第16話 印の指し示すもの
体の前に伸ばした右手。その手にある魔術式符へと精霊力を流すと、薄い白色の光が魔術式を写し取り、目の前で展開される。
思わず息をのみ、目を瞠る。
眼前に浮かぶのは、直径がイフレニィの背丈と大差ない円。
通常は、両腕で輪を作ったほどの大きさに留まるものだ。人により差はあれど、無理なく展開するだけの精霊力を流せば、自然と似た大きさになる。維持するのに必要な、最低限の条件なのかもしれない。
そのはずが、これだ。
円は、ゆらりと一つ身じろぎすると、強い金色の光へと変化する。発動成功の合図と共に、その円は、イフレニィの体に沿って巻きついた。
防御符の効果は、胴体を覆うようにし、ほんの僅かばかり攻撃を遮るものだ。軽い傷を怖れず踏み込むことができる。そんな補助程度のもの。たとえば革鎧のように、はっきりと厚みや存在を認識できるものではない。
だというのに、全身を包むほどの大きさで、厚さや強度も増している感覚がある。
「……おかしいだろ」
組合の支給品よりも品質の悪い符だ。それが、軍の符を使用したとき以上の効果を発揮している。
苦い思いに口を歪ませる。
本来、人体を通し辛い精霊力だ。流そうと意識して初めて、形にできるような代物なのだ。それが今のイフレニィが意識せず使用すると、過剰供給するまでに精霊力が強まっているということになる。
あまりに頭の痛い問題だった。
やはり、現状を把握しておこうとしたのは正解だった。痛い出費だったが、早めに気付けて良かったとしかいえない。幾つも買ってしまって、無駄になるかとも考えていたのが、どうせなら練習も兼ねて使おうと決める。
軍のお抱え魔術式使い達の符使いが思い出された。彼らは個々の流れを調節し全体で合わせていた。連携自体は、効果を継続することに有用だと感じられた。だが制御することの意味は、あの場合、精霊溜りの消化進行具合を計るためだろうか。
理由はともかく、あのように調節できるようになっておいて損はないと考えたのだ。今後も人前で符を使う機会はあるだろう。
ただし、そう簡単にはいかないと思えた。
実は、一度発動させてから流す量を調整するのは簡単だ。見ながら確かめられるのだから。
問題は、使い始めが難しいということだった。
先ほど確認できたことを見れば、イフレニィの場合は初めに流れる量が増えすぎてしまったために起きている。
――参ったな。
胸中でぼやきが零れた。体は刻々と変化した。それが止まったのかどうかも分からない。現状の感覚で練習したところで、来週には無意味になっている可能性が頭を過る。
ならば符の方はどうだ、もっと品質が低ければ抑えられるのではないか。そう思い、符を間近に確かめるが、すぐに諦めた。
この符に書かれた線は掠れ気味にすら見える。発動させるに最低限度耐えうる程度の分量に思えたのだ。符の耐久度は顔料に比例する。だが一度発動してしまうと、燃え尽きる前に解除しても、再び使うことはできない。起動時に、ほとんどの分量を割くからということだ。道具系が何度も使えるのは、単に原料の鉱石を塊で使用しているからというだけで、無制限に使えるものではない。
それでも、これだけの効果を引き出せているなら、自分をどうにかするしかない。
まずは、抑え気味に発動出来るよう、練習するしかないだろう。イフレニィは軽く頭を振ると符に集中しようとする。次は補助符を使ってみようかと手に取ったが、防御符の効果は、なかなか消えてくれなかった。
補助符は、痛みを緩和できている気がする、程度の効果があるだけのものだ。
重ね掛けもできるのだが、検証ならば個別に確かめた方がいいだろう。
仕方なく攻撃符を取り出してみたが、この効果で攻撃効果を使うなど不安しかない。購入した攻撃符は、お任せで頼んだため種類を確認すると、『火』と『氷』だった。
幾ら街から離れているとはいえ、領内に変わりはない。あまりに異常があれば、まずいことになる。火は失敗、いや成功すると不味い。
選択肢はなく、氷の符を掴んだ。
川の縁に立つと、気合を入れなおして集中し、精霊力の流れを弱める。元の感覚でいうならば、発動どころか魔術式を読み取る量さえ流さないよう細心の注意を払った、つもりだった。
言葉が出ない。
目の前のせせらぎは、動きを止めていた。
爪先でつつくと薄氷が割れ、川の流れが目に入る。水底まで凍ったわけではないことには、大いに安心したが。
焦りに流れた額の汗を乱暴に拭う。
この効果は、異常だ。
その場に座り込んで、動悸が治まるのを待つ。それより動揺だろうか。符についての基本知識を記憶から浚うに任せた。
攻撃系の符には四つの属性がある。
『光』、これが精霊力感知と呼んでいるものだ。単に精霊力の強い場所に反応するだけの効果しかないが、その働きを利用して精霊溜りの除去に役立っている。
『火』、台紙などの媒体への負荷が、燃える形となることを応用したもので、その現象をあえて強めたものらしいが、実際に燃えることはない。火打石代わりになるものを期待して開発が進められたらしいが、手のひら大の符では、効果が現れるに顔料が足りないと聞いている。
『嵐』、光の霧が雲に似たものを作り、凝縮した光が雷となる。精霊力の流れる感覚を光振と呼ぶが、その現象を利用してのもの。雷というが、精霊力の光を反射させただけのようだ。実際、触れれば痺れるが、光振を強めた感覚のようらしい。
『氷』、元々精霊力の流動時は周囲を冷やすのだが、それを増幅させたものだ。
このように、本物の現象に近付けようと努力したものではあるが、そのものではない。はっきり言えば、大して使い物になるものではないのだ。
恐らく、国が制限しているのではないかとイフレニィは考えている。幾ら旅人風情なら買えるのは数枚程度だろうと、携帯が楽で行動の読みづらいもので、瞬く間に発火する火の符などが出回るのは危険だと想像はつく。
効果の中で、今使った氷に注目した。
この氷の符だが、急速に冷やす効果は、足止めに使えるかもしれない程度のものだ。
決して、実際に凍ることはない。
ただ火や嵐の符のように、枚数を重ねるごとに効果が強まるものはあるのだが、氷にはないはずだった。それとも凍らせることができるほど、精霊力を強めたものがいなかったのだろうか。しかし、そういったことを元老院が試験してないはずはない。
自棄になったわけではないが、火の符を用いることにした。意地を、自棄になったと言うなら確かにそうだ。
立ち上がったイフレニィは、今度こそと、一層、力を弱めるのに集中した。
はたして凍った川の表面は――溶けて消えた。
再び冷や汗が流れる。
流れが強まるので気は抜けないが、辺りは燃えてはいないし、川が湯気を立ててもいない。どうにか問題なかったと言い張れなくもない。
しかし、気にせず使えば、どうなるのかが垣間見えた。使いこなせなければまずいと、危機感が背筋を走る。熱中して、制御の訓練に費やした。
夜が来る。
空の帯から溢れる光の粒子が、はっきりと見え始める。そして腰から、印を中心に精霊力がやたら流れ、脈打つような痛みが沸き起こる。
印の主張は、さらに強くなっていた。
また一段と状態が悪化していることが、精神の余裕を失くして行く。早く解決しなければ、これ以上はまずい。
まるで氷室に閉じ込められたかの如く、冷たい感覚の中に佇んでいる。実際に、肌が冷えているわけでも、寒いわけでもない。
少し、異変の夜と似ていると思えた。空に亀裂が走りだした時、空気は急激に冷えた。それは、氷の符のような原理なのだろう。ただ、あの時は現実に気温は下がり、皆が白い息を吐いていたことは大きな違いだ。
そもそも、なぜ夜に痛むのか。
あの光が夜に見え易くなるのは、日差しの関係であり、昼間も同様に降り注ぎ続けているはずだった。夜に降る量が増えているというわけではないのだ。
額から流れ、首筋を伝う、冷たい汗を拭う。
これまで試さなかったことの一つは、少しばかり勇気が必要だ。深呼吸し、印に意識を集中する。符のように体が焼き切れたらと危惧し、保留にしていた、精霊力を限界まで流すこと――確かめねばならないだろう。
現在は、普段の状態で、あの時の限界を超えていた。
ならばと、吹っ切る。
辺りから精霊力をかき集めるようにし、ゆっくりと印へと送り込む。印の魔術式を、白い光がなぞり解いていく。光量は増し、模様が分からなくなるほど白く塗りつぶされていく。息を詰めて、早くなる呼吸を抑えながら、印を見つめる。
やがて白い線は、金色へと塗り替えられていく。
ただしく魔術式が発動したのと同じく。
体が焼け落ちなかったことは、安心して良いのだろうか。実際に空中に展開はしないものの、背の印は、まるで発動したように金色の輝きを放っていた。
その光景に、思考は止まった。
呆然と眺めていたが、我に返る。
「どうなってるんだよ、俺の体は……」
恐怖を含んだ戸惑いの声は、別の感覚に遮られた。精霊力の流れが強まるごとに、なにかが浮かび上がってくる。目に見えるものではない。
印は、ただ痛みを訴えているのではない。その疼くような脈動は、何かを発しているようでもあったのだ。
瞬く間にイフレニィの不安は高揚に塗り替えられる。望んでいた直接の手掛かりかもしれないのだ。気が逸るも、全力で意識を研ぎ澄ませる。
発する先は、どこかへ向かって伸びている。
不意打ちを喰らって、また声を失う。なぜ、今まで気が付かなかったのか、不思議なほどだった。こんなにも、はっきりとしていたというのに。
そして、知ってしまったことを失敗したとも思った。
方向を定めた印に意識を向けると、それに追い立てられるような焦燥感が襲う。不快な汗は、痛みによるものだけではない。その報せから起こっている。
この痛みを解消するには、この痛みが指し示しているものを見つける必要があるということだろう。それとも、近付けば、より苦痛は増すのだろうか。
どちらにしろ、ようやく一因が見えた。そのことを無視はしない。
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