第37話 行き先は
目の前の商人は、符を作成する職人だった。
女がそう洩らしたことで、商人の方は補足しようと思ったのか、躊躇いがちながらも、多少のいきさつを聞くことが出来た。
商人――セラ・ユリッツは、二十台半ばとのことで、独り立ちしている商人にしては若い。だが、護衛たった一人を伴い粗末な荷車で危険な荒野を移動する度胸は、野心に燃えているか、商才がないかのどちらかだろうと皮肉に考えていた。
なんのことはない。職人上がりだから、資金に乏しかっただけの話だ。特に、符作り職人は最も金にならない仕事だと言われている。様々な職種の工房はあれど、人の生活に密着したものではないためだ。歴史が浅い割りに多くの街で設備が整っているのは、魔術式の普及が本格的に始まったのが国の(ひいては頂点に立つ大商人らの)後押しによるものだからだ。新たな市場の開拓もあるだろうが、世を脅かす精霊溜りの存在があったために力技で浸透させる必要があったというのは予想が付く。
ともかく、そんな境遇の者だが、どうしても旅立たなければならない理由があったということだろう。その辺は省かれたが、意図したものではなく言葉が足りないだけのようだった。ここまででも、この男にしては話した方であり、イフレニィもそれ以上聞き出すことはしなかった。この手の人間に無理を言えば、億劫がられて会うことそのものを断ち切られかねない。
道理でクライブに通ずる気質があると思っていた。行商人にしては珍しい、符の売買をしているのも納得だった。
合間に女の方――バルジー・ピログラメッジの話にも及んだことによれば、精霊力が強く符を使う戦い方のため、この護衛依頼を受けられたのは一石二鳥だったらしい。
なるほどと色んなことに合点がいった。
魔術式を描く為に使用される、顔料の調達が大変なのだ。精霊力の通りの良い鉱石を使用する。材料調達費が大部分を占めるのではないかと思われる。鉱山が安定したのも最近という話をどこかで耳にした。
誰もが魔術式道具を使用できるわけでもない。せいぜいが護身用で、戦闘に必須というわけではなく、高値も付け辛い。魔術式符が売れても、売り上げは微々たるものだろう。逆に作るほど損するのではないかと思えるほどだ。
イフレニィの訝しげな顔に気付いたのか、商人は「さすがにそれだけでは食っていけないさ」と肩をすくめた。それは、あのくたびれた雑多な品のことを言っているようで、その本気とも冗談ともつかぬ言葉にイフレニィは曖昧に首肯した。
さして大きくない荷車を思い返す。積荷に負傷した護衛まで乗せていた姿。憐れみの情が湧いた。
「そういう、あなたは、なんでわざわざ危険な一人旅なんてしてるの」
話が一区切りついたと見ると、女はイフレニィ側の追及をしてきた。やはりそこが不審で、気にかかっていたらしい。それは食事中にでもすべき話だったと思えるのだが、あの時点では少しでも関わる気はなかったのだろう。少しは警戒を解いてくれたようだが、物言いには変わらず刺がある。
危険。確かに危険な目に遭った。だがあれは、この二人の方だ。正直なところイフレニィは、コルディリーの周りで治安を気にしたことはない。盗人も居るにはいるようだが、ここで見た組織的な盗賊などというものは噂にも上らなかった。異変後に治安部隊が派遣されこともあるが、しばらく領軍が滞在していたことのお陰なのかもしれない。危険と言えば、精霊溜りの方が深刻だった。
そういえば、久々に精霊溜りのことを思い出した。ここに来るまでに見かけることも、話に聞くこともなかった。街道沿いだから発見も早く率先して片付けているのかもしれないが、そんな気配すら覚えがない。人の通った痕跡が無かったように思うのだ。
「この辺で精霊溜りを見なかったし話も聞かなかったが、あんたらは」
女は眉間に皺を寄せつつ答える。
「見なかったけど」
商人が困惑顔で補足した。
「頻繁に出るものではない。もう数年は、聞いた覚えはないが」
他ではそんなものなのかと、イフレニィは驚いた。北方には吹き溜まっていたが、やはりあの回廊の影響なのだ。
苛立ちもあらわに女が口を開いたが、それを遮る。
「話を逸らしたつもりはない。俺は、コルディリーから出たことがなかった。色んな場所を見て回りたくなっただけだ」
女はぐっと堪えながら言葉を飲み込むも、また別の言葉を吐き出し、その声も途切れた。
「それはそれは随分と……」
そっぽを向いた横顔に冷めた視線を送る。続いたはずの言葉に、胸中で苦々しい心情を返した。
――平穏無事、幸せな境遇だろ? それを崩したのは、お前なんだよ。
知ってか知らずか。今のところは、何も知らないように見えるから責めはしない。話を戻した。
「北方で危険なのは精霊溜りだった。あちこちに、それも頻繁に出来るんだ。盗賊なんぞよりよっぽど遭遇する」
興味が湧いたのか、商人が自ら言葉を発する。
「以前はそんな風には見えなかったが」
「以前?」
「行商の途中だから」
やはり、北へも足を伸ばしていたのだ。印の痛みが始まったのは、二人がコルディリーに来たときからなのだろうか。そこに話が逸れてくれることはなく、珍しく話に食いついた商人に、大人しく精霊溜りの状況を答えた。
「住んでれば分かるくらいのもんだしな」
「それも、そうだな」
商人は納得したようで、前のめりだった体を戻す。掃討に必須な符作りに携わっているのだから、己の職分として気にかかったようだ。軍からも組合からも口止めされたわけではないが、発生頻度が高まっていることは話さなかった。ましてや回廊のことなど、信じられる話ではないだろう。
北の異変自体については、北方支部からの臨時依頼の件もある。いずれは誰にも伝わるのは間違いない。
話が途切れ、ふと静かになった方へ目を向けると、女の顔色が悪く見えた。
「傷に障ったか。すまん、長居し過ぎた」
ここは引き時だろうと立ち上がる。
「希望に添えなくて申し訳ない」
商人も符の在庫切れの件を詫びて立ち上がる。
「また機会があれば」
前回と変わらず、イフレニィは振り返ることもなく廊下に出る。軋む扉の閉まる音が背後で響くのを聞きながら階段を下り、外に出てから慌てて引き返した。同じ宿を取っていたのだ。そのまま宿と隣の家屋の隙間のような路地に入り込んだ。すぐに、やや開けた裏手に出る。井戸だ。宿側にある物置きのような戸を開いた。あてがわれたのは最も安い部屋だ。窓はなく、暗く狭く黴臭い、一階の隅の部屋だ。水場が近いのは便利だが、そのせいで酷い状態になっているようだった。とっくに日は落ちているが、それとは関係なく昼間でも暗いだろう。手燭に火を灯し、寝台に腰を下ろした。
二人との話を整理する。結果はまずまずだと思えた。一貫して言葉は短いが、後半は随分とまともに会話ができた。結局、今後の予定まで話は及ばなかったが、さすがにそこまでやると踏み込みすぎだろうと流れを変えることはしなかった。
もう一度、話す機会を探そう。
それくらいはできるだろうという手応えは得られた。仕事の情報なども、向こうから振ってくれたのは助かった。何かおかしな趣味の持ち主だと勘違いされたようなのは気に掛かるが、今は都合がいい。
男の方も符を扱うなら旅人組合との取引はあるだろうし、商人の恰好をしているからには商人組合にも属している。はぐれたとしても探すのは格段に楽になったといえよう。
手に乗せた符に視線を落とした。先ほど交換したものだが、なかなか手に馴染む。符に手触りなどがあるなど、考えもしなかった。話によれば、これが、あの男が作成したものらしい。
何の気なしに、精霊力を流した。発動さえさせなければ、耐久を超えることはない。精霊力の通りを確認することができるくらいだ。その、はずだ。
狭い部屋に、光が駆け巡った。
泡を食って反射的に飛び上がり、流れを止めようとしたが混乱でなかなか止まず、符を取り落としたことでそれは叶った。
どっと汗が吹き出し背を伝うが、頭は血の気が引いたように冷えたようだった。
室内を見渡すが、変化はない。
発動してないから当たり前のはずだが、当然なことから段々と外れてきているのだ。自分が思う以上に慎重に行動すべきだった。
狭い部屋だ。外まで漏れてないだろうかと気になってくる。高まる鼓動を聞きながら、床の符へと指を伸ばした。精霊力の流れは確かに止めている。顔料は消費されていないのを見て、やっと息をついた。
端切れを取り出し、体を拭おうと水場へと向かうことにする。外の様子が気になったこともある。そっと辺りを窺いつつ、部屋のすぐ側へと出た。
井戸の側に立てかけてある桶を取り、水を汲む。冷たい水を頭からかぶり、動転する気持ちを抑えつける。
――冗談だろ。
迂闊だったとはいえ、効果の現れ方が凄まじい。符の品質のせいか、いや、イフレニィ自身の変化のせいだとは分かっていた。
頭を力任せに拭いているところで、剣の柄に手を伸ばし振り返った。人の気配だ。
「本当に、あんたなのか」
立っていたのは商人だ。灯りと水瓶を抱えている。
「本当に?」
魔術式に関わる職人は、作成しやすさが変わるため精霊力が強いほど優遇されると聞く。だから気が付いてもおかしくはないと思ったが、言い方が妙だ。
「ピログラメッジが、符を使おうとしてる馬、奴がいると言うから見に来た」
――馬鹿、と言ったってことは、俺だって気が付いたわけだな。あの女。
「脅かしたなら悪い」
商人はイフレニィが居ることなど気にもせず、側に来て水を汲み始めた。
「気をつけた方がいい。誰が居て、難癖をつけられるか分からんぞ」
忠告してくれる理由は分からないが、素直に頷いた。重々承知だったはずが、急な変化に感覚が追いついていかないことに溜息が出る。練習を続けるしかないのだろう。懐具合の問題で、それどころではないのだが。
そして、場所もない。
それがよく分かった。
街の外に出てからでなければ感覚を試すことすら難しい。それさえも、帝都に近付くにつれ人通りも多くなることで、今後は街道沿いですら気を抜けないだろう。
「なぜ、ここにいる」
考え事を遮った商人の声は、わずかに硬い。
何気ない態度でいたが、誤魔化されてはくれないらしい。話しておけば良かっただろうか。心証が悪くなっていないかと心配になるも、予定通りの理由を告げる。
「組合で一番安い宿を聞いたら、ここを勧められた。俺も金はないからな」
「確かに安いな」
うむと頷いている。警戒心が強いのかと思えば、素で抜けているようなきらいもあり。この男もよく分からんな。そんな感想を抱きつつ、言い訳を重ねておいた。
「使ってはいない。精霊力の通りを確認しただけだ。驚いた。何か顔料が違うように見えたが、それのせいか」
なぜか商人は、心なし表情を明るくした。
「詳細は伏せるが、従来のものより通りが良くなるよう、顔料の種類の配分を整えてある」
さも話せない風を装いつつ、話したそうに身を乗り出していた。さすがに聞くのはまずいだろう。正直に言えば、うんざりしそうだったため、そこで止めた。
「重要な話は、まずいんじゃないのか」
はっとした商人は、気まずそうに口を閉じた。
「とにかく、品質は確かだとよく分かった。手に入るなら他にも買いたい。いつ手に入る」
在庫切れとのことだが、その理由はよく理解できないでいた。どこかから調達するのか、職人というなら作成するつもりなのか、怪我による滞在延長のせいで予定が狂ったのかといったことだ。他の雑貨は売り物というにはあまりにも難点がある。売り物がない間どうするつもりなのかは、余計なお世話だろう。
「それは……俺も、売りたいのは山々なんだが……うーん」
言いづらそうだ。話題に上らなかったのは、無意識に避けていたのかもしれない。
「実は、その原料を入手する道中だ。手持ちを売り繋いできたが、ここの組合で買ってもらえたからな。次は帝都までないよ」
いきなり提示された情報に、意識が集中する。
「帝都、か」
ここから出るなら次は帝都しかないというのは自然なことだが、それでも予測が当たるのは嬉しいものだ。
「遠いだろう。残念だよ」
「売ってくれる気はあるんだな」
商人は困った表情を浮かべる。
慎重に事を進めるべきだ。そう思うのだが。まどろっこしいのはやめた。うまく言えないが、変わってはいるものの、どう見てもただの商人と旅人としか思えなかった。
どこかから手を回されているようには思えないし、そう考えるのも無理がある。そんな遠くから見通せる、魔法みたいな魔術式具がないとは言いきれないが、極端な例を考えてもしょうがない。
だったら、普段の行動をすればいい。
イフレニィらしく単刀直入に。駄目なら駄目で次の手でいけばいいのだ。
「俺も、帝都へ向かっている。同行させてくれないか」
商人は、呆気に取られたように口を開き、次に眉を顰めた。
「この街から帝都行きは、普通のことだろ。ま、護衛の傷のこともあるだろうし、いつ出るかにもよるが」
疲れたように頭を振り、商人は水瓶を手に取る。
「ピログラメッジに話してみよう」
話下手な割に、言いづらい名前を、舌も噛まずにすらすらと口にする男に感心する。まだ決まったわけではないが、希望のある内容に、心に余裕が出来たようだった。
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