第九話 大胆な告白
「で、そこが保健室だ」
俺はちょっと離れたところに立ち止まって、その部屋の名前札を指さした。ドアのガラス越しに、部屋の様子が見える。
隣にいた女子生徒は満足そうに頷いた。
「こんなものかな。大体周り終えたと思うけど」
「本当にありがとうございます、ユキトさん。そして、ごめんなさい。貴重なお昼休みを使わせてしまって……」
申し訳なさそうに、洗練された所作で彼女は頭を下げる。
「まあ、気にすんなよ。別にやることもなかったし」
昼メシを食べ終えた後、彼女から校内を案内して欲しいと頼まれた。転校してきたばかりで、勝手がわからないからということで。
俺としては、あまりこの女に関わり合いたくなかったものの、一つ思うことがあって、二つ返事で引き受けた。そして、それも今完了したわけである。
しかし、やはり明城の風貌は人の目をよく集めるらしい。二年生の教室がある三階の廊下はともかくとして、他の学年のいる階の廊下でも、周りはちらちらと彼女のことを見ていた。
そして、次に何者なんだあいつは、という感じに不躾な視線を俺にぶつけてくる。よくわからないひそひそ話もされるし。とにかく居心地が悪くて仕方がなかった。俺だって、好きで彼女と一緒にいるわけでじゃない。
しかし、こいつの方は全く意に介していないようだった。周りに無頓着というか……そうじゃなかったら、人前で俺のことを
ここ、一階の廊下は学生の教室もなければ、職員室もない。だから、しんと静まり返ってくる。つまり、今俺と奴は二人っきりだった。厳密には、保健室の中や体育準備室の中に人がいるだろうから、そうと言えないのかもしれないが。
ここには、女子と――しかもモデルみたいな美人と、自分しかいない。それはある意味ではとても魅力的なシチュエーションだろう。しかし、俺は全くドキドキしていなかった。むしろ、気まずいというか……。
彼女はどう思っているのだろうか。ふと見る横顔からは何も読み取れない。ただ柔和にほほ笑んでいるだけ。
「水、飲みに行ってもいいか?」
「ええ、もちろんですとも」
彼女はにっこりと首を縦に振った。
俺たちはひっそりとした廊下を進んで、水飲み場まで歩いていった。ひんやりとしたその空気は、もう五月のくせにどこか冷たい。
やはりそこにも誰もいなくて。俺は適当な蛇口の前に立って水を出す。口を上に向けて、吹き上がる水流の近くに口を寄せた。ずるずると口内に冷たい無味な液体が入ってくる。
ずっと緊張しっ放しだった。口がカラカラと乾いていた。
原因はわかってる。これほど長く女子と二人で過ごしたのが、久しぶりだったから。それも見知らぬ転入生。気まずくて仕方がなかった。
幸い、学校の話や教室の説明で間をつなぐことはできたけれども。
しかし、それ以上に、彼女といると落ち着かないのだ。それは、今日の朝からずっとそう。偏にそれは、俺は彼女のことを知らないのに、彼女は俺のことを知っている。その歪な関係性のせい。
ちゃんと聞かなければ、と思った。確かめなければ行けない気がした。彼女の、昨日の発言の真意を。『遥か昔から恋人同士だったんですよ』こいつは、平然とした顔で信じられない言葉を吐いた。
昨日は正直気持ち悪いと思ってしまった。だから、逃げた。変な女に絡まれた、ただそれだけのこととして、いずれ記憶が薄れるだろうと思った。
それがどういうことだろう。彼女は再び俺の目の前に現れた。昨日と同じく、俺のことを一方的に知ったまま。何のためらいもなく親し気に接してくる。
剛は、彼女が前世の記憶を持っていると、考えている様だった。冗談かもしれないが。だが、例え冗談でも、俺はそうは思えなかった。あいつほど、柔軟な頭を持ち合わせていない。当事者の俺は必死だった。
そんな非科学的なこと、ありえない。……何が科学的なのかはよくわからないけど。とにかく、受け入れられないんだ。
「昨日の話なんだけど、あれ、どういう意味だ?」
俺は顔を上げると、おずおずと彼女に問いかけた。鏡越しに彼女の姿を確かめながら。
しかし、明城はすぐには言葉を発さなかった。柔らかく首を傾げる。キョトンとした表情で、厚めの唇うをちょっと離して。
まるで作り物のような美しさがそこにはあった。彼女は、周りよりも大人らしくて美しい。それは認める。だからこそ、俺につっかかってくる理由がわからなかった。
「遥か昔に恋人だと、お前は言った。でも、俺にそんな覚えはない。俺とお前は昨日、あの交差点が初対面だ」
「はい、この世界ではそうですね」
鏡に映る彼女が小さく頷いた。
まただ。またこの女はおかしな物言いをした。一見、聡明ともいえる雰囲気を纏う彼女には相応しくない。
「貴方様が覚えていないのも無理ありません。わたくしたちが恋人同士だったのは、前の人生でのこと。しかもそれは一瞬のことでしたもの」
「お前、それ本気で言ってるのか?」
「はい。小さい頃からずっと何か欠落感のような気分を覚えていました。でも、その正体が最近分かったのです。わたくしは、ずっと
明城はそれを、至極真顔で語る。とても冗談を言っている風でもなければ、頭がおかしい感じもしない。とうとうと事実を述べている、ように感じた。
彼女は心の底から信じているのだ、その妄言を。彼女にとっては真実なのだ。その
自分が転生した様に、相手も転生したはずだと思い込んでいる。そして、その相手が俺だと。
……仮にその
俺にそんな記憶はない。そもそも、自分はそんな大層な人間ではない。きっと誰かと間違っている。俺はどこにでもいるような人間だ。彼女のような人には、もっと特別な人がいるはず。
廊下にまた静寂が戻った。ボダボダボダ。静かな空間には、上に向けた蛇口から水が落ちる音だけが、ただ響いている。
止めようか、そう思ったけれど、身体が思うように動かなかった。俺はただ呆然と自然資源が無駄にされているのを眺めるばかり。
「信じてもらえませんよね、こんな話」
彼女は伏し目がちに囁く。
それはとても寂し気な表情だった。……心がチクリと痛む。
「ごめんなさい。貴方様の気持ちを考えずに、一人で盛り上がってしまって……。でも真実なんです。貴方様こそ、わたくしがずっと探し求めてきた、お人なんです!」
それは悲痛な叫びだった。彼女の表情は切なそうに歪んでいた。一歩踏み出すのが、やけにスローに見えて――
「いや、ちょ、ちょっと」
何を思ったか。彼女はいきなり俺に抱き着いてきた。柔らかくて、暖かい彼女の存在が背中から伝わってくる。
「ユキト様、わたくしは今度こそ、貴方様と一緒にいたいのです。生まれ変わったら、一緒になろう――わたくしはその約束を、心の底から果たしたいのでございます!」
畳みかけるように、彼女は一生懸命に叫んできた。俺にしがみついたまま、ぴたりと顔を押し当てているのがわかる。
「待て、待て、待ってくれ!」
彼女にきつく抱き留められたまま、俺は身体を反転させた。そして、その身体を押し返す。
このまま雰囲気に流されるほど、俺は都合のいい人間じゃなかった。突然のことで、一瞬驚いたものの、こういうのはマズい。
彼女の目は赤かった。泣いていたのだろう、雫がまだ少し頬に残っている。目を離せば消えてしまうんじゃないか、そう思えるほどに彼女は壊れやすく儚げな雰囲気を纏っている。
「話はよくわかった。でも、受け入れることはできない。俺はお前の運命の相手じゃないよ」
「いいえ、貴方様こそそうなのです。ユキト様の生まれ変わり。わたくしにはわかるのです!」
「だとしても、だ。俺にどうしろと?」
「さっきも言ったでしょう? わたくしは今度こそ、貴方様に添い遂げたいのです!」
それは誰が聞いても愛の告白だった。胸に手を当てて、前のめりになって。その顔はどこまでも必死で、どこかドキッとするほど憂いげで――
いやいやいやいや、ありえない! まさか、こんな形で人生初の告白を体験することになるとは……しかも、自分がそれをする前に。
心臓はかなり高鳴っていた。胃の奥底がぐるぐるして気持ち悪い。気分が落ち着かなくて、呼吸が浅い。
それでも、俺は即座に頷くことはしなかった。理性はまだ少しは残っていた。その告白の理由は、俺が前世の恋人(思い込み)だから。
嬉しいよりまず先に、薄気味悪さを強く、俺は感じていた。何も知らない女の告白を受けるほど、俺は童貞を拗らせていない。例え、相手がこんな美少女でも、頭のどこかで、こいつは危険だと警報が鳴っている。
「あのさ、お互いこのことは忘れて、すっきり生きて行こうぜ。過去の怨念にいつまでも囚われていてはダメだと思うんだ」
「覚えていないのに、適当なことを言わないでくださいっ!」
彼女はむくれて金切り声を上げた。その顔が少し曇る。
今の俺が悪かった。不用意だった。デリケートな話題なのに、踏み込み過ぎた。反省を三度重ねて、切り口を変える。
「とにかく、俺はお前とただのクラスメイト以上の付き合いをするつもりはない!」
「むっ! いいですよ、絶対もう一度惚れさせてみせますから!」
俺の強い拒絶に、彼女は一瞬面食らったようだったが、すぐに頬を膨らませた。そして、固い決意を秘めた眼差しで、俺の瞳を覗き込んでいる。
どうやら、逆効果だったらしい。より彼女の中の恋の炎が燃え上がってしまった気が……。面倒くさそうなことになりそうな予感がする。
だが、いずれまた落ち着くだろう。俺は絶対に彼女の前世の恋人ではない。やがて彼女もそれに気が付く。それで全て終わりだ。俺は彼女に好きになってもらえるような人間ではないんだから――
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