第72話 痛いのは生きてるお陰。遺体だとそうはいかねえ
頭が痛い。頬も痛い。ちなみに両頬だ。胸も痛いし、鼻と口には粘っこく塩辛い物が満ちていた。俺の腹の上には何かが乗っている。ああ、やっぱり、これが現実なんだ。甘い夢よさようなら。辛い現実よこんにちは。渋々と俺は目を開けた。
飛び込んできたのは、鬼のような顔をした果音。口を真一文字に引き結び、まなじりを釣りあげて髪の毛を振り乱した必死の表情だった。頬には一筋の汚れた跡がある。媚の一かけらも無い。それでも美しかった。ただひたすら美しい。果音の表情がふっと緩む。
「やあ」
俺は間抜けな声を出した。それ以上の言葉が続かない。見る見るうちに果音の顔が赤くなる。
「このボケ。カス。スカタン。トンチキ。オタンコナス。スケベ。ヘンタイ。へなちょこ。間抜け。この、この……、ナメクジ野郎っ!」
俺の胸倉をつかんでぐらぐらとゆする。果音の顔がぶれて3つか4つに見える。俺は再び意識が遠のきそうになった。
「ヤマザキ。ストップ。ヤマダが壊れちゃうわ」
俺の頭の上からシュトレーセの声が降り注ぎ、果音は俺を揺さぶるのを止めた。
ぶつぶつ言う声が聞こえて横合いから小さな手のひらが差し出される。そこから暖かいものが流れ込んできた。体の痛みが引いていく。俺は体を起こそうとして制止された。
「そのままじっとしておれ。さっきまで死にかけていたのじゃから」
ああ、やっぱりそうか。あれは臨死体験だったんだ。俺は体に込めていた力を緩める。果音がさっと立ち上がった。ひざ下は泥だらけでひどい格好だ。
「えーと。何が起きたんだ?」
「ヤマダ。覚えてないの?」
うーん。メイドさんが居たのは覚えているんだけどな。そういえば、カードラも居たな。
「カードラはどうした?」
「心配ない。さっきからずっと変わらず死んでおる」
段々記憶が蘇ってくる。
「そういえば、あのヤバそうな煙はどうなった?」
「何を言うておる。お前が消したのじゃろうが」
ああ。そういえば咄嗟に呪文を唱えたんだっけ。
「カードラの呪いが消えたと思うたら、お前の頭が血を吹いて弾けるから驚いたぞ」
え、何それ怖い。つーかグロい。聞いただけで気分が悪くなってきた。
「急いで損傷は修復したから傷跡は残ってないと思うがの」
「どうせ山田は頭にカビが生えてんだ。少しは風に当ててこれですっきりしただろ」
果音の声は相変わらず尖っている。
「なあ、山崎。そんなに怒らなくてもいいだろう」
「山田。お前、一旦心肺停止したんだぞ。怒るに決まってんだろう」
「だけどさ。あの時は何とかしなきゃってそれで頭が一杯だったし、あのままにして置いたら大変なことになったかもしれないだろ」
「そうじゃな。この辺り一面、100年は死者しかおらんことになったじゃろうな」
「だってさ」
果音が口を開こうとしたタイミングで、沼の中から虹色の泡がいくつか浮かび上がり、中から多くの水棲人が現れた。疲労困憊して泥だらけの俺達を収容してアーカンルムに戻っていく。アーカンルムに上陸するとすぐに担架に乗せられた。
「アタシは自分の足で歩けるってば」
勢いよく啖呵を切っていた果音の声が不意に途切れる。担架の上でスヤスヤと眠っていた。すぐに俺も眠気に襲われて目をつぶる。
気が付くと、清潔な部屋のベッドの上だった。白い服を着たウーパールーパーみたいな顔をしたのが振り返る。
「おお。ヤマダ様。気が付かれましたか。すぐに皆さまをお呼びします」
薄布をかき分けて入って来たのは懐かしい面々。
「もう具合はいいみたいだな。山田」
「すっかり良くなったようじゃの」
「はーい。ヤマダ。気分はどう?」
ふう。もう果音が怒っていないようだ。良かった。
数分雑談をするとウーパールーパーが引き取るようにやんわりと言う。まだ本調子じゃないので寝るのが一番だそうだ。シュトレーセとティルミットが大人しくついていくのに対して、果音が上体を傾けると俺の耳を引っ張った。
「次に勝手なことをして死んだら、アタシが殺してやるからな」
なにその矛盾。死んだら殺せないと……、果音ならやりかねないな。
「本当に悪かったってば。でもさ、ああするしか無かったんだよ」
「そんなことぐらいアタシも分かってるさ」
じゃあ、一体どうしろと?
果音は身を起して歩み去って行く。戸口のところで振り返ると俺に指を突き付けて言った。
「鬼も恥じらう18の乙女をあれほど心配させたんだ。今度きちんと埋め合わせしてもらうからな」
「関節技の練習台なら勘弁してくれ。クラゲになっちまう」
「もうちょっとマシなセリフを考えな」
その言葉を残して果音は部屋から出て行く。そうは言ってもなあ。俺ってそんなに悪いことしたか?
はあ。普通ならここで山田のお陰で助かったよって、ほっぺにチュぐらいしてもらってもいいシーンだと思うんだけどな。不意に笑いがこみ上げてくる。ないない。果音に限ってそういう行動は似合わない。中身はバトル物の少年漫画の主人公だ。俺は枕に頭を預ける。果音に引っ張られた左耳が少し熱かった。
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