第101話 海の幸
イフレニィは小窓を塞ぐ戸板を開いた。硝子のない木枠から頭を出すと、上空を意識しないように暗い空と海の境を見据える。微かに紫がかっているが、日の出には時間がある。着替えを済ませると部屋を出た。依頼集合時間が早かったのだ。漁村からの依頼だからか、それは漁師ではないのか、運び屋は何をするのかと考えつつ外へ出る。足を止めて、宿の出入り口に掲げられていた灯かりの下で、依頼書の簡易地図を見る。集合場所の目印を確認すると周囲を見渡し、後に再び宿へ戻っていた。
すでに人が集まり始めていた宿の作業場から、魚主人が不思議そうに振り返った。
「あんちゃんどうした。忘れもんか?」
――あんたの依頼かよ。
当然、依頼主欄には「潮流亭」という宿の名が書かれてあるわけではない。依頼書を見せて尋ねれば、魚主人は笑いながら、ここで間違いないと請け負った。
「がっはっは。客が仕事受けるんじゃ、水車みてえだな」
魚主人はよく分からないことに例えながら、付いて来いと手で合図を送り背を向ける。宿の受付兼解体作業場の奥にあった、大きな両開き扉が開かれると、眼前に砂浜が広がった。狭い砂浜の端には、小さな漁船が数艘並んでいる。吊るされた灯火が、波に合わせて揺れている。狭い桟橋の周辺には木箱などの荷物が積まれてあり、その間を人が行き来していた。
「よっしゃ、揃ってるな!」
すでに顔馴染みらしい地元の作業者が、魚主人と挨拶を交わし合う。イフレニィも簡単に挨拶を済ませると、即座に上着を脱ぐことに決めて宿に預け、輪に混ざった。
すぐにも怒鳴るような指示が飛び、それに応えて作業員らから威勢のいい掛け声が上がった。連携して大きな荷車へと手早く荷を積んでいく。獲れたての魚が詰まった箱もあったが、魚主人は漁師ではないらしい。潮流亭脇の場が便利な位置にあるから、近所の漁師からの荷を取りまとめているだけとのことだった。
潮流亭では加工が主な仕事のようで、主な荷は捌いた魚や、干物などになるようだ。この浜から街の市場まで、それら様々な形状に変えられた魚を運んだ。その後、渡した荷と引き換えのように市場から預かった荷物を、店などの各所へ搬送していく。一旦戻れば別の積荷が待っている。今度は生臭い大袋の山だ。中身は捌いた魚の残りとのことだが、これは飼料にするらしく、街外れの村まで運んでいくことになった。とにかく、荷運びに次ぐ荷運び。一日に様々な場所へと移動した。忙しい街だ。
かなり早めの昼休憩に、宿まで戻ってくると、皆が汗だくで砂浜に座り込む。まだ暑くなるような季節ではないが、日が高くなれば、まるで焼かれるような気分になった。
休んでいる者達が雑談に興ずる脇で、解体の作業員達が捌いた魚を木箱の底だけ切り取ったような板に並べているのを、イフレニィはぼんやりと眺めた。平たく並べられた板が、幾つも積まれていく。そこから湯通ししたり、乾燥させたりと様々に加工していくらしい。
しばらく呆けていると、魚主人から威勢のいい声が飛んできた。
「待たせたな。飯だぞ!」
魚主人が抱える大きな木の板には、串焼きが山盛りに載っている。全て魚のようだった。食事は余りものから賄われるらしい。力なく座り込んでいたのが嘘のように、皆は芳ばしい匂いに群がっていく。
「さあ食ってくれ。名物ポトラン焼きだ!」
新顔だからか、客でもあるためか、魚主人はイフレニィに他より一回り大きな串を手渡してきた。受け取って困惑する。長細く丸みのある姿は、随分と妙な形だった。焦げ目の付いた白っぽい表面はなめらかで、白身を切り取ったようにも、鱗だけ削ぎ落としたようにも見えない。おまけに半分は細かく切り裂かれ、幾つも結び目をつけた紐のようになっているのだ。わざわざこのような形に整えたのではないだろう。何本もの紐が、縮れるように絡まりあっているところは不気味としか言えない。
本当に食い物なのだろうかといった不安はあるが、名物と言った。
「ポトランってのが、こいつの名前か」
誤魔化すように振った話題に、周りから一斉に笑いが沸き起こった。魚主人は大仰な動作で背を反らせたかと思うと、起き上がって呆れた顔でイフレニィを凝視する。
「おいおいぃ来た街の名前も知らねえのか! 入口で立て札見ただろ。その目は節穴か?」
「……生憎と、見てなかった」
藪に埋もれており、用を成していない立て札自体だけならば見たが。
「仕方ねぇなぁ」
そうして魚主人や地元民である者らが、ちょっとした街の紹介などを面白おかしく披露してくれるのへと耳を傾ける。この謎の魚がいつでも食べられるのは、この街くらいのものということで、この串焼きに街の名、ポトランを冠することにしたとのことだ。
手持ちの安い地図などでは、小さな拠点は記号でそうと分かる程度のものだ。しばしば小さな街の、長く滞在するのでもない場所の名などは確認せずにきた。イフレニィにとって、何かの名というものを記憶することへの興味が薄いせいもあるだろう。
――何百年と名を継いだからなんだ。そんなもん、一晩で消えるじゃないか。
余計な考えを撥ね退けるように、渡された串焼きに齧りつき、思わず吐き出しそうになった。
「おう、美味いからってがっつくな。まだまだあるからな!」
どうにか頷き、水を呷る。口に残る風味は芳ばしく、食欲をそそるものだ。まずくはない。まるで石鹸を噛んだような弾力があり、これまで経験のない食感だったため吐き出しそうになったのだ。我慢して咀嚼すると、確かに、味は悪くなかった。
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