第四十三話 一日が終わる頃

 あれから一時間近く経とうとしている。しかし、あいつが戻ってくる気配は一向にない。なんだかちょっと寂しく……違う、違う。今まで騒がしかったから、その揺り戻しが来てるだけ。いつもこの時間帯は、一人孤独の時間を謳歌しているじゃないか。平常心、平常心。

 そもそも、これが今日一人で過ごす初めての穏やかな時間。ペンの走りは至極順調。頭の冴えはそれなり。この静けさは不安に感じるものではなく、喜ぶべきことなのだ。


 それにしても、奈良時代以降ってやたらと物騒だな……。よくもまあ、こうもころころと権力者が変わるもんだ。誰が誰だかわからなくなる。特に藤原、てめ―のことだ。

 なんだ藤原四子って。四天王とかそういうノリか? 五人目はどこにいる? 四天王とはそういうものだと相場が決まっている。後は、奴は最弱うんたらかんたら。


 ――やめよう、これ以上考えていたら呪い殺される恐れがある。仏教全盛期だから、この時代。教師が力説していたことを覚えている。


 とにかくだ。こうして手を動かしていても、どことなくおぼつかない。ワークの空欄は徐々に埋まっているが、記憶の積み重ねには自信がない。あとこのワークを何度繰り返せば、自信を持てるようになるだろうか。おおよそ見当もつかない。


 ブルル。机の片隅に置いておいたスマホが、突然震えた。……よく考えてみれば、事前に断りがあることは殆どないか。

 我ながら意味のないことを思い浮かべたものだと、苦笑しつつそれを手に取る。手早く電源を入れた。


『どうだ、勉強の方、順調か?』


 剛からだった。いきなりなんだというのだろう、少し怪訝に思う。


『それなり』

『ここ三日、明城大先生に教わった甲斐があった、ということだな』

『どこぞの誰かさんはてんで相手してくれなかったがね』

『初日は残ってやっただろ?』

『結局あの時も、明城が色々教えてくれたじゃねーか!』


 その時、あの頭のいい友人はもしかすると人に教えるのは下手なんじゃないか、と脳裏を過ったのは事実。面倒見が悪いというべきか……しかし、こうして多少は気にかけてはくれてるみたいなのは事実。結論、よくわからん。


『明城に苦手科目があるなら別だが。なんでもできるようだったから、彼女。だから別にいいかなって』

『確かに。それは同意する』


 国語と化学以外の勉強を、あらかた彼女と一緒にやったが、わからないところを聞いて答えが返ってこなかったことはなかった。その説明のどれもがわかりやすかったし。

 月曜日の放課後、あのハンバーガーショップで親友にまで勉強の面倒を見てくれるよう頼む必要はなかったかもしれない。だからどうだ、というのは話ではあるけど。あの時はまさか、あの女が全科目に精通しているとは思いもよらなかったし。


『結果、出るといいな』

『おう、サンキュー』


 結局、あいつ何のために連絡を寄越してきたんだか。まあ、頼まれて引き受けた手前、一応の義理を果たそうとかそういうことだと思う。相変わらず律儀な奴だ。しかし、この午前授業の期間中、超経験値モンスターのごとき逃げ足を披露したことは忘れない。

 とにかく、やり取りは終わったようだ。すぐに既読が付いたのを確認して、カバーを閉じて今度はベッドの方に相棒をぶん投げた。


 だが――


『しかし、明城を家に泊めるなんて、なかなかやるじゃあないか、幸人くん?』


 すぐに布団から物騒な音が聞こえてきた。なんだいったい、と思いつつ、のっそりと立ち上がって、メッセージを確認したところ、その内容がこれだった。


 ……初めに頭に過ったことは、とんでもないことを知られてマズい。ではなく、なぜこいつはその事実を知っているんだ、ということ。

 スマホの画面を見ながら、適当に思考を進めていく。泊りの件を知っているのは、当事者の俺たち二人を除けば、俺の家族と、血縁関係のある同居人。


 友人と家族がやり取りしているなんていう素敵な事実はない。そして、明城がわざわざ剛に連絡をするとは考えづらい。導き出される結論は一つ。

 画面を一つ手前に戻し、軽くスクロールする。カフェデートもどきに行くことになった際に発足したグループがその一覧にない。


『まり姉か?』

『情報源はジャーナリストとしては明かせんな』

『お前がジャーナリストだとは知らなかったよ』

『それで、どんな具合だ?』

『何もない』


 そのまま通知を切って、もう一度スマホをベッドに向かって軽く放り投げた。全く何なんだ、あいつはいったい。


 しかし、二度あることは三度あるとはよく言ったもので。またしても、高校入学時以来の友人は震え声を上げた。一瞬身を固くしながらも、今度は素早くそれを手に取る。投げたら誰かから連絡が来るシステムなのか、これは。ポケットの中の増えるビスケットみたいな、呆れながらも再び取りに行く。フリスビーで遊んでもらっている犬の気持ちがわかる。


『ねえ、明城さんが泊まってるらしいじゃん!』


 学から。それは先ほどの俺の問いに対する答えだった。俺は心から満足して一つ大きく頷く。仏のような笑顔を浮かべて、二人目の親友からの通知も切って、今度はサイレントモードにした。

 そのままテーブルタップに刺さりっぱなしの充電器に接続する。きっと労わってやらなかったから、構ってほしかったのだろう、こいつは。優しく床に横たえてやる。


 それが証拠に今度はすぐに鳴き声を上げない。しばらく見据えた後、再び机に戻った。これで集中できる。


 ガチャ!


「ユーキトさん! お風呂、いいですよ」

 

 勢いよく扉が開いた。ドアをノックするという文化は、あいつの中には存在しないらしい。一瞬だけ硬直しながらも、ゆっくりと椅子を回転させた。

 明城はワンピースタイプの寝間着を着ていた。普段着よりも肌の露出が大きくて、おまけに湯上り状態だから、その色っぽいというか……。とても直視には堪えず、すぐに目線を外す。


「あの、どうかしました?」

 

 自分の放つ色香などには気づいてないのか。不思議そうに首を傾げる明城。そこに恥じらいというものはなさそうだ。

 そういえばこういうやつだったと、俺はすぐに思いなおす。なるべく目線を下げないように、しっかりと視線を彼女の顔に固定する。


「なんでもない。わかったから、さっさと出てってくれ」

「はーい。麻理恵さんのとこにいますねー」


 席を立って、先に部屋を出る彼女に続く。あいつとの距離がぐっと近づいた時、瑞々しい果実に似た香りが鼻腔をくすぐった。それは甘い毒のようにすぐに俺の全身に回る。別れるまでの短い間、俺は気が気ではなかった。





        *





「ユキトさん、まだ寝ないんですか?」

「ああ、そうだな。そろそろ終わりにするよ」


 キリのいいところで、日本史のノートまとめが終わったのでペンを置く。椅子に座ったままぐっと背筋を伸ばす。上半身の凝りがほぐれていく。ちょっと気持ちいい。

 暗記がうまくいってないことを話したら、理解が甘いのでは、という答えが返ってきた。一理あると思って、それを実行したわけである。このように明城は教え手として、とても優秀。そこは素直に尊敬する。


 もう少し色々と自重してくれれば、文句なしなんだが。まさか風呂から上がり、部屋に戻ってすぐに押しかけられるとは思ってなかった。そのまま、まり姉ととやらに励んでいればいいものを。


「だいぶお疲れのようですね?」

 後ろであいつがくすりと笑いを漏らした。

「そりゃな、受験生かって勢いで勉強してたから」


 元々勉強するという行為自体は、嫌いではない。必要とあれば面倒とは思わない。それでも、定期テストの勉強をここまで本格的にしたのは初めてだった。どれだけやったところで、には追いつけない。早いうちに限界を悟ったから、ほどほどで満ち足りることにした。

 だからこそ、今こんなに必死になっているのが自分でも不思議なんだが。こいつといると、ちゃんとしなきゃという焦りにも似た感情が沸き上がる。仮にもっと早く出会っていたら――それは意味のない仮定、か。


「あっ、そうだ。マッサージしましょうか?」

「……なんだ、藪から棒に」

 おもむろに、後ろを振り返る。

「こう見えても得意なんです! ささっ、横になって」

 奴の顔は自信に溢れて輝いていた。


「いや、いいよ。さすがにそれはあからさまというか」

「そんな……これも貴方様を想ってのことなのに。じゃあ肩たたきというのはどうでしょう?」

「肩きもちょっと……」

「ユキトさん! が一つ多いです。正しくは、肩き、です」

「お前も一個増やしてんじゃねーよ!」


 一瞬奇妙な間ができた後に、俺たちはどちらともなく笑みをこぼした。こんなくだらないやり取りなのに、温かい気持ちに包まれる。


「――本当に必要ないですか?」

 やがて、あいつはちょっと神妙な顔を作った。

「のーさんきゅー」

「むぅ、どうして英語なのでしょう……。それ以上のことでもいいんですよ?」

 一瞬その表情が曇ったものの、ぱぁっと明るい笑顔にすぐ戻る。余裕に満ちたご様子。よく観察してみれば、くすぐったさが隠しきれていない。


「それ以上ってなんだよ?」


 俺は心中を悟られないように、真面目なトーンで言葉を返す。顎を引いて少し真剣な表情で、彼女の顔を見下ろした。


 すると、途端にぎこちなくなる明城。その顔が緊張で強張っているのがわかる。ぱちくりと長い睫毛が繰り返し上下する。


「……ハ、ハグとかでしょうか?」

「お前、この間カフェに行った時の朝、いきなり抱き着いてきただろうが」

「あれはその場の勢いというか……」


 ……明城アリスは意外と純情らしい。思わせぶりな言葉を口にするものの、それ以上となるとどうにも躊躇いが生じる性分みたい。じゃあ言わなきゃいいと思うんだが。駆け引きというやつかもしれん。

 どちらにせよ、段々と彼女のことがわかってきたのはいいことだ。少しは翻弄されずに済む。むしろ、こうして――


「冗談だよ、冗談。ちょっと揶揄ってみたくなっただけさ」

「ユ、ユキトさんって、たまにイジワルですよね……」


 彼女はしゅんとしてあからさまにいじけている。目を伏せて、少し唇を突き出して、赤らんだ頬を膨らませて。

 やばい、自爆した。今度恥ずかしくなるのは、俺の番だった。


「と、とにかく。ほら、もう寝るから。まり姉のとこ行けよ」

 しっしと、ぶっきらぼうに手で払う仕草をする。

「えー、ここじゃダメですかー?」

「答えはわかってるだろうに。よく訊いてきたな、お前な」

「えへへ、褒められちゃいました」

「その形のいい耳が腐ってる、というのはよくわかったよ。ありがとう」

「どういたしまして」


 座ったままぺこりと頭を下げる明城。その仕草はとても可愛らしい。ほんと、見た目とのギャップが激しいと思う。落ち着いた大人っぽい美人系女子高生(他称)なのに。


「それじゃ、ユキトさん、おやすみなさい」

「ああ。おやすみ」

 すくりと立ち上がる彼女を見て、ふと悪戯心が湧いた。


「まり姉、鼾うるさいから気をつけろよ?」

「ご、ご忠告痛み入ります……」


 平静を装っているみたいだったが、明らかにこいつ動揺している。そのままぎこちない様子で、部屋を出て行った。あの丁寧さに定評があるお辞儀も少し固かった。


 やっと、真の平和な時間が訪れた。さながら魔王を倒した勇者の気分である。風呂は今日シャワーだけで済ませたから、そうではなかった。明城が使った後だということを意識したのが、本当に失敗だったと思う。

 電気を消して、ベッドに潜り込んだ。斜め向かいの部屋に、クラスメイトの女子がいると思うと、気分が落ち着かない。それでも強くきつく瞼を閉じる。

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