こんな南方でも既に噂は届いている……そういった話を耳にする度に、考えてしまうんだよ。このまま海を渡っていいのかと」
その気持ちは、痛いほど分かるつもりだった。しかし国も動いているし、人も物資も集めているのは目にしている。一人がどうこうしたところで、即座に状況が変わるわけではない。少なくとも、イフレニィはそう自分を納得させてきた。
思えば、そのようなことを隊商市場でも聞いている。あれから気にする素振りは見せなかったが、心配を募らせていったのかもれしない。そこに、この街で新たな噂を耳にして心が揺れたのだろう。セラの場合、符の作成で直接的な支援ができるから、より身につまされるに違いなかった。
それでも、何年とほっつき歩くわけではない。
「今日明日で、どうにかなると思うか」
すでに悩むような時点ではない。イフレニィ自身の目的の為だけで、そう言ったつもりはなかった。この異変を、もしどうにかできたなら、その後にも人生は続く。
「……思わんな」
セラは軽く息を吐いて、立ち上がる。
「よし、釣ってくる」
その背に、声を掛けていた。
「船内で、符を作りまくれよ」
セラは黙って頷き、釣り竿を手に、さらに隅の方へと場所を移していった。あのセラにも魔術式以外の苦悩があるのだと、改めて同じ人間であることを考えないではいられなかった。無論、人類どころか全てを消してしまうだろう精霊溜りを前にすれば、誰の心にも何かが過るのは当たり前のことなのだろうが。
魚に齧りついていたバルジーが、セラが離れたのを見届けてから呟く。
「私たちが悠々と海を渡るために、せいぜい暗い水底で働くといいよ」
お前だけ沈めてやろうかと思いながら横目に見て、嫌味を言う気は失せた。バルジーはセラの背を見ているようでいて、ただ宙に目を向けているだけのようでもある。心ここにあらずといった表情で、ひたすら魚を平らげていく姿は不気味ではあるが、いつものことだ。ここ数日感じていた、どうも場が静かだと感じていたことは気のせいではないらしい。腹でも下しているのだと思っていたが、目を輝かせて魚に齧り付いていたし、顔色は健康そのものだ。バルジーは手元の串を食べ終えると、セラとは逆の砂浜の端へと歩いて行った。
イフレニィは骨などの残りを火にくべ、場を片付ける。
ここのところ、絡まれるのが面倒なこともあって話を避けていた。イフレニィも立ち上がると、バルジーの方へ向かった。
「結局、国内に原因の糸口はなかったな」
声を掛けると、バルジーは俯き気味のまま視線だけよこし、判断しづらい微妙な面持ちで頷いた。一人になりたかったのかもしれない。かと言って滞在中は宿の依頼を受けているイフレニィに他に話す機会はなく、明日は機嫌が良くなっているとも言い切れない。それに、この様子は何か変化の表れではないのかとも思えた。
こと、この件に関しては特に気難しいバルジーに対して、気を遣いつつ尋ねるなどイフレニィには骨が折れる。
「護衛依頼が終わったらどうする。実際の経験はともかく、旅人になってからの実績は少ないと言ってたよな」
なんらかの原因である目的地との距離は近付いているのではないか、ならば旅の終わりも近く、その後のことも考えられるのではないか。そういったことを仄めかしてみたのだが、バルジーは軽く下唇を噛む。まさに今、避けたい話題だったらしい。物悲しげに海を見ている。海を通して、どこか遠くの景色を見ている。
「会いたい人が、いるの」
イフレニィは息をのむ。全身で拒絶を表しながらも、バルジーの声はしっかりしていた。これまでにない、重要なことを伝えようとしている――。
「この精霊力を持つ、その人のことを考えようとすると、両親のことも思い出す」
驚きを隠せなかった。明確に、『その人』と言った。
「お前、まだ何かあるのか」
この女に関しては印との関係に当てはまらないと、判断を下した。例外ではないかと、考えもした。それも今までの情報からだ。欠けた情報のせいで繋がらなかった可能性が高いではないかと、つい頭に血が上り話を遮ってしまった。
しかしバルジーは首を横に振った。
「違うよ。ただ……うまく、言葉に出来なくて」
苛立ちと、逸る気持ちを抑える。イフレニィ自身、覚えがあることだ。触れられたくないことに関連すれば、思考も掻き乱される。
「両親は旅人になりたくてなって、それに誇り持ってて、私も旅人になるんだって疑わずに生きてた。でも、異変の後は全部忘れたくなって」
バルジーの話は過去へ飛んだ。先ほどセラに対して感じたことと同じく、現在の北の異変の話は、バルジーへも影を落としていたのだ。
歯を食いしばり、先を促したい気持ちを堪える。聞いておかなければならないだろう。イフレニィは一度、気持ちを叩きつけてしまっている。聞く番が来たのだ。
「しばらくは、北にできた難民を集めた村に保護されて暮らした。村も幾つか回って、農作業とかね、手伝いをして過ごしてた。村も落ち着いてくると、私もぼんやり生きるよりは旅人になろうと、ようやく思えて出てきたの」
潮風を正面に受け、泡立つ海上を眺めたまま、バルジーは言葉を紡ぎ続ける。
「ユリッツさんへの感謝は、私に両親の矜持を思い出させてくれたこと。値段なんか関係ない、命を懸けて護衛するんだって気負ってさ……随分離れてたから、腕は鈍っちゃったけど」
沈み行く日に照らされ、全身を赤く染めてもなお、瞳の翳りは覆い隠せない。
「小さいころ、海、ざばーんって……お父さんとお母さんと、回廊の砂浜で水を掛け合って遊んだ。楽しくて笑える思い出のはずなのに、思い出すと、胸を掻き毟られるように辛くなる」
山で呟いていた、能天気な声が思い出された。あのときも、どこからか放たれる信号を捉えていたということなのだろうか。
「もう取り戻せない、懐かしい何かだから」
言葉を止めたバルジーは、波をじっと見つめた。その黙り込んだ横顔から視線を外せず、かといって言葉も出ず、様子を見守る。
「懐かしいって、そんな気持ちと同じものを感じるのよ――その人に」
そう、繋がるのか。
それは精霊力が作用する度になのかと、高まる鼓動が言葉を押し出す。
「どこで、会った」
「会った事はないよ。私だって必死で記憶を辿った。でも、思い当たる人はいなかった。だから、こうやって探してるんじゃない」
「なら、その誰かを探せばいいんだな?」
「それも、あなたに話を聞いてから、勘違いかもしれないって思ってる。意図して使うんだから、人だよねって思ってただけだから。でも、道具だって言われた方が納得できるし」
言葉が出ない。また振り出しに戻る不安に喉が詰まるが、どうにか絞り出す。
「どっちにしろ、人の意志は介在する」
「そうだけど……」
「分かった。俺は、原因を見つけたら、干渉を止めてもらう。お前は、そいつに会ったらどうする」
バルジーは真剣に考え込んでいるのか、眉を顰めた。
「うーん、殴る、かな?」
「何故そうなる」
会った事もないのに、懐かしいなどと言った相手に出る言葉なのかどうか。それはイフレニィこそ言いたいことだった。
「だって、この変な精霊力がまとわりつかなければ……みんなと一緒に、幸せなまま、時は止まってくれたのに」
イフレニィは、バルジーの視線の先にあるものがなにか、ようやく気が付いた。水面に揺れる葉だ。
「なんで、一人だけ、生きてるんだろうね」
沈むかと思えば、波間に再び身を浮かべる。
周りに翻弄され、なすすべもなく踊る葉を。
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