第八話 いつもと違う昼休み

 かっかっかっかっ、教員が快活にチョークで黒板に文字を刻み込んでいる。大げさかもしれないが、この人筆圧が濃いから的外れでもない。みんな、黒板を消す時には文句を言う。


 黒いアフロ頭に、サンタクロースみたいな口髭(色はやはり黒だけど)、そしてネクタイなしのワイシャツに紺のスラックス……滅茶苦茶アンバランスな姿のこの男は、うちのクラスの数学教師だ。年齢不詳。

 えー、であるから、というのが口癖だった。板書する前と後に必ずそう言う。前、誰かがその回数を計測してたっけ。


「えー、であるから、この不等式はX=2√3の時に成立する、と」


 かつんと、強くチョークで黒板を叩く。決まり文句を枕詞にして、彼は教科書の例題にケリをつけた。


 そしてキンコンカンコンと、まるでファンファーレのように間髪入れずにチャイムが鳴る。いつも時間ぴったりに授業を終える彼のことを、尊敬と揶揄いを半分半分にロボットと、生徒たちは呼んでいた。無論、俺も偶にその呼称を使う。


「よし、今日の授業はこれまで。練習問題は宿題にするから、やっておくように。号令係」

「起立、礼」


 正式な儀式を経て、四時間目の授業が終わった。ぺたぺたとサンダルを鳴らしながら、教師は職員室へと戻っていく。


 着席すると、俺はまた板書を取る作業を再開した。授業終わりに、例題の解法を扱われるととてもじゃないが追いつかない。

 こういう時は、剛が心の底から羨ましい。彼が授業時間を超えてノートに何かを書きこんでいる姿を、俺は中学の時から見た覚えはなかった。斜め前にちょっとばかし見える彼の机にはもう授業道具はなかった。

 ……板書を取らない、という点では学も同じだが。大抵、あの野郎、上手く寝てやがる。今もまだ突っ伏しているし。まあこいつの場合は、定期テストで痛い目を見るという結末が待ち受けているのだが。


「ユキトさん、ありがとうございました!」

 ぺこりと明城が頭を下げた。毎時間毎時間、よくもまあ飽きもせずにできるものだ。そこは素直に感心した。


「別にいいのに、お礼なんて。教科書まだ買ってないんじゃ、仕方ないだろ?」

「でもご迷惑をかけてることは事実ですから」

 きっぱりと首を振る明城。妙な言動が絡まなければ、至極真面目な奴だとは思う。


 しかし、ようやくはとれたものの、やはり女子から名前で呼ばれるとどうにもこそばゆい。昔から、苗字、あるいはあだ名で呼ばれることの方が多かった。

 ただ、一人例外を挙げるとすれば――


 雪江は、ちょっと背中を丸めて熱心に文字を書いているみたいだった。肩口くらいまでの長さの栗色の紙が微かに揺れている。当然、斜め後ろからの俺の視線に気が付くわけもなく。

 あいつくらいだろう、幼稚園から一緒のせいか、中学の時までは名前で呼ばれてた。……今は、わからない。会話らしい会話は、ここ二年くらいしていない。


「もしかして、あの方がユキトさんの今の恋人さんですか?」

 ちょっと雪江の方を見ていたら、いきなり声を掛けられた。それで、俺は身体がびくっとする。

「は? ええと、何を言ってるのかな、明城さん?」


 俺は机を離しながら答えた。早くしないと、また面倒なことになる。一時間目のあれで、よく学習済みだ。

 やはり休み時間になる度にこいつの周りには人だかりができた。さすが転入生、そして噂はもう学年中に広まってるらしく、時折他クラスのやつまで侵入してくる。

 それがこうして、毎時間の度に机を離す理由だ。本当なら、授業になってどうせいちいちくっつけるのだから、そのままでもいいと思うのだが。


「だって、さっきもユキトさんのこと、じっと見てましたよ?」

「気のせいだろ。だってほら、今もああして黙々とノーと書いてるじゃないか」

「一時間目が終わった後のことです。ほら、あの人もこちらに来ていたじゃないですか」

「覚えてないよ」

 俺は早口でそう返した。そして、完全に机を切り離す。


 本当はそうではなかったけど。でもなんとなく認めたくはなかった。それがどうしてだか、自分でもよくわからなかったけど。


「ほら、また来たぞ」

 

 誤魔化す様に俺は前方を指さした。

 何度目だろうか、またしてもいくらかクラスメイト達が寄ってきている。ほんと、飽きもせずによく来るもんだ、俺は少し感心しながら席を立った。

 すると、明城がキョトンとしながらこちらを見てきた。


「ユキトさん、どちらへ?」

「購買」


 今日は弁当がない日だった。あるかどうかは完全に母親の仕事のシフトによる。朝起きてみないと、今日がどっちなのかはわからない。事前に訊くという手もあるが、それも催促しているようで面倒くさかった。

 だから、机の上に弁当の包みがないときは、例え母親が家にいても割り切っている。それに、購買のものが嫌なわけでもない。

 ただ、いいものを食べようとすれば争奪戦が繰り広げられるから、その点だけは不服だったが。ちなみに今の時間だと、おそらく俺は勝てない。もう貪欲なハンターたちに狩りつくされていることだろう。


「購買もあるんですね、この学校! 前いた学校にはなかったので……。あの、ついて行ってもいいですか? 見てみたいです、わたくし」

「……いや、お前、昼メシはどうすんだよ? 持ってきてんだろ?」

「ええ、はい。でも、戻ってきてからでいいです。ユキトさんと一緒に食べたいですし」

 恥ずかしそうに視線を逸らして、耳元の髪をいじる明城。


 なぜ照れる。そして、俺は別にお前と食べたくはないんだが。……しかし、それを口にする度胸は持ち合わせていなかった。

 俺が黙っているのを肯定と受け止めたらしい。彼女もまた席を立った。完全に断るタイミングを失ったわけである。


「おい、ちょっと購買行ってくるわ」

「聞いてたぞ。で、明城さんとランチだろ?」

「残念だよ、幸人君。キミは遠くに行ってしまったんだね」

「いやいや、別に四人ででいいじゃねえか。なんなんだ、お前ら、その反応」

「えっ! わたくしは、ユキトさんと二人がいいです!」


 なぜか、軽蔑した風に俺を見てくる友人二人に、そして、とんでもない発言を平然とぶっこんでくる明城。こいつら、たかが昼メシごときで大げさすぎないか。


「ほらな。さ、学。青春の敗北者たる俺たちは、男同士寂しく傷のなめ合いをしようぜ」

「剛、そういう物言いするから、お前そっち系疑惑が建つんだぞ?」


 字面だけだとそうでもないが、その言い方と、学の肩への手の置き方が合わさると、ちょっとアレな風である。


「どうせ戻ってくるんだから、待ってろって」

「ふん、裏切り者と机を並べるつもりはないわっ!」

 取り付く島もないとはこのことだった。


「いや裏切り者って……大げさすぎない?」


 はあ、と一つため息をついて、俺はゆっくりと教室後方に向かって歩き始めた。後ろから、明城もついてくる。


 その後、パンを買って戻る頃には二人は食事を始めていたのは言うまでもなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る