第21話【その者の名前はⅡ】



夜明け前。鯨油の外灯の灯は消えても、朝靄のような煤煙と埃は街に立ち込めたまま、けして消える事はなかった。


イーストエンドの路地に染み付いて消えないのは、腐った魚や野菜と、道端で肉を捌いた時に流れた血の匂いだった。


昨夜旅人と酒を飲んだパブは、まだ閉まっていた。彼女は入り口で待った。


暫くすると、埃で汚れた山高帽を尻のあたりで叩きながら、褐色の肌をした青年が、店から出て来た。


彼は寝癖のついた黒髪を、帽子の中にしまいながら、彼女の姿を見つけると白い歯を見せて笑いかけた。


別にお互いに、この店の前で落ち合おうと約束して別れたわけではない。


意図的に隠そうとしない限り、彼女は魔法使いが何処にいても、その居場所は直ぐにわかった。


夜に訪れた時に見上げた建物は2階建てで、小さなテラスもつけられていた。


それはパブが、旅人のための宿屋も兼ねていることを意味していた。


ロンドンの中心街にあるパブとの違いは、この店の外の壁や屋根の軒先に花が飾られていないことだった。


「外に花なんて…もし盗まれたらどうするんですか?」


店主は真顔で彼女に言った。此処はロンドンでもイーストエンド。


東地区は本来なら、治安が悪く立ち入り禁止区域だった。


立ち入り禁止といっても、警官が出はって道を封鎖したり、看板や立て札が立っているわけではなかった。


ただ物取りや殺人件数が多いこの地区に、用もなく迷い込む人間はロンドンにはいない。


「おはよう!キル ミスター!」


「適当な名前で私を呼ぶな!それは野郎の名前だろう」


「キル ゼム オールさん?」


「恐る恐る『人殺しですか?』と聞くやつがいるか!私は殺人機械か?」


「だったら、キルの下の名前教えてくれよ~キル姉さん!そうだ!あんたのこと、これからキル姉さんって呼んでいいか?」


「悪いが私はお前の姉さんではないし、姉さんと呼ばれるほど、年も食ってはいないつもりだ」


そんなやり取りをしながら、2人はロンドン市内へ向かった。


セント ポール大聖堂もロンドン橋も、19世紀のロンドン市民にとっては、さほど大昔の建築物ではなかった。


寺院の聖堂は、1710年に完成した3代目で、2代目はロンドン大火で消失した。


5つの水鳥の羽のようなアーチを広げたロンドン橋の前を通る。


それまでの木製の橋から、石造りの橋に建て替えられ、100年にも満たない。


朝から埃を舞い上げ、歩行者や馬車の往来は激しく、いつも渋滞している。



「こん中入れるのか?」


「もとは王様一族が住んでたらしいが、今は博物館とやらになってるから、金さえ払えば入れるぞ」


「金払うならいいや!」


モートはロンドン塔を見上げて言った


「観光に来たわけではないからな」


イングランド銀行からタワー ブリッジ、王立取引所、中央郵便局、王立裁判所へと、2人は異国から訪れた旅行者のように休むことなく、ロンドンの主要な場所を歩きまわった。


「なあ…なんで、あのでかい建物には窓が1つもないんだ?」


コリント洋式の石柱が、まるでギリシアの遺跡のような建物を見て、モートは不思議そうに彼女に訊ねた。


「窓がない建物は銀行だ。お前みたいな不届き者が、窓から侵入しないためだ」


彼女とモートは、彼女が仕掛けた結界の術式を、その場で指差し確認して、それに更なる結界の上書きをする。そんな作業を至るところで続けた。


ロンドン市内を歩けば、そこら中で歴史的な建物に出会す。通りの名前1つとっても、某かの謂われや由来がある街だ。


その度に興味を示し、立ち止まって、子供のように目を輝かせ訊ねる。いちいちモートの質問に答えてやらねばならず、彼女は疲労した。


それでも、人通りが多い大通りにさしかかると、彼女の頬や耳が仄かに血の気がさした。みるみるうちに元気になった。


ロンドン市内の混雑する通りを歩くのは、それほど苦痛ではなかった。


実は彼女の密やかな楽しみでもあった。


チープ・サイド大通り。終日人の往来が絶えることがなく、大層賑やか。


セント メアリー ル ボウ教会の塔が、巷の雑沓から顔を覗かせ、いつも通行人を見下ろしている。


たとえ教会に見守られていても、此処の治安の悪さは折り紙つきだった。


彼女はフリートでもストランドでも、大通りと名のつく場所が好きだった。


ヘイマーケットから、ハイド パークコーナーまで歩けば、およそ1.6キロメートル先にある、ピカデリー通りの交差点に突き当たる。


ここはノーラと初めて訪れた。ロンドンの流行の中心地だった。北側には商店街、南側にグリーン・パーク。すぐ近くには貴族の邸宅が並んで見えた。


ロンドン大火の火元となった、プディングレーンから、62メートル離れた距離に寺院の尖塔のような、同じ高さのロンドン大火のモニュメントが立っている。


4日間に渡りロンドン市内を焼き尽くした大火は、この街を現在の姿に変貌させた。石造りの建物が建ち並ぶ街の風景。


おそらくこれから先は、100年後も大きく様変わりする事はないだろう。


モニュメントの台座には、火災復興に尽力した、チャールズ2世の碑文が刻まれていた。


大火災から復興したロンドン。防災と多国からの兵士の侵略を防ぐため、バッキンガム宮殿や国会議事堂、ウエスト ミンスター宮殿など、国の重要な施設がある区域へ至る通路を、やたらと曲がり角の多い迷路のような路地へと変えた。


路地の曲がり角は、産業革命による恩恵ばかりでなく、格差社会の影をそこに作り出した。他に行き場のない貧民や、移民たちの居住区となり、いつからか犯罪者たちの格好の隠れ場所となった。


彼女の暮らす19世紀のロンドンの街を、過去や未来の姿と比較すれば、圧倒的に違っていたのは、行商人の数であった。


世界で初めて産業革命が起きた英国。その首都であるロンドンは、当時は既に世界1の大都市となっていた。


国の内外から、富や豊かな生活を求め、移住する地方民や移民たち。世界中から旅行者が挙って、街に押し寄せた。


しかしそこにある現実の大都市は、持つ者と持たざる者たちの間に出来た、凄まじい格差のある社会であった。


住む家もなく、貧民街に追いやられた人々は、服もろくに身につけず、終日路地に寝そべり只日が暮れるのを待った。


テムズ川が干潮の時刻を迎えると、貧民街の子供たちは、笊を片手に川の塵を浚いに出かけた。


もし腐乱した死体でも見つけようものなら、子供たちは小踊りして喜こんだ。


役人や警察官が来る前に、遺体のポケットから財布や、身につけている時計やカフスといった、金になりそうな物はすべて毟り取られ持ち去られた。


都市の川は当時から汚染が進み、マッドラークと呼ばれる、そうした少年たちは皆一様に早死にであった。


10歳を過ぎた貧民の少女が、売春婦として街角に立つ姿も、此処彼処で見受けられた。その中には、当時治療法がなかった梅毒に感染し、命を落とす少女も数多くいた。


当時の様子を文豪ディケンズは、テムズ川で泥を浚う子供たちの姿と、ロンドンの街並を見てこう嘆いた。


「ロンドンは人を喰らう飢えた獣だ」


「数えきれない人々が、この街に引き寄せられ、そして2度と戻らないのだ」


そう著書の中で綴っている。歴史学者によれば。「産業革命とは【革命】と呼べるほど、爆発的かつ革命的な変化を、庶民にもたらした訳ではない」らしい。


蒸気機関が発明され、鉄道の線路が敷かれた。紡績工場が各地に建設され、石炭が都市の主要な燃料に変わった。


それは50年から100年の歳月をかけて、緩に成されたものだ。彼女がこの街に来てから、少しずつ都市の緑は枯れて都心部から後退し、テムズ川の水の色は年々澱み、その色を変えて行った。


今では彼女の身につけている外套は、冬以外でも、随分重宝する物になった。


繁華街を半日歩いただけで、振るえば黒い煤が地面に落ちた。フードを被っているおかげで、髪も中の洋服も、煤で黒く汚れることはなかった。


あの時に隠っていた家から、ノーラを外に連れ出した。それから途中で都心から郊外にでも場所を変えなければ、忽ち障気のようなこの街の空気に、体をやられてしまったかもしれない。


それでも彼女は、このロンドンの街が好きだった。魔法使いのような格好をした少女が、明らかに異邦人とわかる少年と連れ立って歩いても、誰も気に止める者はいなかったからだ。


勿論理由はそれだけではない。


この街では人は簡単に死ぬ。大人だろうと、子供だろうと時も選ばず、誰かの死体が路地裏に転がっている街だ。


通りを歩く人は、みんながみんな、自分のことに精一杯で、誰も彼女のことなど気にも止めなかった。


それでも街を離れて、家を出て、このロンドンの大通りに足が近づくと不思議と力が湧いて来る気がした。


人の死がすぐ身近にあればこそ、そこにある生命は輝きを増し漲る。


ロンドンは魔法使いの彼女に力を与える街だった。同時に近代化による目に見える人心や都市の荒廃は、彼女の宿敵の誕生に力を与える。大都市ロンドンは既に、そうした魔女の舞台となりつつある。それも彼女は肌で感じていた。



1813年に建築されたリージェント ストリート。全長1.6キロメートル。老舗や高級店が並ぶ通りで、ショーウィンドウには選りすぐりの品物が展示されている。


クリスマスシーズンなれば、たくさんの買い物客で、通りは混雑する。庶民の憧れが、いつもガラスケースの向う側に陳列されていた。それ以外の庶民が手に出来る物はすべて、大通りにあった。


この時代のロンドン市内だけでも、通りに出て商いをする行商人の数は、30000人を越えていた。


商いをする人間がそれだけいれば、仕事の数も100以上はあるものだ。


朝一番に街を歩くのは、新聞売りか路上の煙草拾いだ。彼らは市で雇われた清掃員より早く、毎朝通りに出て、勤勉に落ちた煙草を拾い集めた。


道に落ちた人糞や犬猫馬の糞を集める人々とは、それぞれ住み分けが出来ていて、煙草拾いは熱心に、ひたすら路上の煙草だけを集め続けた。


人馬や動物の糞は集めれば、貴重な畑の肥料として重宝された。


彼女には集められた煙草の吸殻が、再び路地で売られるのか、何かに活用されるのか分からなかった。


高級な装飾品や、高価な食べ物、高価な品物以外は何でも、ロンドンの大通りで売りに出されていた。


ストリートセラーと呼ばれる人たちは、押し車やカートに某かの品物を乗せ、いつも路上で売っていた。


売っている物は、牡蠣や鰻、えんどう豆のスープ、揚げた魚やジャガイモ、パイやプディング、ビクルスにジンジャーブレットにアイス…ミント水、ビールなどの飲料、ありとあらゆる食品から咳止め、衣類、中古の楽器類、生きた鳥や犬猫金魚まで、品揃えだけは豊富だった。


他には空のボトルや、何に使うかわからない骨や金属。おそらく何処かで拾った折れた燭台や、薄汚れて1つも揃わない食器類といった日用品の数々だった。


その中でもとりわけ人気のある商品は、格安で買えるコー匕ーや紅茶、黒砂糖や煙草やビールといった嗜好品であった。


真鍮製の細長い筒を持った水売りにも、人が多く集まる。水は当時のロンドンでは大変貴重であった。


工場や民家から垂流しされる廃水。テムズ川の汚染は既に深刻で、汚染されていない上流の飲料水は、まず先に貴族や特権階級の屋敷に優先的に供給された。


下流域から汲み上げられた水を生活用水にしている家庭では、コレラが流行し、それが原因で命を落とす者さえいた。


「綺麗な上流の水をさらに濾過した、安全な水です」


本当か嘘か分からなくても、安く安全な水が手に入るとなれば、人々は行列に並んだ。コー匕ー売りのコー匕ーには、実際には豆など半分しか使われておらず、香りを誤魔化すための野草チコリと、残りの半分は、黒くなるまで煎られた小麦粉だった。


紅茶には、綺麗な色を出すためのグラファイトに、顔料やウコン、中国粘土が使われ、茶葉にはそこらで採れた雑草が使われていた。


野菜は新鮮さを保つために、予め銅が染み込ませてあった。


子供たちが食べる、菓子に使われる砂糖には、ダニやカビの胞子や砂が常に混じっていた。


砂糖菓子には、砂糖のかさ増しのために、硫酸カルシウムが加えられることもあった。


路上で買える煙草に、本物の煙草が使われることも希なら、嗅ぎ煙草は大半が鉛入りで、使用するとかなりの確率で、深刻な鉛中毒を引き起こした。


それでも人々は、ビクトリア朝時代を生きる、貴族たちの暮らしを夢に見た。


染み1つない、さらさらの綺麗なドレスを身に纏い、美しく手入れされた庭園で優雅に過ごす。アフタヌーン ティーの時間を夢見て、紛い物の嗜好品を品定めしては、買い漁っていた。


英国政府もブルジョワ階級も、こうしたストリートセラーたちの商いに、まったく無関心で規制することはしなかった。


食品を保護する法律すら、当時は制定されていない時代だった。


「街で儲けたければ何でも売るがいい」


多くの特権階級や貴族たちは、産業革命で新たに発生した国内外の利権に群がり、誰よりも先に莫大な利益や地位を得る事に必死だった。


安定した職業から定収入を得るようになった、中産階級と呼ばれた人々は、メイドや執事がいる御屋敷での暮らしに、強い憧れを抱いた。


王室は財源確保のために、社会貢献度が高く、より多くの寄付をした者に、名誉貴族の地位を与えると発表していた。


自由競争の経済の世では、貴族の称号でさえ金で買えるのだと、女王陛下はそう国民に知らしめた。


彼女とモートが、昨夜酒を飲んだパブでは、入り口や部屋は違えど、貴族や金持ち連中も、以前は好んでパブを利用していた。


しかしそうしたブルジョワたちの足は、次第に遠退いて行った。


上流階級専用のサロンや、クラブがこの時代から作られ始めていたからだ。


通りからはみ出して、ロンドン橋を越えても、ストリートセラーのワゴンは途切れなく続く。毎日が何かの記念日のように、人の往来も日々増え続けた。


傍らで靴を磨く少年がいれば、勤勉で生真面目な顔をした鍵屋や彫金、研ぎ職人たちが通りの反対側にずらりと並ぶエリアもある。


市内にあるニューゲート監獄では、1868年まではワイバーンツリー同様に、建物の正面にある広場で、罪人の公開処刑を見ることが許されていた。


公開処刑が廃止になった今では、殴る蹴る殺すの血生臭い人形劇、ジョン&パンチが市民の間で人気を集めていた。


広場や橋の袂では、オルガンを弾いてチップを稼ぐオルガンライダーや、手回しのハーディガーディの演奏者が奏でる音に合わせて、ジグを踊る踊り子の姿も見られた。


ここは猿廻しやノゾキメガネ、占い師などが集まる大道芸人のエリアらしい。


音楽に耳を惹かれ、集まる人々に手書きの流行歌の歌詞を売る、路上の歌詞売りが彼女とモートに声をかける。


「歌など知らない」


そう彼女は言ったが、モートはまたセロリだのパセリだの歌い始めたので、彼女は急に恥ずかしくなって、慌てて彼の手を掴むとその場から駆け出した。


「なんか楽しいな!」


モートが彼女に言った。彼女は何も答えず黙って連れの手を引いた。


「楽しい」


彼女は心の中で呟いた。


1人で大通りを歩くのも、彼女の楽しみだった。ノーラと街を歩いた時も。


1人よりも2人の方が楽しい。


そんなことは、とっくに知っていた。


ただ気がつかぬふりをしていただけだ。


そして時は人や川の流れと同じだった。


いつも止まらずに流れるものだ。


「モート、お前はなぜ魔法使いになった?」


「別に…なろうと思ってなるものじゃないだろう」


「確かにそうだが」


「この国に来て、魔法使いの師匠に出会って、モートって名前をもらった。それより前の話は、あまり面白くも楽しくもない」


「私も同じだ」


「魔法使いになってから、やりたいことも出来たし、あんたみたいな人にも会えた。そんな話ならいくらでも…」


「ああ、聞かせてくれ」


「その代わり、あんたの話もだぜ」



「もうすぐで術式もすべて完成だ」


「これが終わったら、すぐに他所の街に行ってしまうのか」


2人が交わす会話の中に、いつしか白い息と雪が混じり始めていた。


いつかノーラとロンドンを離れた時に、ライの村の入り口で、冬のマレキフィムを見た。


それから気節がまた流れ、翳した掌に落ちる雪を見て彼女はそれを思い出した。


雪と氷のマレキフィム。


その者には名前がなかった。


彼女は暫く押し黙った。


すると無遠慮な手が、彼女のフードを押し上げた。


「なにをする」


冷たい空気の中に突然晒された彼女の素顔。


抗議する間もなく、頭と耳が真綿のように白いもので覆われた。


「冷えて来たからな」


そう言ってモートが彼女に耳に被せたのは、白い兎の毛で出来た耳当てだった。


「以前仕事で使っていた、師匠にもらったんだ。少しは寒さもしのげるだろう」


それは本当に魔法の耳当てだったのか。


悴んで冷えた耳の先から、彼女の胸の中まで温かさが伝わる気がした。


「ク、クリスマスにはまだ少し気が早いようだ…けど、ありがとう」


「クリスマス」


モートが不思議そうな顔をして、彼女の顔を見た。


「それは食えるものか?」


そんな不粋な言葉を聞かされるのが嫌で、彼女はただ黙って前を歩き始めた。














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