帰ってきたマスターT 1
翌日もマスターTの記憶は戻らなかった。
A・ファーレンハイトはいつものようにマスターTの部屋で、彼と顔を合わせる。形だけはいつもどおりだが、それが逆にファーレンハイトに虚しさを感じさせた。
彼女はこのままマスターTが組織にいいように使われるのかと思うと、彼のことが哀れでならなかった。
そこで彼女は彼の本心を知ろうと尋ねる。
「マスターT、あなたはこのままで良いと思っていますか?」
「いや、良くはないでしょう。早く記憶を取り戻さないと……」
「そうではなく……記憶が戻らなかった場合の話です。それでもこの先ずっと組織にいられますか?」
「いられるも何もないでしょう。20年前からのタイムスリッパーにどこに行けと」
「このまま組織にいて後悔しませんか?」
「そんなこと分かりませんよ。今は他に選択肢がないんです。先に立たないからこその後悔でしょう」
困惑する彼にファーレンハイトは真心からの忠告をした。
「あなたはこれから大きな戦いに巻きこまれます。それはあなた一人の力ではとても逆らえない大きな流れの中でのできごとです。私はあなたに何も分からないまま戦ってほしくありません」
「どういうことですか? あなたは何を知っているんです?」
「……記憶を失う前のあなたは使命を持っていました。それが何かまでは私には分かりません。でも、このままではあなたは不幸になります」
「不幸って……」
断言されてマスターTは怯んだが、ファーレンハイトは構わず強気に押す。
「自分の思いとは違う不本意な人生を送るということです。私はあなたに後悔してほしくありません」
「そうは言われても……それには記憶が戻らないと、どうしようもないじゃないですか……」
「ええ。ですから、今は誰に何を言われても決断を急がないでほしいのです。誘われるまま流されるままにしていると、最後には取り返しのつかないことになるかもしれません」
「……あなたはどうしてそんなことを? あなたたちにとって私は利用価値のある存在じゃないんですか? あなたは組織に不信感を持っているんですか?」
「いいえ、そうではありません」
「では、なぜ……」
彼の問いに彼女はどう答えたものか迷った。
彼女は自分でもおかしなことを言っていると思う。それでも言わずにはいられなかった理由は何か……。
「特別な理由はありません。ただ、私はあなたに後悔してもらいたくないのです。あなたは――」
そこまで言ったところで彼女は気づいた。
自分が後悔してもらいたくないのは目の前の彼ではなく、記憶を取り戻したマスターTなのだ。自分は彼が悲しむ顔を見たくなかったのだと。マスターIの下に異動させられることを心配したのも、こんな状況でマスターTと離れたくなかったから。本当の問題はマスターIではない。彼がどうのこうのというは二の次の次。
彼女は目の覚める思いがしたと同時に気恥ずかしくなった。
彼女の彼への感情は恋愛と呼べるほど熱く激しいものではない。だが、親愛の情を持っていることは間違いない。
彼女の中でいつの間にかマスターTは他のマスターやエージェントとは違う、特別な存在となっていたのだ。
「私は……? 何なんですか?」
ファーレンハイトは努めて感情を抑え答える。
「いえ、その、あなたも組織の一員、仲間なのですから。一般的な親切心というか善意というか、そういうものです」
「それは……どうも。ありがとうございます」
「いえ、どういたしまして。……何か、おかしいですね。フフフ」
「ハハハ……」
二人は不器用に笑い合った。
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