第91話「パセリ セイジ ローズマリー&タイム」

 エルがムゥチを連れ帰った時、まだキン・トゥやファンが起きていた事は幸運だった。


 キン・トゥはいささか酒を飲み過ぎていたのだが、エルが血ダルマのムゥチに肩を貸して戻ってきた途端、ファンに緊迫した声を張り上げる。


「台所から塩と水を持ってこい」


 それ以上、溶けなくなるくらい塩を水に溶かし、それを一気に煽れば……、


「――!」


 実に格好悪く汚い話であるが、飽和食塩水が胃に入いれば、その異物感で胃の中ものを全て吐き出してしまう。


 そうして酒を吐き出したキン・トゥは、続けてファンへ戸板でも何でも外して寝台を作るよう命じた。


 緊急事態であるから、キン・トゥと同じ手段を使ったレスリーも加わる。


「手伝わせぃ」


 急造された寝台に寝かされたムゥチは、出血のショックで呼吸が浅くなっており、キン・トゥは舌打ちと共に大声を張り上げた。


「しっかりせぃ!」


 頬を叩くキン・トゥだが、ムゥチからの返事は「へェ……」と消え入りそうなものだけ。


「エル、インフゥを起こしてきて!」


 ファンも芸人の仮面が剥がれていた。当然だが、血液型を判別させる術はない。血を失い続ければ死ぬという事だけは知られているが、他者から血を提供させるなど考えられてすらいない。


 だが御流儀ごりゅうぎには一つ、医学の中に不思議な一節が入っていた。


「起こして、海までひとっ走り頼む! 海水を汲んでこさせろ」


 ファンが声を張り上げるのは、失ってしまった血は、海水で補う事ができるという記述が御流儀にあったからだ。


 ――だけど、コボルトにも効くか?


 声を張り上げた直後であるが、ファンの胸に一抹の不安が過った。儀流儀に書かれている医療の知識は、あくまでも人間用・・・だ。コボルトは血色素が銅系であるため血が青い。人間は鉄系の血色素を持っているため赤いのだから、違いは確実にある。


「真水は庭の井戸を使え。蝋燭を有りっ丈、使って良いから正確に4倍にしろ」


 そこへキン・トゥの言葉が来たのは、ファンも心強く感じられた。キン・トゥとて知り尽くしている訳でもなく、本音は「助からなければ仕方がない」なのだが、知らぬ、出来ぬだけはいわない男だ。


「起きていろよ!」


 キン・トゥが声を殊更ことさらに声を張り上げるのは、ムゥチの意識を保たせるためでもある。


「はい!」


 ムゥチの意識を途切れさせないためだとわかっているエルも大きな声を出し、居間で寝ているインフゥを起こしに行った。


「このコボルトが、先程、話していたヘンドか?」


 蝋燭の炎で針をあぶるキン・トゥに、ファンは短く「はい」とだけ伝える。


 キン・トゥからの返事も「そうか」と短い。


 緊急事態であるから、当然、キン・トゥもファンも眉間にしわを刻んでいるが、ここでそんな二人――特にファンの方を見ながら、レスリーが眉根を寄せる。


「必死になっとるのぅ」


 怖い顔をしおって、とレスリーはファンの顔に手を伸ばし、左右からギュッと頬を押し込んだ。


「すっかり、仮面が取れてしまっておるよ?」


 邪魔をしたいわけではなく、こんな時だからこそ、レスリーは忘れてはならない事を知っている。


「笑え。歯を食い縛る程、力んで、どうして良い仕事ができようか。強ばった顔を見ていたら、コボルトの方が不安になるわい!」


 レスリーのいう通りだ。今、ムゥチの命を握っているのはファンとキン・トゥだが、それを理由に緊張されては助けられるものも助けられなくなる。


「……そうッスね」


 ファンは大きく息を吸い、吐き出すと、いつもの通り芸人の口調に戻った。


「そっちが本性だものな」


 キン・トゥの顔にも余裕が生まれ、そして二人の二人の顔に光が戻れば、レスリーも自分の役目に邁進するのみ。


「蝋燭はか細い。こっちを使え!」


 二人の余裕を大きく、負担を少なく、障害を小さくするのが自分の役目とばかりに、レスリーが室内灯を持ってくる。


「ホッホヴィッセン特産の鯨油げいゆじゃ!」


 あかりを使う事は贅沢であるが、夜更かしして稽古する時の必需品としてレスリーは欠かしていない。


「……傷が深いな……」


 しかし灯りが照らした傷に、キン・トゥは顔を顰めさせられてしまう。内臓に達しておらずとも、血管を傷つけている。その縫合は必須だ。


「糸が足りるか?」


 キン・トゥも医療の心得はあるのだが、金創医きんそうい――専門の外科医ではない。縫合に必要な絹糸とて高級品だ。この大怪我では心許ない。


 だがファンは足りるという。


「絹糸なら、ここにいくらでもあるッスよ」


 絹糸ならば、絹服をほどけば取れる。


「ほら、自分の衣装ッスよ。火酒かしゅに漬けて、消毒したら使えるッス」


 芸人にとって衣装とは命の次に大切なものであるが、それを犠牲にできるのは、ファンは今日、ムゥチと実際に話をし、信頼できると悟ったからだ。


「もったいねェですよぅ」


 ムゥチが薄く開けている目を震わせたが、それは乞食の自分には治療費が払えないという意味だけではない。


 子爵の甥であるファン、子爵家へ指南する立場であるキン・トゥが必死になってくれている事を言葉で表すとすれば、有り難いしかないからだ。


「何の、ただじゃないッスよ。治ったら、群青銅ぐんじょうどうの鍋をもってきてもらうッス。それでエルにスープ作ってもらって、毎日、インフゥやザキと食べるッス」


 ファンの声は、どんな大声よりもムゥチに届いた。


 安い、軽いといわれるかも知れないが、こういえるファンだからこそ、ムゥチはエルとファンの二人に可能性を見出したのだ。


 ――夫婦や姉弟だって、そんな信頼し合ってないでやす……。


 細い目に涙が浮かび、それが零れようとした所へ声が投げかけられる。


「汲んできました!」


 エルがインフゥを連れて帰ってきたのだ。


「よし、4倍じゃ! 間違うな!」


 キン・トゥの声に、インフゥとエルは「わかりました」と答えて計りのある台所へ行く。


「待ってくだせェ……」


 しかしムゥチがエルを呼び止めた。


「エルさん、こいつを……」


 震えて感覚の怪しい手に苦労させられたが、ムゥチが血で汚れた服のポケットから一枚のメダルを取り出す。


「これは……?」


 コボルトの青い血で汚れていようとも、そのメダルは炎のような赤い光を帯びている。


「これを、遺跡へ持っていけばいいんでやすよ。へへへ……」


 体力の限界から、後半は薄笑いになってしまい、余人には何の事か分からなかったが、エルには分かる。



 ――精剣の、変化!



 このメダルが、エルに宿る非時を変える鍵なのだ。


「気をしっかり持て! 激痛じゃぞ!」


 ファンの衣装をほどいた絹糸を通した針を構え、キン・トゥはムゥチに竹を咬ました。

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