第28話【聖夜のエピローグⅣ】



キルシェがバブシカの屋敷に弟子として住むようになった秋の日のことだ。


庭に散った枯葉を掃除していると、花がすっかり落ちかけた桜の木に、実がなっているのを見つけた。


桜の実は不味いとよく言われる。果実酒にでもすれば、飲めないことはない。


不味いと呼ばれる物に人は、わざわざ興味を示さない。彼女もそうだった。


目の前にたわわに実った木の実は、プラムや桃に似た形をしていた。


赤褐色や薄桃色した果実は見るからに美味しそうに見えるものだ。


しかし遠目に見て、プラムよりも桃よりもずっと小ぶりなその実は、なんとも微妙な肌色をしていた。


それ以上は色づくことはなく、今が完熟の状態だった。それが証拠に既に皮がはじけて、縦に亀裂が入った実が数多く見受けられたからだ。


キルシェの記憶の中にある桜の実とは明らかに違っていた。


しかし此処は魔法使いの御屋敷である。彼女はすぐに考えを巡らせた。


「魔女の住む御屋敷に生えている桜の実だもの…他のと違っていても、少しもおかしくはない」


そう考えた彼女は梯子を持ち出して、幹に立て掛け梢まで登り、果実に手を伸ばした。


夏の間はそよがれ守られて。落葉を始めた木の葉の中で謎の実は、噎せ返る甘酸っぱい芳香を放っていた。


その実はアマレットの香りに似ていた。


アマレットとは、杏の仁を取り出して作られる酒のことだ。


しかし杏や桜桃の実の香りの甘さにはない。強い酸味が鼻につく。


果実から発生する青酸ガスの香り。木の上でもいだ果実を藤の籠に詰め、彼女はいそいそと師の所に持って行った。


いち早く、この魔法の実の生っているのを見つけたと伝えたい。収穫したら師匠を喜ばせることが出来るかもしれない。


そう彼女は考えた。


「バブシカ様、桜の木がこんなに実をつけましてございます。見て下さい!」


「それは阿呆の果実だ」


彼女が持ち込んだ、アーモンドの実がぎつしりと詰め込まれた藤籠。


それを見たバブシカは頭を掻いた。


「キルシェ、それは魔法の実でも桜でもなくアーモンドの実だよ」


「 ですが!バブシカ様は『あれは桜の木だ』と言って私にその名前を下さいました!」


キルシェは幼い頃から利発で、勝ち気な性格の少女だった。


その瞳の奥は旺盛な探究心に満ちて、偽りや誤魔化しを本能的に嫌い見抜いた。


不正をする者は他人も自分も、けして許すまじという正義の炎が燃えていた。


だからバブシカは自分の後を継ぐ者に相応しいと考え、彼女を弟子に迎えた。


「阿呆の住む家の木には、阿呆の実が生るものだ。勿論阿呆は私だ」


そう言って彼女の頭を撫でた後、そのまま部屋に隠って出て来なかった。


もしかしたら自分の名前は、アーモンドかアマレットに変えられてしまう。


「自分は余計なことをしたのでは」


そう考えると、忽ち不安になった。


しかしバブシカは自分の部屋から出て来るとすぐ「その実が入った藤籠を持って台所に来るように」と彼女に言った。


「魔法使いになると、とかく何かと便利なものだ。しかし油断してると、家にある草木の名前も分からないような馬鹿になってしまう。この私がいい例さ」


台所で服の袖を捲り、よく手を洗いながら彼女の師は彼女に言った。


「だから弟子を持つことは、すごくいいことなのさ。私が知らないことを、お前が運んで来て教えてくれるからね」


そう言って彼女の見ている前で、包丁でアーモンドの実を割って見せた。


紅色の薄い果肉に包まれた見覚えがある楕円形の種子が顔を除かせていた。


「触ってまだ実がやわらかいうちは収穫の次期ではないのさ。もっと実が乾いて、胡桃のように固くならないと、水分で実が腐ってしまうからね」


そう言って包丁の刃先で器用に種だけ取り出して笊に置いた。


「やってごらん」


彼女にはスプーンが手渡された。


「剥いた種の半分は笊に入れて、残りの半分は水を入れた桶に入れるように」


師匠のバブシカは彼女に何か用を言いつける時に必ず一度自分がやって見せた。


それは掃除の仕方だったり、食事の下拵えであったり、普通の家庭で母親が娘に教えることと何も変わりはなかった。


毎日食べる料理にしても、大鍋で煮た蛙や蛇や、怪しげな薬草が出て来るわけでもなかった。


「魔法使いの弟子になったら一番大切なことは魔法使いと生活することだ」


彼女の師のバブシカはよく彼女にそう言った。魔法使いの屋敷に住み、同じ空気を吸い、同じ水や食物を口にして眠る。


人と違う速さで成長するが、その頃にはもう難解な呪文を読み解き暗記出来るようになっている。


そうなるまで魔法は、人にけして寄りつかないし、身につきもしないものだ。そう彼女は師に教えられた。


「ただし、人が教えられて出来るようなことが一度で覚えられぬようなら」


彼女は直ちに魔法使いの弟子をやめなくてはならないと言われていた。


「今ここにいるあんたは死んでしまう」


死んでしまう。魔法使いの弟子ではなくなることを意味していた。


朝目覚めたら、彼女はなにも覚えてはいない。師匠のことも魔法のことも、ここで暮らしたことも、死ぬまで思い出さない。


彼女の以前住んでいた家族ではない。


別の土地で別の家族と暮らすことになるだろう。せめてもの温情だった。


そこからまた彼女は人としての一生が始まる。それだけだ。


いざ魔法使いになった者が、しくじりを犯せばそれは死を意味する。


その苦しみは、相手が魔道の者である場合、想像を絶するものである。どんな残酷な仕打ちが待っているか分からない。


そうなる前に弟子から再び人の道を選んで迎える死の方がいい。


余程その者には救いだろうというのが彼女の師の考えだった。


まだ彼女は後戻り出来る、子供の姿をしている。そう彼女の師は話した。


彼女は戻りたくなかった。


ここで、師の元で立派な魔法使いになりたいと願った。


弟子として暮らす日々は、彼女の失われた日常のように見えても、それは人の日常ではなかった。


彼女が手放したものは永久に戻らない。


代わりに魔法使いになる。師匠のバブシカのような、偉大な魔女といつか呼ばれるように私もなりたい。


師の言葉は一言一句聞き逃さず、いつも教えられたことは、必ず一度で覚えられるようにした。やがて成長して呼ばなくても足元に小犬が寄りつくように、魔法に彼女が慕われる日が来るまで。


彼女の修行は続いた。


「笊にとった種は鉄鍋で煎ればいい。実の方はあまり使い道があるとは思えないけど、今日はマジパンの生地に混ぜて焼いてみようか…そう、煎った種は紙の上で冷まして広口の瓶に詰めておけばいいよ」


彼女は手解きを受けて鉄鍋を煽る。


魔法ではなくこれは料理だ。


種を外した実は細かく刻まれた。


グランペットやヴィクトリア風のサンドウイッチやスコーンの中に入って、お茶の時間にアーモンドと一緒に出された。


水に2日間ほど浸したアーモンドの種は、細かく擂り潰した後で、水を入れた鍋で炊いてから濾して、さらに糖蜜を加えて煮ればアーモンドミルクになる。


アーモンドミルクは、牛や山羊のミルクよりもずっと日持ちがよく、紅茶やコー匕ーに混ぜると風味が良くなった。


彼女は沸かした本物の牛のミルクにそれを入れて飲むのが好きだった。


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