À La Seconde ~2番の位置に~ 【KAC2】

Han Lu

後悔と引き換えに

 最初はそんなこと、思いもしなかった。

 姉の方が私なんかよりも、ずっとすごいと思っていた。

 実際、姉は上手かった。

 バレエを始めたのは私の方が先だったのに、アン・ドゥオールも、プリエも、ルルヴェも、いつのまにか私よりも――教室の誰よりも、姉は美しく完ぺきにこなした。

 もしかしたら、この子は将来コンセルヴァトワールに行くことだって夢じゃないんじゃないか。

 そんな周りの大人たちの言葉を、姉は特に意に介すことなく、いつも淡々と練習をこなしていた。

 私はそんな姉の姿をよくぼんやりと眺めていた。

 窓から差し込む午後の柔らかな日差しを浴びて、大きな鏡の前でアチチュードの形をとる姉の姿を見るたびに、私は新種の美しい鳥を発見したような素敵な気持ちになった。

 私にとって姉は常に一番で、私は二番目。

 でもそれでよかった。

 そんな私の姉への気持ちに変化が生じ始めたのは、同じ教室のエリザがしきりに私に話しかけてくるようになってからだ。

「ねえ、レダ」エリザはそっと私の耳元でささやいた。「本当はあなたのほうがジゼルよりも上手なのに。気付いてないの? 悔しくないの? いつもジゼルに主役を取られて。本当はあなたこそふさわしいのに」

 最初はそんなわけないと否定していた私の心のなかに、いつしかどんよりとした黒いものが広がっていった。白い器に張られた水面に、ほんの一滴落とされたインク。それは黒い雲となって、いつしか私の心の隅々に行き渡っていった。

 いつも主役に選ばれる姉。でも、もしも姉がいなかったら。いつも離れた場所から眺めていた舞台の真ん中に立つことができたら。そこから見える景色はどんなものなんだろう。どんな気持ちがするんだろう。

「それに、知ってる? ジゼルったら、国立学校に入るために、汚らわしいやり方で先生の弟に取り入ろうとしているのよ」

「汚らわしいって、どういうこと?」

 私の問いに、エリザは思わせぶりに答えた。

「いずれ分かるわ」

 バレエ学校の私たちのクラスの先生の弟は、大学で音楽を教えていて、国立バレエ学校にもつてがあるという噂だった。彼はしばしば先生を尋ねて教室を訪れていた。

 あるとき私は、姉と彼がふたりきりでいるところを見てしまった。彼は姉の腰に手をまわしていた。その手つきと、姉が彼に見せた表情を目にした私は、すぐさまその場を立ち去った。


「ふたりでゆっくり出かけるなんて久しぶりね」

 その日、私は姉を伴って教会へ出かけた。

「ねえ、見て、ジゼル。相変わらずすごく良い眺め」

 私は石畳の階段を登ってくるよう、姉を促した。

 私は知っていた。

 この階段のある部分の石がもろくなっていることを。ほんのわずかな力で、あっさりと崩れてしまうことを。

「ほら、こっちよ、ジゼル」

 私の伸ばした手をつかもうと、一歩踏み出した姉の体はぐらりと傾いた。

 予想通り、割れた石に足を取られ、姉はバランスを崩した。でも、姉の手は私の予想に反して、すぐそばの手すりへと伸びた。

 その階段の傷みは石畳だけではなかった。

 鉄製の手すりのついた石壁は、がらがらと音を立てて崩れ、姉の体もろともあっという間に数メートル下の道路に落下した。

  

 そのあとのことはあまり記憶にない。

 ちゃんと覚えているのは、姉の病室にいる場面だ。

 そのときはもう姉は落ち着いていて、ベッドに半身を起こし、側の椅子に座っている私を見ていた。

「あなたに怪我がなくてよかった」

 姉の言葉に、私はどうしていいかわからず、首を振るばかりだった。

 道路に落ちた姉は、運悪く、通りかかった馬車の車輪に足を轢かれた。

 バレエの夢は、姉の足の骨と一緒に砕け散ってしまった。

「どうして」私はいった。「どうしてそんなに落ち着いていられるの。ジゼルはもう踊れなくなっちゃったんだよ」

 私のせいで――という言葉を私は飲み込んだ。

「バレエだけが人生じゃないわ」姉はいった。「私たぶん、このままバレエを続けていたら、バレエだけしか考えられない人生を生きたと思うの。でも、そんなのいつか必ず行き詰ってしまう。そういう生き方を続けられる人もいるでしょう。でも、私はそんなに強くない。だからこれでよかったの」

「嘘だ」

 ジゼルは首をかしげた。

「だって」私は一瞬いいよどんだ。「だって、先生の弟に、ジゼルは……」

 それ以上何といえばいいのか分からなくなって、私は口をつぐんだ。

 私のいいたいことを察したジゼルは、突然笑い出した。

「レダ、あの人、女性に興味がないのよ」

「え」

 今思えば、エリザがあんなことを私にいい出したのは、姉の才能に嫉妬して、なんとか姉を蹴落とそうとしたからだろう。でも、あのときの私はまだ幼くて、そこまで考えが至らなかった。

 ほんの捻挫くらいで済むと思っていた。

 その怪我で次の主役の座を下ろされればいいと思った。

 私は姉の悔しがる顔が一度でいいから見てみたかった。苦しそうな顔が見てみたかった。

 私が見たことのない姉の顔。

 でも、ベッドの上の姉の表情はいつもと同じ、穏やかなものだった。

「これはまだいうつもりはなかったんだけど」ジゼルは真剣なまなざしを私に向けた。「あなたには私以上の才能がある。粗削りだから今はまだ目立たないけど。先生たちもちゃんと気づいてる。あの人――先生の弟さんにもあなたのことを頼んでいるから。だから――」

 私は姉の言葉を、最後まで聞くことができなかった。

 椅子を蹴って、私は姉の病室を飛び出した。


 いつもなら決して近づかない、町外れにある墓地の中を、私はふらふらとさまよっていた。

 遠くの方から雷の音が聞こえてくる。

 やがて細かな雨が降り始めた。

 どれくらい歩いただろうか。

 墓地は深い森の中へと通じていて、そんな場所にも、ところどころに古い墓石が置かれていた。

 稲光が目の前の墓石と石の棺を照らした。

 棺の上に、人が座っていた。

 黒い外套に身を包み、長い足を無造作に放り出して、くつろいだ格好で石の棺の上に腰かけている。

「やあ」

 腰まである銀髪から覗く顔は、十代の少年にも、六十代の老人にも見える、不思議なものだった。

「君がそこに抱えているのは」男は私の胸元を指さした。細くて長い指だった。「とてつもなく深い後悔、悔恨、そして慚愧。そうだね」

 私は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなっていた。

「ひとつ取引をしないかい」男がいった。「君の命と引き換えに、その後悔の原因をもとに戻してあげる。悪い取り引きじゃないと思うけど、どうかな」

 思わず私はいった。「それは、姉の――ジゼルの足が元通りになるってことですか」

「それが君に後悔をもたらすものならばね」

「私の命はどうなってもかまいません」私は叫んだ。「だからお願いです。ジゼルの足を元通りにしてください」

 私は棺の前の地面にひざまずき、手を組んで祈った。

「お願いです」

 男がゆっくりと立ち上がる気配がした。

「じゃあ、契約成立だ」


 目を開くと、低い天井があった。

 私はどうやらベッドに寝ているみたいだ。

 起き上がろうと体を動かすと、男の人の声がした。

「ゆっくり。無理しないで」

 ベッドの脇のスツールに男の人が腰を下ろした。

 まぶしい。

 男の人の背後に置かれている机の上のろうそくの灯りが私の目を刺した。

 部屋の中の灯りはあのろうそく一本だけみないなのに、どうしてこんなにもまぶしいのだろう。それに……。

「私、まだ生きてる」

 起き上がりながら、そうつぶやいた私に、男の人がいった。

「正確にいうと、君は通常の状態で生きているとはいえない」

 彼のいっていることが理解できず、とまどう私に彼は続けた。

「君はもう昼間の生活は送れない。太陽の下では常に肌を隠していなければならない。でも、夜の闇は君の大きな味方となる。闇の中で、君は大きな力を発揮する。闇の中で君の身体能力は通常の人のそれを大きく凌駕する。遠くまで見通せるし、闇の中では仲間たちと意思の疎通もできる」

「仲間……」

「その話はまたあとで。体が慣れるまで、ここにいていい。とにかく、君は生まれ変わったんだ」

 やっぱりまだよく理解できない。

 私は首筋に違和感を感じて、手をやった。うなじに二か所、小さな丸い傷のようなものがある。

 男の人が、私に手を差し出した。

「僕の名前はレオナール・ド・ブロイ。レオでいい。君のその力をこの国のために使ってみないかい?」


「今回も楽勝だったねー、シーニュ」

 ニコルが私をコードネームで呼んだ。

「もう誰もいないから、名前で呼んでも大丈夫よ」

 私は足元に横たわる男たちを見下ろしながらいった。今回のターゲット――大きなソファの上で気を失っている太った男は元老院議員の息子で、権力をかさに貧しい人たちから金を絞りとるあくどい商売を続けていた。なかなか尻尾をつかめなかったけれど、ようやく証拠をつかめた。あとは官憲に引き渡すだけだ。

「えー。だって、用心にこしたことないよー」ニコルが首を振る。「レオがいつもいってるじゃん。帰還するまでが任務だって」

「分ったわ、フルミ」

 私はニコルをコードネームで呼ぶと、窓の外からジャンプして近くの木に飛び移り、人気のない深夜の路上に降り立った。ニコルも私のあとを追って、近くに降り立つ。

「やっぱり、シーニュが私たちの中で一番身体能力が高いね」

 一番、か。

「私、一番って嫌いなの。二番がいい」

「えー。なにそれー」

 あれから私は姉には一度も会っていない。噂では、奇跡的に足の傷は完治したけれど、バレエの道はあきらめて、郊外で小さな食堂を開いたそうだ。

「シーニュ」ニコルが私の顔を覗き込んだ。「昔のことを考えてたでしょ」

「ああ、うん」

「このあたり、闇が濃いんだから、すぐに伝わっちゃうよ」

「ごめん」

「ま、いいけどねー」ニコルがくすくすと笑う。「じゃあ、レオのところに帰りましょっかー」

 私は頷くと、地面を蹴って、跳躍した。

 第三共和政になってまだ数年。安定しない政治の裏で暗躍する者たちを狩る影の組織――通称フクロウ。それが今の私の場所だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

À La Seconde ~2番の位置に~ 【KAC2】 Han Lu @Han_Lu_Han

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ