花見ー参 千本桜
バスはそのまま吉野駅の先、金峰山寺蔵王堂下のバス停へと到着する。
蔵王堂から勝手神社へと向かう道程において、高村より神社建立の歴史を聞きながら、神社前に咲き誇る桜の群生を楽しむ。
左右にあふれる、桜。桜。
生徒たちは想像以上の美しさにテンションも上がり、誰ひとり泣き言をこぼすことなくこの行程をたどる──のだが。
問題は、ここから先の上千本展望台までの山登りである。
最初に文句を垂れたのは、春菜だった。
「……たかむーはさ、はぁ、は──なにが楽しくて……こんなオリテ組んだん──」
「二組は奈良公園の散策やしな」
隣を歩く松子がわらった。
のんきなもんやな、と武晴は春菜の背中を押してやる。
「うらやましィーッ。鹿撫でたいっ」
「なにをいう、登山はエェぞ。足を動かして息が切れたら、そらお前が生きとる証拠やで。それを感じる時間をお前たちに作ったろうちゅう担任の親心やろが」
「たかむーが、生徒を愛してるんは、分かったけど──はぁ、ハァ……愛が重たすぎるよう!」
「なにをいう。あそこにも桜のおかげで疲れ知らずのやつがいてるやないか」
と高村が指さす先。
そこには首を痛めんばかりに桜を見上げる、八郎の姿があった。
(おほォ──)
見事である。
歩きながらも四方八方が桜に染まる視界に、左右に視線を配る八郎は開いた口が塞がらない。
「吉野の桜ってキレイやなァ……」
ひとり言のつもりだったが、となりを歩いていた柊介がフッと鼻で笑った。
「それ刑部桜が聞いたら嫉妬すんで」
「あ、せやな。今日の花見では言わんとこ」
「どうして?」
八郎と柊介のうしろを歩く京子が、控えめに声をかけてきた。たなびく黒髪と桜の花びらのコントラストが映えて画になる美しさである。八郎は照れたように「ああ」とわらった。
「いつやったか、かんちゃんに『刑部桜よりもきれいになった』ておかんが褒めたら、その瞬間におかんの足もとに毛虫落ちてきてん。見た目によらずけっこう陰湿な桜なんよ」
その言葉に、柊介も肩を揺らす。
京子は、
「かんちゃん?」
と首をかしげた。
「おれの従姉のねーちゃん。こないだ東京から帰ってきたんでお祝いの意味もこめて、今日の花見やるねん」
「モデルさんよりかわいいで」
と前をゆく武晴がくるりとこちらを向いた。まったく、ツラのいい女の話題にはだれよりも敏感なのだ。しかし八郎も鼻を高くして「そうそう」とうなずいている。
有沢くんも、といった京子の頬が緊張したように硬直する。
「──知ってる人?」
「まあ、毎年参加してるしな」
「そうなんや。……」
「あ、滝沢──」
と柊介がちらりと京子の横を一瞥し、口角をあげた。
「そこの珍獣ゴリラに、自分の飯は自分で用意せえてしつけといてくれな」
「…………」
京子の横。
棒キャンディを口に含んで、ぼんやりと桜を見ていた小柄な娘がひとり。彼女はじとりと柊介をにらんだ。
「だれが珍獣ゴリラって?」
「よお怪獣。──腹が満たされへんからいうて桜まで食うなよ」
「…………」
松田恵子──別名猛獣。
実家が空手道場のため、幼いころから武道やボクシングに勤しみ、小柄で細身ながらしっかりと鍛え上げられた筋肉がまぶしく光る。
その運動量から人並み外れた食欲を持て余し、なにかを口に含んでいないと機嫌が悪くなるという、野性動物のような娘である。
なおも煽る柊介と右ストレートを繰り出す彼女のじゃれあいに、京子がきゅっと胸の前で手を握る。
(…………)
それを見ていたのは、前を歩く高村である。
歩むスピードを落として、八郎と京子のもとへ戻るとやさしくふたりの肩を叩いた。
そして、
「昔ばなしをしようか」
と笑みをこぼしたのである。
ふたたび桜に見とれていた八郎は、キョトンとした顔で高村を見上げる。
「昔ばなし?」
「源義経って知ってるか」
「さすがにおれのこと馬鹿にしすぎや。知ってるよ、あれやろ『弁慶の泣きどころ』やろ」
「それは脛や」
高村が深いため息を吐く。
でも、ととなりで京子はくすくすと肩を揺らした。
「言いたいことわかるよ。その弁慶のご主人って言いたかったんよね」
「せ、せやねん! そんでその義経がどうしたんスか」
「あっ、ここって義経千本桜の──舞台?」
「そう。さすがは滝沢やなぁ、話がはやい」
義経千本桜。
江戸時代に創られた歌舞伎演目のひとつ。源平合戦の世界を題材に、義経の都落ちや平家の復讐を激情猛々しくも切なく描いた物語である。
当然『義経千本桜』は創作だが、ここ吉野山は実際に源義経が逃げ込んだとされる場所なのだという。
高村は穏やかな声で「さっき通ってきた」といった。
「勝手神社や少し下の吉水神社。そこから、この道の先に続く奥千本奥宮の方へ、義経は兄頼朝の追っ手から逃げていったと言われている」
「…………」
「この道々でな、僧兵の山狩りから義経を逃がそうと、わずかな臣下たちが命を張って敵方を食い止めた。おかげで義経は奥州まで落ち延びることができたんや」
「────」
京子は神妙な顔で先につづく道を見据える。歩みのすすむ足は止まることはないが、その足取りは一歩一歩に情が乗ったように重い。
八郎が不服そうに口を尖らせた。
「そない部下から身体張って守ってもらえるような人やのに、義経って、そんなわるいことしたんスか」
「──悪いこと。……」
と、高村は口をつぐむ。
桜の花弁がワッと頭上にふり落ちた。が、どこかぼんやりと遠くを見つめる彼の瞳に、その花吹雪は映らない。
しばらく無言のまま。
八郎と京子が困った顔を見合わせたとき、ようやく高村は「強いていうなら」とつぶやいた。
「『知らなんだ』ことやろうかの」
「なにを?」
「……人の欲気、世の理。妬み嫉みの悪感情。──血肉を分けたわりにこの部分だけは、お互いに一分の理解もでけへんかったんやな。あの兄弟は……」
といった彼の声はやけに寂しい。
八郎と京子はふたたび顔を見合わせて、互いに肩をすくめた。
一行は気がつけば、展望台まで残りおよそ二十分ほどのところまで登ってきている。
※
(桜。……)
昔からたまらなく好きな花だった。
八郎はいま、展望台から眺める吉野桜に目を奪われて動けないでいる。
展望台についた高村学級は、昼食休憩ののち、壮大な吉野桜の風景をバックにクラス写真を撮影した。
山登りのときは文句を垂れていた生徒たちも、いまでは桜の雄大さに感動するあまり、感嘆の息を吐く。
「…………」
花弁が、忙しなく散り落ちる。
「こんだけ花弁が舞ってると、桜のカーテンみたいね」
松子が、桜の木を見上げてわらった。
春菜や武晴も「散れ散れ」とはしゃいでいる。しかし八郎の心は違っていた。
(そないに急いで散らんくたって──)
もっと長く。
この世にとどまってくれたっていいのにさ。
願いを込めて見上げる八郎は、それから高村の下山号令がかかるまで、ずっと桜を見つめていた。
──。
────。
帰りのバスではハイキングの疲れが押し寄せたのだろう、生徒たちはみな乗車早々にぱたりと眠りについた。
死屍累々と転がる生徒を一瞥し、高村はにやりと笑う。そして運転手に「頼みます」と一言伝えて自分もその場に落ち着いた。
(…………)
さて。
しん、と静まり返った車内。足音が響く。
それは高村にしか聞こえていない。言霊が寄ってきた足音だ。
(八郎か)
絶好の夢路探訪タイムである。
高村は瞳を閉じて意識を飛ばした。身体が眠りに入ったように静止する。
──ここからは『篁』の時間である。
夢路のなか、複数の分かれ道があらわれる。これが各人の夢につながる路だ。
目指すは八郎の夢。
一本の路をゆく。暗闇をすすむとほどなく開けた景色は、先ほどまでいた上千本の展望台だった。『夢は記憶を映す』とはよく言ったもので、周囲の景色はところどころにもやがかかるなか、やけにはっきりと存在感を醸す桜樹が一本ある。
その前に、ぽつんと八郎の姿が見えた。桜樹を見上げて立ち尽くしている。
「────」
声をかけることはしなかった。
篁には、見えている。
すでに八郎の情に引き寄せられた言霊が、いる。
『久方の 光のどけき 春の日に
しづ心なく 花の散るらむ』
篁は懐から手鏡を取り出した。
それを言霊にかざして映す。一瞬光って、言霊は消えた。まもなく篁の手元にはらりと舞い落ちるは一枚の和紙──。
ふと顔をあげると、八郎はぱちくりと目を見開いてこちらを見つめている。
どうやら篁の存在に気が付いたようだ。
「先生……あれ、これ夢?」
「ああ、いまの言霊がお前に見せている夢だよ」
「言霊が?」
「そうだ。ただ、それも和本に戻ったんでこの夢はまもなく終わる。話は起きてからゆっくりしよう」
という篁の声を最後に、八郎の意識は暗転した。
────。
「うわ」
ビク、と。
肩を揺らして八郎が起きた。わずかに隣の柊介がもぞりと動くが、起こしてはいないようだ。
周囲はみな寝静まり、ただバスの走る音が車内に響くのみである。
「…………」
しばらくぼうっと静止する。
やがて左前の座席──高村の様子を見ようと通路に顔を出すや、ちょうど高村の身体ももぞもぞと動き出すところだった。
「センセ……」
小声でいった。
すると高村がくるりとこちらを見て、無言で手招きをする。八郎はパッと笑顔になっていそいそと席を移動した。
席に落ち着いた八郎を見てから、高村はぺらりと一枚の和紙を渡してきた。名前と和歌、そして絵姿が描かれている。
「これがさっきの人?」
「紀友則という。土佐日記の紀貫之は知ってるやろ、その従兄弟にあたる」
「この言霊が、おれに寄ってきはったんや」
「上千本で桜を惜しむお前に共感したんや。この歌にはそういう意味がある」
高村は紀友則という男について簡単に教えてくれた。
彼は三十六歌仙のひとりであり古今集の選者でもあること。この歌は古今集に集約されていたが、古今集のなかでも特に名歌であると絶賛されたこと──。
「それともうひとり」
と高村は続けて、もう一枚の和紙も出してきた。
「今朝、戻ってきよった」
「え。おれは夢見いひんかったけど」
「まあこれは──お前には行き届かぬ情やからな。いうたやろ、お前と近しい人間が見ることもある」
「だれの歌?」
「五十一番、詠み人は藤原実方朝臣」
紙には『かくとだに~』の歌が書かれている。
八郎はへええ、と気の抜けた返事をしてから、
「これどないな意味やねん」
といった。
しかし、高村はその質問に答えることを躊躇した。この言霊を引き寄せた者の気持ちを想えば、軽々しく言葉にしてもよいものかと悩んだのである。
「先生?」
「……お灸に使うもぐさってのは、ヨモギの葉の裏についた綿毛から出来よる」
「え?」
「火持ちもよくて熱さも感じにくいんで、お灸に重宝されるんよ。ただ、やりすぎると火傷して痕を残すねん。──」
「…………」
「灸も恋も、じんわりと心地よいうちはええもんやけどな。いきすぎると傷もつきかねんっちゅうこっちゃ」
高村は優しくわらう。
「ふうん? ……」
八郎は背もたれに頭をあずける。
後ろの席で、滝沢京子が寝返りを打つ気配がした。
※ ※ ※
──これほどの想いを口に出せぬ。
貴方は知らぬでしょう。
伊吹山のさしも草の如く燃ゆる
わたしのこの想いなど。──
第五十一番 藤原実方朝臣
深く懸想する意中の女性にむけ、
溢るる想いを打ち明けるべく、
初めて遣わす文に詠める。
※ ※ ※
──春の陽射しがやわらかく
のどかに過ぐる日だというに、
なぜ心を落ち着けることなく
慌ただしく散りゆくのか。──
第三十三番 紀友則
のどかに射す春の陽射しのなか
桜を見上げた折、
散りゆく花びらを見て詠める。
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