第四十四話 二日目の朝
朝、物音がして目が覚めた。まず見慣れた天井が視界に入る。見ていた夢の内容は、よく覚えていない。一瞬、脳裏にちらついたのは、またあのファンタジーっぽい光景。
最近、似たような夢を見ることが多い。意識が覚醒した瞬間だけしか、そのことを強く認識できないのだが。後は、気が付けば記憶から消えるのだ。
今もまたこうして、微睡みに意識が負けそうになっている。眠気に身を任せれば、後に残るのは、
俺は生物の本能に従って寝返りを打った。二度寝しよう。今日は土曜日、素敵な日。遅く起床しても問題はない。瞼の重さにかまけて目を閉じる。春眠暁を覚えず……中学の時に習った漢詩を思い出す。あれ、結構好きなんだよな。
とにかく、よく眠れそう。意識の底はすぐ近くにあった。そのまま力を抜いて、深く深く沈んで――
「ユキトさん?」
その時変な声がした。俺の意識をかき乱す声、幽霊かもしれない。反応したら、きっと霊界に連れていかれる。俺は布団を深く被り直した。
もう一度、睡眠に入ろうとする。余計な思考はシャットアウト。眠気と和解せよ、みたいな……いや、全面降伏か。意識が溶けて――
「ユーキートーさんっ!」
いかない。変な声は勢いを増した。ちょっと怒気が籠ってる。わかった、認めよう。相手は幽霊ではない。しっかりと実体を持った人間だ。最初からわかってましたってば。
……そういや、赤の他人が一人、うちに泊まっていたっけ。忘れていたわけではないけど。しかし、眠いものは眠い。昨夜、直ぐ寝付けなかったからだ。今ここにいる闖入者のせいで。悶々とした夜を過ごす羽目になった。
「あーさでーすよ!」
某海苔の佃煮のCMを思い起こさせるほど、いい感じの間延び具合。英訳すると、『Hey Tea!』のとある企業のお茶でもいい。正しいのかは知らない。ちなみに俺は、鳥のやつが好きだ。
思考がグダグダなのは十分にわかっている。眠いので許してください。とりあえず狸寝入りだ、それくらいわかるだろ。脳みそから指令が飛んできた。
「すーすー」
「ほ、本格的に寝ちゃいましたかね。困りました……」
今度は悲しそうな声。いい感じだ。落胆しているのがわかる。そのまま部屋を出て行ってくれればいいのに。ひとまず、耳を澄ませて様子を見よう。
かすかだが、足音がする。カーペットを撫でる音、たぶん。とにかく、奴が動いたのはわかった。ようやく、あの幸せな眠りをもう一度――
「ユーキトさん、起きて?」
耳元でささやくような声がした。少しかすれた語尾。優しくて、甘ったるい響きが脳を揺らす。その上さらに、薄い掛布団越しにその吐息が伝わってきた。
こそばゆい。くすぐったい。変に身体が強張る。鳥肌が立つ。心臓が過度に運動を始める。そろそろ、やばいんじゃないだろうか、これ。毎日、こうもドキドキさせられていると、身が持たなくなってくる。
大丈夫だ、落ち着け。クールになれ。寝息に深呼吸を混ぜろ。全身にゆっくりと血を回せ。大丈夫だ、落ち着け、クールに――
「だぁっ! なんなんだいったい!」
無理でした。俺は思わず飛び起きる。心拍数は限界を突破していた。緊張し過ぎて、息苦しい。これは、拷問ですか?
寝起きにあんなことされて、耐えられる男は果たしているのだろうか。お会いできた暁には、ぜひともその強心臓を譲ってもらいたいところではある。
乱れた呼吸を必死に整えながら、静かに視線横に動かす。さも当然の権利のように、俺のベットの傍らに明城は立っていた。涼しい顔つきで、そっと佇む姿は凛としていて、なかなか絵になると思う。
着替えは済ませてあるらしい。 寝間着姿ではなく、昨日と同じ服装でもなかった。紫色のトップスに、裾が広がった薄い緑色のロングスカート。大人し目の恰好が趣味なのだろうか。
「あ、ユキトさん、起きてくれた! おはようございます」
「はい、おはようございます……って、言ってる場合じゃない! いったいどういうつもりだ」
「起こしに来たんですよ。ご飯の時間ですから」
何を当然のことを、と言った感じの表情。
「だとしても、変な手段を取るんじゃない。殺す気か!」
「え? ダメでしたか? 麻理恵さんから教えてもらったんですけど……これなら絶対起きるって」
明城は腕を組んで小さく呻っていた、
そうか、あいつが黒幕だったか。明城アリスの行動パターンからすると、自発的にやったと思っていたが。そんなに大胆ではないということか……変な勢いがついた時以外は。
そろそろ一回シメておこうか、中津川麻理恵。いや、無理だ。奴は空手有段者、俺に勝てる道理はない。差し違える覚悟を持てば何とか……すみません、無理です。せめて文句は言おう。当然の権利だけは行使しておく。
とにかく眠気なんて吹っ飛んだ。二度寝するつもりは毛頭ない。ようやく心拍数も落ち着いてきたことだし、ちゃんと起床しよう。
ということで、先に彼女にリビングに行っててもらうことにした。こっちにもいろいろと準備があるんでね。
パジャマを脱ぎ捨て、適当なシャツとズボンを身に着ける。着飾るのは面倒くさかった。家の中だから、いいだろう。昨日みたく風呂に入る直前まで制服姿でいるわけにもいくまい。
洗面所で顔を洗って、リビングへ。さっき廊下を通った時に、すでに知ったことだが、普段よりも騒がしい。三種類の女性の声がする。仲良しだな、あいつら。ため息をつきながらドアをくぐる。
食卓には、俺以外が揃っていた。親父殿はまだ帰っていないらしい。いたところで、特にどうということはないけれど。
「遅いわよ、幸人」
俺の姿を見るなり母さんがちくりと文句を言ってきた。
「まだ八時前ですぜ、母上? いつもの俺からしたらこれでも十分でしょうに」
怯まず答えを返しながら、ぬるっと食卓の空いているところへ。これまた、当然のように明城の隣だった。まあいいけど。
母さんの仕事は休み、ということで、食卓にはちゃんとした朝食が並んでいる。トースト、スクランブルエッグ、コーンスープにサラダ。これまた、なかなかの気合の入りよう。
「あんた、土日はいっつも昼まで寝てるもんねー」
俺の憎むべき天敵はくすくすと笑っている。
「まり姉も一緒だろうが、それは!」
「何言ってんの。お客様が来てるっていうのに、寝坊はしないわよ。……そのお客様に起こしてもらっちゃったけど」
ちらっと舌を出して、はにかみながら俺の隣に目を向ける。
そこまで俺と一緒だったのか。大差ないのによくもまあ俺を小馬鹿にできたもんだな、この従姉。ぐっと目を細めてその顔を睨む。
「ていうかな、こいつに変なことを仕込まないでくれ!」
「なんの話かしら~。あたしはただアリスちゃんに効果的にあんたを起こす方法を訊かれたから、素直にそれを伝えただけよ」
「それが問題だったって言ってんだよ!」
「なになに、そんな方法があるの? 母さん、興味あるんだけど」
「ええとね、おばさん。別に特別な方法じゃなくて……」
面倒くさい奴がニヤニヤした顔で首を突っ込んできた。それは従姉も認識しているらしい。ちょっと気まずそうな顔をして、しどろもどろになっている。
そんな俺たちのやり取りを、あいつは微笑まし気に眺めている。――ふと、こいつの家族のことが気になった。そういえば、そんな話したことないな。それに気づいた時、そんなことを思った。
「まあとにかくあなたたち、もう少しアリスちゃんを見習ってもらいたいわね。この娘、早く起きてきて朝食の準備を手伝ってくれたのよ?」
「マジで?」
俺と従姉は珍しく声を揃えた。血のつ繋がりと言うか。とにかくほぼ同時に、立派な心意気を有したお客人に目を向ける。
彼女は、ちょっと照れているみたいだった。少し目を伏せている。
「はい、差し出がましいとは思ったのですけれど……」
「そんなことないわよ! 手伝ってくれて、とても助かったわ。あーあ、こんな親孝行の娘が欲しかったわね~」
大げさな表情で語る母親。あ、それはまずい、そう思った時には、時すでに遅し――
「そ、そんな、今すぐに結婚だなんて! わたくしたち、お付き合いもまだなのに」
案の定、隣で慌てふためく明城。とんでもない事を口走っている。
「いや、飛躍し過ぎだから……ただの願望、英語で言うなら仮定法」
「その
ぐっと親指を上げる母。謎のどや顔が腹立つ。隣で例の底意地の悪い女が大笑いしていた。手を叩いて、誰かとは違って品がない。
全く性質の悪い冗談だ。そっと横目で明城の表情を窺うと、目をぐるぐるさせて顔を真っ赤にしている。プルプルとその身体が震えているということは、相当恥ずかしいということか。俺に対しては直情的な気持ちをぶつけてくるくせに、他人からの指摘……いや、不意打ちには耐性がないらしい。
いただきます、視線を戻して小さく呟く。俺は努めて冷静に一人食事を始めた。今はただ早くこの魔境から逃げ出さなければ――そんな危機感と共に、いつもとは味付けと食感が違うスクランブルエッグを楽しむのだった。
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