花見ー弐 出発

 ※

 細い煙がくゆる。

 滝沢京子は座敷に座っていた。

 これは夢である。

 立ち昇る煙は、京子の右手の甲の上で燃された灸から出ている。

 変な夢だ。

 じわじわと燃されゆく灸を、ただじっと見つめるだけの──。

(あ、)

 灸の熱さが手の甲に伝わって、京子はビクッと手を払った。

 灸はぽとりと座敷に落ちて、じわじわと畳に焦げ跡を残してゆく。

(…………)

 手の甲には、まるい灸痕がひとつ。こうなってしまったら当分は消えないだろう。けれどもう、夢の中の京子はどうでもよかった。

(……どうせ)

 消えたところで、またつくのだ。

 目頭がじんと熱くなる。


『かくとだに えやは伊吹の さしもぐさ

         さしもしらじな 燃ゆる想いを』


 男性の声で聞こえた歌。

 ──短歌、である。


 歌が、感情が、身に染みた。

 ほどなく、京子の双眸からどうしようもなく涙があふれた。 


 ※

 白泉大学付属高等学校では、毎年四月の上旬に課外授業がおこなわれる。

 いわゆる『級友との親睦を深めるため』という名目オリエンテーションで、毎年全学年全クラス個別の内容で行なわれており、なかなか好評の授業だという。

 今年の二年三組高村学級の授業内容は、吉野山麓のハイキングだ。


 集合場所は近鉄奈良駅前。

 いつもより三十分早く家を出発したため、ただでさえ朝に弱い環奈は置いてきた。

「かんちゃん起きられたかな。いつも文次郎が起こしとんねんけど、今日はおれが散歩してしもたからさー」

「んなもん、ハチのおかんが起こすやろ」

「せやろか──あ」

 集合場所には、すでに見慣れた顔ぶれが集まっていた。

「おーす」

 尾白武晴。

 長身かつ浅黒い肌、カラフルなヘアバンドにお団子ヘア。ワイシャツの下から覗く真っ赤なタンクトップ──。

 すべてが奇抜な彼は、どこにいても目立つ男だ。

「荷物多くね?」

 対して、この凡庸な友人──千堂明夫。

 武晴と並ぶと余計にモノトーンが際立つほど、色のない男である。唯一光るのは顔面の銀縁眼鏡くらいだろうか。

「お前はメガネさえあればエェもんな」

「め、メガネだけで済むわけないやろ──」

 柊介のからかいも真に受ける真面目なやつだが、根はいいお人好しだ。

 四人が揃ったところで、同じ班の女子グループを探す。

「一班どこや」

 と長身の武晴が首を伸ばすと、人混みのなかでもまもなくその姿を捉えたようだ。大きく手を振って「松子ォ」と声を出す。

「こっちや、こっち」

「あーッ。やっと見つけた。おはよ」

 四宮松子が駆けてきた。

 武晴幼なじみである彼女は、武晴を見るなり少し吊り上がった目を細めて笑った。

 松子に続き、女子──滝沢京子、松田恵子、仲宗根春菜が集合する。男子と合わせたこの八名が、本日課外授業における一班メンバーである。

 そしてこの高村学級上、もっともまとまりのない班であろうこの一班班長を、松子がやることとなっている。

「センセェ、一班いてます」

 背すじをのばす松子。

 それを横目に、春菜は柊介を見るなり腕に絡みついた。

「シュウ、バスのうしろいっしょ座ろー」

「いや俺ら座るん前やで」

 絡みつく春菜には見向きもせず、携帯に視線を落としながら柊介は答える。

「えっなんでェ?」

「ハチがすぐ酔うから」

 えーっ、と叫びながら八郎をじろりと睨んで、春菜は「じゃあ春菜も前座るゥ」と口を尖らせた。

 最後の班の点呼を終えた高村がずいと前に出てきたのは、そんなころだった。

「よし揃ったな三組──説明はバスでするからとりあえず乗れ。自由席やで譲り合えよ。酔いやすいやつは前、酔い止めの薬持っとらんやつはこっちゃ来い」

 まったく、平安時代の人間とはまるで思えぬ手際のよさだ。八郎は内心で舌を巻く。

 柊介も同じことを思ったか「だれよりも現代人やな」とつぶやいた。


 高村学級を詰め込んだ大型バスは、吉野山に向けてまもなく出発した。

 およそ一時間ほどの小旅行である。

「行程を説明する。まず金峰山寺蔵王堂から勝手神社に行ってひと休み、そっから上千本展望台で飯食って写真撮る。これがすべてだ。詳しいことは着いたら話すから、いまは休んどけ」

 と説明し、高村は左列の最前席に腰を落ち着けた。

 すでに少し疲れたような声色だ。

 しかし『口から生まれた女』──仲宗根春菜。彼に休息など与えない。

 高村の真後ろを陣取って、ひょこりと頭を覗かせる。

「ねねね、たかむーって結婚してはるん?」

 案の定、高村は面倒くさそうにこちらを見ぬまま「────ああ」と一言つぶやいた。

「えーっ、写真ないの」

「……ないよ」

「じゃあ子どもは?」

「いてる」

「ぎゃはーッ。何人?」

「…………」

 やかましく騒ぎ立てる春菜を一瞥し、高村は意味深に八郎を見つめてから、

「仲宗根、──」

 とにんまり笑みを浮かべる。

「おまえ有沢と付き合うとったんやて?」

 ゴホッ。

 春菜の席の通路を挟んだ隣。

 そこに座る八郎のさらに横で、ぼんやりと車窓を見つめていた柊介が咳き込んだ。がやつくバス車内に「おおっとォ」という声が響く。春菜の後ろに座っていた武晴である。

 いかにも待ってましたと言いたげな声だ。

「おもろい話はじまっとるやんけェ!」

「そないおもろい話なんか」

 とほくそ笑む高村にううん、と答えたのは春菜だった。

「たいしておもろないけどー。春菜ね、去年シュウのことめっちゃ好きやってん。ていうかうちホンマ面食いやねんから、いまもシュウの顔は好きやねんけどね。ほんでも去年はめっちゃ好きでェ、猛烈アタックして無理くり彼女にしてもろうた感じ?」

「へえ、すごいやん仲宗根」

「うん。ほんでも二か月だけやねんね、シュウ」

「…………」

 柊介は車窓を眺めたまま動かない。

 代わりに武晴が「そうそう」とうなずいた。

「押しに負けて付き合うてやったのに、なぜかフラれたんも柊クンやってんなァ! あんときはめちゃくちゃ笑たわ。アレ本音のとこなんで別れたん?」

(…………)

 八郎はちらりと柊介の様子を盗み見る。

 『あえて空気を読まない男』──尾白武晴の発言に、彼の指がイライラのリズムを刻みだしている。

(これ以上、ふたりを喋らすな!)

 という意味を込めて、八郎は思いきり歪めた顔を武晴の隣に座る明夫に向けた。

 しかし彼は(俺にいうな)と言わんばかりに、困惑した顔で首を横に振っている。

「え。せやってなんかさ、なんてかね。ようわからんけどたぶん理想めっちゃ高いねんね~シュウ」

「なんやそれ! おい柊クーン」

(ああもう……)

 八郎は頭を抱えた。案の定「しばくぞお前ェら」と、柊介が八郎を乗り越える勢いで立ち上がるので、動きを止めようと八郎はその腰に抱き着いた。

「落ち着けって!」

「ハッハッハッ!」

 すると、高村がめずらしく大口を開けてわらう。その声に柊介は止まった。

 そして「まあ有沢は──」とつぶやく。

「もすこし、おつむの賢い女のが向いとるわな」

「ちょ、たかむーソレどゆことッ!」

「……俺も、いまソイツで学んだわ」

 柊介はうんざりといって、ふたたび席に戻るのだった。


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