第39話 緩やかに
どこまでも動きがない景色が、その目に映っているのかどうか。イフレニィは、茫洋とした空の果てへと顔を向けていた。そうすれば光の帯が視界に入りづらいと気付いてから、自然とそれが定位置のようになっている。
青々とした背も高い草原が広がり、遠くには、こちらも濃緑の木々に覆われた丘陵が続いているのが見える。幾ら歩いても、その景色に大きな変化は見られない。
のどかで、暖かな陽気に憂いも払われるようだった。
「手合わせしよう」
「いやだね。剣が傷む」
まるで散歩でもしているようで、それが逆に気持ちを波立たせた。
「その辺の棒切れでもいいでしょう」
「怪我人だろ。断る」
たとえ生命の息吹も鮮やかな景観だと捉えようとも、だからといってイフレニィの大雑把な感性では見惚れることもない。
非常に、手持ち無沙汰だった。
だから、せいぜい地形情報をせっせと記憶に貯め込むことで気を紛らわせるしかない。バルジーが煩いから精霊力で遊ぶ、もとい制御の練習もできないためだ。
「臆病者」
「暇なら暇と言えよ」
旅とも呼べない鈍さに口元を歪めた。
――必死に旅してきた俺は、なんだったんだ。
なぜこの二人は金もないのに暢気に進んでいるのか。バルジーの怪我を考慮しているのは理解できるが、地図を見ていた記憶もない。どこまでにどれだけ進むとか、いつ頃、どの辺に着きたいからこうするだとか、そういった話は一言も聞かされていなかった。計画性はないのかと内心文句が溢れる。
不条理な苛立ちなのは承知なれど、あまりに弛んだ空気に不満が膨れ上がっていた。
どうにも落ち着かないのだ。
よく知らない人間と一緒だからというわけではない。軍に付いて行った時の方が、まだましな気分だと思えるのは、自由過ぎる空気に居心地の悪さを感じてしまうためだろうか。イフレニィは大まかでも、都度予定を立ててから行動する性質だ。基本的に休憩時間外に話すことはなかった。
しかしバルジーは、ふらふらとイフレニィの周りをうろついていたかと思えば、思い出したように話しかけてくる。
やはり人と行動するのは無理なのだと再認識し、イフレニィはバルジーを牽制した。
「今、無駄に動きまわれば、体調を崩すぞ」
そうなれば護衛依頼を放棄することになるがと言い含めれば、バルジーは頬を膨らませて、元の位置、イフレニィの左隣へと戻った。
それを見て、ふと思い立ち荷車の横に近付いた。セラに話しかける。
「工房を持つとか言ってたな、どこに構えるんだ」
返事はない。セラは荷車を引きながら前を向いたまま、どこか遠くを見ているようだった。イフレニィの横から頭が生える。バルジーだ。
「邪魔しちゃ駄目だよ。ユリッツさん、いつも魔術式のこと考えてるから」
考えこんでいるというよりも、何か違う世界に浸っているように表情がない。その口元が微かに開く。
「ん、工房がなんだ」
常に返答が遅いのは、怪しげな魔術式を構築しようと没頭しているからだったらしい。どんな状況でも一貫してこのような状態だった気がしたのだが、そこは考えないでおいた。
「聞こえてはいるんだな」
それに返ってきたのは、なぜか偉そうなバルジーの声だ。
「そう、あなたと違って、ちゃんと回りを認識してる」
当の本人から、それ以上の言葉は無かった。認識していようとも反応が遅いと意味はないのではないか、とは言わなかった。
イフレニィも、つい考え込んでしまうことが多いから気に留めていたはずが、二人と合流してからはどうにも気が抜けている。痛みがなくなり切迫感が薄れたのが大きい。次いで、どうせまだ帰れないという投げやりな気持ちだ。
まだ日も沈みきる前だったが、セラは足を止めた。
「この辺で休もう」
この旅の主導者はセラだ。旅の行動については、緊急事態でもない限りイフレニィも従う。
街道から逸れてすぐに小川があり、二人は火を起こしたりと野営の準備を始めた。イフレニィは完全に日が沈む前にと川で水を汲む。
セラが取り出した小さな鍋で湯を沸かすと、それぞれが木椀に注いで硬い保存食を溶いた。赤みの残る夜空に、湯気が立ち昇るのを見上げる。三者三様、静かに碗から、どろどろの穀物粥を啜る。
――まずい。
イフレニィは味わう前に飲み下し、碗を濯ぐと、さっさと自分の分は片付けた。二人は、いつものんびり食べているようだ。
イフレニィは地図を取り出した。
目印など特にないから現在地も曖昧だ。しかし午後には、前の街から続く急ごしらえの道から、まともな街道までは辿りついていた。
その新しい道の書かれていない古い地図で、現在地の見当をつける。ここからほぼ真っ直ぐ南下すれば帝都だ。今までのイフレニィの速度なら、明日の夜にも到着できそうな距離だった。この面子だと明後日だろう。
地図を畳んで仕舞う。
二人は、食事を終え白湯を飲んでいた。どこを徘徊していたのか、そう引っ掛かっていたことを聞いてみることにした。
「今まではどこを回ってたんだ。コルディリーでは見た覚えがない」
期間的には、イフレニィもまだコルディリーに居たはずだ。符に関することなら耳に入っても良さそうだったし、こんな妙な行商人が来たなら、幾ら外に興味がないイフレニィの耳にも入りそうなもんだった。特にディナなどは、真っ先に話してくれたろうと思うのだ。
そもそもコルディリーに符の工房はない。工房から帝都に申請に出向くのに、何故北へ足を伸ばしていたかというのは不可解なことだ。
「街の状況を見て回ってる。在籍していた工房のある東海岸沿いの街から北へ進み、西回りに街を巡っている途中だ。北端の街なら先月末だよ」
それで、イフレニィが回廊へ出向いていた時だと納得できた。それに、工房が無かったため、すぐに出て行ったとのことだ。誰の話題にも上らないはずだ。
やはり、あの時の痛みが増した理由は、この女が近付いていたからなのだろうか。いや空の変化も、体の変化も確かにあった。
幾つか原因になりそうなものが重なって、どれに焦点を絞ればいいのか戸惑う。もしくは、全てが関係するのだろうか。
「寄り道しながらで、よく今まで無事だったな」
「無事と思わんから護衛を雇ったんだよ」
たった一人だ。
「実際助かった」
セラの言葉にバルジーは俯く。
あの時、イフレニィが手を貸さなければ実際どうなったかは分からない。無理だった気もするし、ぎりぎり商人だけは助かったのかもしれない。そもそもバルジーの立ち回りがなければ、イフレニィの助けも間に合わなかったのだ。
そう考えれば十分時間を稼いだし、護衛の役目は果たしたといえるだろう。さすがにイフレニィでも、自分でそれを役に立てたとは言わないが。
あんな状況で自信を失う必要もないと思いはすれど、そこは本人の問題だ。
「符使いの護衛か。普通なら良い報酬するだろ」
「実績がないから……符にでも頼らないと……」
バルジーは言いよどんだ。
実績がない。
「そんな戦いぶりじゃなかったと思うが」
「組合の実績よ」
組合でということは、元は本物の傭兵仕事でもしていたか軍務に就いていたというところだろうか。
「地道に仕事して、ようやく護衛依頼まで受けられるようになったところ」
別の仕事をしていたなら当たり前だが、意外にも旅人としては最近活動を始めたという。
「収入が全部符に消えてたから、ユリッツさんに雇ってもらえて本当に助かったの」
恥ずかしそうな、気まずそうな顔で、生活力の無さを暴露している。イフレニィも酒に消えてはいたが、さすがに貯蓄くらいはしていた。呆れてつい本音が漏れる。
「よくこんな女雇ってるな」
「安いからな」
「安い女だってよ」
「それが売りだから」
イフレニィの皮肉にも動じない。しかしその内容は、情けないことこの上なかった。
二人がコルディリーに近付いた事があったのは知れたが、既に印が痛み始めた頃だ。結局のところ、これまでの道のりを聞く限りでは、痛み出した頃の接点は見つからなかった。
この二人を原因から除外すると、空の帯と回廊の変化くらいしかない。
なぜ、印と関係するのかについてなど、今は深く考えたくなかった。
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