魔術師たちの街Ⅱ
街は、たくさんの人たちでにぎわっていた。閑静な地表とはちがい、大きな声や様ざまな物音が重なり合って、まるでバラバラな演奏を聴いているようだ。
メルは、これほど人が集まる場所に来たのは生まれて初めてだったので、圧倒されて小さくなっていた。
大丈夫ですか、とヘルムスが振り返った。
「驚かれたでしょう。これがアトンの本当の顔です。地上は、主に屋敷があるだけですからね。むかし、戦いに優位な地形をつくろうと、掘られた穴だそうですよ」
「静かに敵から身を潜めるための場所だったというのに、いまでは毎日酷い騒ぎだわ」
ネーデルが呆れたように続けた。そしてメルの方を見て言った。
「メル、堂々と歩きなさい。顔を上げていなければ、何も見えないままよ」
その口調は、問答無用で背中を突き飛ばす手のように厳しく、メルは反射的に顔を上げるしかなかった。
どきどきしながら街を見渡してみると、小さな露店の店先で、でっぷりと太った初老の男が、粘土のようなものをこねていた。
それはこねられる度、黄土色から深紅になり、透き通っては濁り、様々に変化した。
男は、額に汗を浮かべながら、何やらぶつぶつと口を動かしていた。
何をしているのかと思い、メルはその様子に見入る。
彼の右手の甲には、不思議な模様の入れ墨があった。
店先まで来たとき、男がぱっと顔を上げたので、ばっちり目が合ってしまった。
彼は黄ばんだ歯を見せて笑い、メルは慌てて顔を伏せた。
「お嬢さん。少しの間、待っていてください。素敵なものを差しあげましょう」
ささやくような声に、メルは恐る恐る顔を上げた。
男は、さらにこねるのに集中しだし、粘土は見る見る内に、深い黒へと染まっていった。そして一度満足げに息をつくと、今度は信じられない速さで手を動かし始めた。
流れるような指先の動きに合わせて、どんどんと形が作られていく。瞬きをする暇もなかった。
出来上がったのは、細見のドレスのような形をした、
最後に男は、入れ墨のある方の手を縁の上にかざしながら、何やら唱えた。
黒いカップにきらりと光が宿り、取っ手の羽根がばさりと開いて閉じた。
「君と、そのモスンに」
カップが差し出されたとき、気づかず先へ進んでいた二人が、慌てて戻ってきた。
「お代はいくらかしら、ルドレフさん」
そういってネーデルが、カバンを開けたので、メルはのばしかけた手を引っ込めた。
「いいや。必要ありませんよ、ココットさん。お嬢さんには、素敵な発想をもらいましたからね。これで、次回の聖杯コンテストでも優勝できそうです」
あら、とネーデルは少し目を見開いた。
「本当によろしいの?」
「ええ。はい、お嬢さん」
「ありがとうございます」
メルはカップを受け取り、中を覗き込んであっと驚いた。
底の方から、蒼い光が小さく渦を巻きながら、カップの縁まで立ちのぼっていたのだ。
「きれい……」
「その器には、精霊が宿っているのですよ」
ヘルムスが言った。
「底に焼き付いた模様は、精霊紋です。のどが渇いたら、呼んでみてください。
カップの底には、ルドレフの手の甲に焼きついているのと同じ模様があった。
「なんて呼んだらいいんですか?」
「彼女は、精霊シア。湖面の三女神に仕える水の精霊です」
ヘルムスは、模様を見ただけで精霊の名前がわかるようだった。
メルは深く息を吸うと、真っ赤になりながら言った。
「水の精霊の、シアさん。あの、み、水をください」
すると、カップの底からぶくぶくと泡が膨らみ始め、ゆっくりと水が満ちはじめた。ノエルが不審がって、シャアッと鳴く。
メルはぽかんとして、ルドレフの方をみた。彼はいたずらっぽく片目をつぶってみせた。
「魔法を使ったのは、初めてですか」
メルは頷いた。
「この子は今まで、カタルでわたくしの知人と暮らしていたの。アトンに来たのは、あの日から十三年ぶりですわ」
ネーデルがそう言うと、ルドレフは目を見開いた。
「ということは、このお嬢さんは、あの時の」
「そう。世間のほとぼりが冷めるまではと思って、カタルに住む友人に預けていたのだけど、もういい頃合いでしょう」
メルは心臓がどくん、と鳴るのを感じた。
赤ん坊の頃に、ココット家の養子として迎え入れられるに至った経緯は、メルは詳しく聞かされていない。
世間のほとぼりとは、どういう意味なのだろう。このまま会話を聞いていたら、明らかになるだろうか。
しかし、ネーデルとルドレフがそれ以上話を続けることはなかった。
地下街は蟻の巣穴のように枝分かれしていて、たくさんの通りがあった。
メルたちが、地下の玄関から出てきた場所は二番街で、魔法を使った雑貨や商品が溢れる、明るくにぎやかな通りだった。
物に魔力を込めて売る人々は、職人魔術師と呼ばれるらしい。中でも聖杯職人が多く、ルドレフ以外にもたくさんの職人が店を構えていた。
どの店の品物も個性が光っており、メルは鑑賞するのに夢中になって、何度も転びそうになった。
他にも、火の精霊を宿したランタンや、シオモナントの風木を使った楽器、精霊盤と呼ばれるすごろくの盤などがあった。
明らかに失敗作と思われる、凄まじい勢いで舌を出してはひっこめる
「ご苦労様なことだわ」
ネーデルが蛙を横目に冷静に呟くので、メルはついに吹きだしてしまった。
「ここの人たちも、みんな貴族なんですか?」
汗をだらだら垂らしながら魔法を仕込んでいたルドレフを思い返し、メルはネーデルに聞いた。
「ここで店を構えている人たちは、貴族であることをやめた魔術師よ」
ネーデルの答えに、メルはきょとんとした。
「どうして、やめてしまったの?」
「そうね……、貴族に用意されている道はいくつかあるのだけど、どの道も選びたくないという人もいるのよ。長男や長女で次期当主に選ばれたなら、家を継ぎ、政に携わることになります。
そうでない者は、当主の妻や夫、従者として他の家に入るか、騎士や学者や神官になって、国に尽くす天院専属の魔術師になる。
それでも、家の階級や立場によっては、選ぶ余地のない場合もあるわ。
自分に合わない道に進むくらいなら、貴族をやめて好きなことをしようと思った人たちが、地下で暮らしているのよ」
ただし、とネーデルは付け加えた。
「この道に進めば、結婚することも子を儲けることも許されない。彼らは余程の覚悟で、地下に暮らす道を選んだのでしょう」
通りを半ばまで進み、途中で斜めに入り込んでいく角を曲がると、そこは一番街だった。その通りは、ほとんどが食べ物の店だった。
人通りはさらに増し、店先に並んだ長椅子には、人がぎゅうぎゅうに座っている。
客を呼び込む声や、注文を通す声が飛び交い、自分が何か話しても、誰にも気づかれないだろうとメルは思った。
ネーデルは前だけを見て、颯爽と突き進んでいる。
ヘルムスが、はぐれないようにと手を差し出してくれた。手を繋ぐと心に余裕ができて、メルはまた辺りを観察し始めた。
見たことのない料理、臭いであふれている。
今までずっと、雑穀のかゆや茶色いパンを食べてきたメルにとって、食べ物の色鮮やかさが新鮮だった。
地方と決定的に違うのは、魔獣を使った料理があることだ。
魔獣を食べることは、貴族にしか許されない。それは、
メルは、豚や牛の肉なら食べたことがあったが、ここに漂う肉の焼ける臭いは、それとは明らかに違った。
慣れない臭いに頭がくらくらする。
ノエルが毛を逆立てながら肩まで下りてきた。爪を立てられて、緊張が伝わってくる。
メルは、小さな頭に頬をすり寄せた。
魔獣の血で出来たジュースを目の当たりにし、呆然としたところで、やっとその通りは終いだった。
一番街を抜けると、辺りは急に薄暗くなった。
目の前に、巨大な地下水路が流れている。流れる水は、ぼんやりと光っていた。
水路の幅は広く、崖のように深く落ちていて、曲線を描きながら奥まで続いている。水路はどうやら大きな輪になっており、その中で水がぐるぐると巡っているようだ。
水面近くまで下りられる階段が何か所かあり、階段の下には小舟が泊まっていた。
ネーデルは一番近くの階段を下りていき、二人も後につづいた。
「ネーデル・ココットよ」
ネーデルはカバンから家紋の入った丸い板を取り出し、舟の漕ぎ手にみせた。
彼が頷き、ネーデルとヘルムスは船に乗り込む。メルも二人に続いた。
舟は、水の流れを横切って、向こう岸へと進み始めた。
水面を覗き込むと、恐ろしいほど澄んだ水で、思っていた以上に深いことがわかる。
光で編んだ薄い布のようなものが、下の方でたゆたっていた。どうやら、それが水面から漏れる光の正体らしい。
「あの光も、精霊なの?」
ええ、とヘルムスが答えた。
「この水路は円水環と呼ばれています。この内側は内環、もしくは聖域とも呼ばれる、アトンで一番大切な場所。だから精霊たちが守護してくれているのですよ。
聖家の集いが開かれるメルレの館も、この先です。
地上には、マーダノムの住む塔や、政の行われる建物、お嬢様がこれから通われる学校が建っています」
見上げると、水路の上は吹き抜けになっていて、夜の
橋の上空に、
闇天の九精霊のひとつ、ココリッア。彼女が夜の天に現れたなら、そろそろ寒い季節が巡ってくる印だ。
この世界には、九つの季節があり、それは夜の
昼間に現れる明るい星は、彼らの母親であるサナンだ。日中の母、夜を彩る兄弟たちは、決して出会うことなく、交互に
「ココリッアの安息を」
水路の向こう側、内環の入り口についた時、舟の漕ぎ手はそう言ってお辞儀をした。ネーデルとヘルムスは同じ言葉を返し、メルはお辞儀だけして舟を降りた。
たしか、グロウも屋敷の前から立ち去るとき、そんなことを言っていた。これが、主都での挨拶の仕方なのだろうか。
階段を上りきると、目の前に門が現れ、二人の騎士が両脇に立っていた。騎士が持っているお揃いの槍は、鋭く天へ向けられている。
「デリダとロウルの門です。ここを通過すれば、内環ですよ」
ヘルムスがこそっと耳打ちをした。
見れば、騎士の持っている槍に、精霊紋が刻まれている。
門の前まで来ると、騎士たちは槍を交差させて、入り口を塞いだ。
「検分いたす」
ネーデルがさっきと同じように家紋を見せると、騎士たちは頷き「デリダ」「ロウル」とそれぞれ精霊の名を呼ぶ。
直後、メルは、首の後ろに息を吹きかけられたような熱を感じ、ぞくりとした。
騎士は槍をぐるりと一周させてから引き戻し、再び真っ直ぐ前を見据えた。
「どうぞ、お入りください」
「あの、ココリッアの安息を!」
メルが叫ぶと、騎士たちは横目で驚いたように見返してきた。しかし、何も返事をくれなかった。
門を通った後で「ここでは、言わないのよ」とネーデルが言い、メルは真っ赤になった。
――言わなければよかったな。
泣きたい気持ちになったが、ぐっと唇を噛んで我慢した。
内環は、今まで通ってきた道よりずっと静かだ。
門から続く一本道を歩きながら、メルはそのことに気が付いた。周りに店がないから、当然かもしれないが。
「ここは静かだね」と言うと、ヘルムスが「通り道ですからね」と笑った。
「この道を真っ直ぐ行くと、学生広場と学生街に続いています。内環のちょうど中央地点が、その広場に当たるのですが、なかなか賑やかな場所ですよ」
「今から、そこへ行くの?」
「いいえ。それより手前に、ほら、見えてきました。左右に分かれる道があるでしょう。左の道を進むと〈東ノ翼〉、右に進むと〈西ノ翼〉に至ります。これから向かうメルレの館は、東ノ翼にあります」
「翼?」
メルが首を傾げると、ヘルムスは頷いた。
「ええ。洞穴の形を精霊の翼に見立てて、そう呼ぶんですよ」
左の細い道へと逸れ、またしばらく歩くと、開けた場所へ出た。
白い石造りの建物が、ぐるりと建ち並んでいる。地面も白い石畳が敷かれていた。
円水環の外の地下街のように雑多でなく、整然として洗練された街並みだった。
すぐ左手の巨大な建物には、人型の彫刻が、屋根や壁から飛び出すように彫られている。羽根が生えたり耳がとがったりしているので、人間ではなく精霊なのかもしれない。
「ここは、神話館と呼ばれる場所です。神々に捧げる美術品が、飾られています」
ヘルムスは、案内役を楽しんでいるようだった。メルが気になったものを察知して、すかさず説明を入れてくれる。
おかげですっかり東ノ翼に詳しくなった。
神話館の他には、療養所や宿泊所などの公共施設があった。西ノ翼も似た造りらしく、劇場や図書館があるそうだ。
メルレの館は、一番奥の突き当りに建っていた。
他の建物と同じように磨き上げられた白一色で、重厚な佇まい。二階建てで、上階の正面からバルコニーが突き出ている。
バルコニーには色とりどりの花の植木が置かれ、柵に緑の蔓が巻き付いていた。
建物の周囲を縁取る溝には、
「美しい建物でしょう。昔、メルレ・キャンベルという女性が聖家の方々をもてなすために建てたと言われています。
キャンベル家は、今でも優秀な従者を輩出する名家なのですよ」
シラカはここでも解説を忘れなかった。
橋を渡り、建物の中へ入る。ロビーで黒いワンピース姿の女が出迎えた。
「ココット様!」
裏返った声で叫び、ヘルムスの方をちらりと見て、顔を赤らめた。慌てた様子で踵を返し、「こちらです」と前方に手を向ける。
彼女の
彼女はメルの方を振り返って目を丸くする。途端に、「申し訳ありません」と怯えた表情で目をそらした。
メルはきょとんとする。どうして謝られたのだろうと思った。
案内された部屋は、円形の部屋だった。天井は見上げてしまうほど高く、長い鎖に繋がれたシャンデリアがいくつもぶら下がっている。
部屋の奥は、半円形の舞台のように床が高くなっていて、一か所、上るための階段があった。
大きなテーブルが、手前側に三つ、奥に二つ。すでに大勢の人が集まり、席につくか立ち話しをしていた。
女がメルに向かって腰をかがめた。
「申し訳ありません、お嬢様。お食事中、モスンは預からせていただきます。また出るときに、お声かけください」
彼女は相変わらず怯えた表情だった。
メルは戸惑ったが、彼女を困らせるのも嫌なので、すぐに頭の上のノエルを両手で抱えて差し出した。
ノエルは足で空をかいて抵抗した。「ちょっとの間だから」とメルが説得すると、ひとしきり金色の目で睨みつけてから、女の腕の中へ飛び込んだ。
彼女に抱えられて、部屋の向こうへ消えるノエルを見送る。
途端に不安な気持ちが押し寄せた。
「随分と懐いているのね」
ネーデルが独り言のようにつぶやいて、歩きだした。
彼女は人を探すことなく淡々と部屋を横切って行ったが、途中で何人かに声をかけられて、一言二言、言葉を交わしていた。
ヘルムスはその度に、彼女の傍らで、片手を胸にあてお辞儀をする仕草を繰り返す。メルも何度目かで、彼の動作を真似てみた。
ヘルムスはそれに気づくと、こみあげる笑いを抑えるように、口元を片手で覆った。
ネーデルが話し終わった後、両手を組んで胸元へ持っていく動作をし、「女の子は、こうやって挨拶するのですよ」と教えてくれた。
メルは思わず口をすぼめる。
頭の中で「両手で挨拶する」「門の前の騎士さんには挨拶しない」と何度も唱えた。
ネーデルに声をかけた人たちは、何度もメルを見ていたが、直接声をかけようとはしない。あの給仕係と同じ、不安げな目で見てくるので、だんだん居心地が悪くなってくる。
カタルでは、初対面の者からも気さくに話しかけられたので、こんな風に距離を置かれることを寂しく感じた。
ネーデルは手前のテーブルに自分の席を見つけたが、メルとヘルムスの席は見当たらない。近くを探してみても、すでに人で埋まっている。
「わたしと、ヘルムスの席がない」
助けを求めるように言うと、ヘルムスが「お嬢様」と笑った。
「わたくしは従者ですから、元より席はないのです。先ほどの給仕さんたちと一緒に、お食事の準備をしますよ。ですが……、お嬢様の席はどちらでしょうね」
すると、ネーデルが「あちらのようね」と部屋の奥を手の平で指し示した。
見ると、半円形の段上にもテーブルが並んでいる。
テーブルの前に腰かけた少女が、こちらに向かって、ひらひらと手を振っていた。
腰までのびた絹のような白髪に目を奪われた。人形のような華奢な体つきに、淡い桃色のドレスを纏っている。
彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべ、頬を肩にくっつけると、「はやく」と口を動かして手招きした。
メルは嬉しくなって、大きく頷いた。
「わたし、行ってきます」
メルが嬉々として言うと、ネーデルは「ええ」とだけ返し、ヘルムスは忠告するように咳払いした。
「何かあれば、お呼びくださいね。こちらに視線を向けていただければ、すぐに駆けつけますので」
段の上にはテーブルが二つあったが、一つは大きな四角のテーブルで、並んだ六席は全て埋まっていた。
自分より年下の子も年上の人もいたが、全員子どものようだった。
一方、白髪の少女が座るテーブルは、小さな円形で、彼女以外に誰も座っていない。メルが近づくと、彼女は真正面の席を指し、座るよう勧めた。
メルが座ると、腕を組んで「普段なら」と話し出した。
「コトラ様以外、わたくしと同席することを許していませんの」
メルはポカンとした。少女は気にせず言葉を続ける。
「あなた、運が良いわね。あのね、お父様がこうおっしゃっていたの。ココット家へ養子に入った娘はわたくしと同じ年だけれど、血筋が分からないから、気をつけなさいって。面白いと思わない? 気をつけなさい、ですって」
少女は身をよじらせて笑った。
「それで、興味を惹かれちゃったの」
メルは失礼なことを言われたとは分かったが、目の前の少女があまりに無邪気な様子なので、曖昧に笑い返すしかなかった。
「ニイナちゃんだよね」
私に会いたいと言ってくれた、ラフィレーン家の一人娘。
「そうよ、わたくしはニイナ」
歌うような口調で言って、顎を天井に向けた。首にかけた槍のネックレスを持ち上げ、シャンデリアの光を気持ちよさそうに浴びながら、こう続ける。
「いずれ女神様に仕える身」
「女神様って、この世界を創ったアトゥルシカ神のこと?」
ニイナはメルの目を見て、不愉快そうに眉をつりあげた。
「軽々しく言わないで。闇の子のくせに」
言葉の意味は分からなかったが、軽蔑した響きに、胸の奥が冷たくなった。何か続けないと。だけど言葉が出てこない。
ニイナが深いため息をついた。
「なぁんだ。面白くないのね、あなた」
メルはさっと顔を伏せた。
その時、「お嬢様」と横から声がかかった。見ると、先ほどの給仕係だった。
銀の盆の上に金色のどろりとした液体が入ったカップを乗せている。
「飲み物をお持ちしました」
彼女は手を震わせかたかたと音をたてながら、カップをテーブルへ近づけた。揺れた反動で、飲み物が彼女の手の甲にかかる。
「申し訳ありません!」
メルは可哀そうに思い、カップを受け取ろうと手をのばした。
しかしカップに触れようとした瞬間、彼女は小さな悲鳴をあげて、ぱっと手を放した。
カップが真っ逆様に落下し、ガシャンと陶器の割れる音が響く。
侍女はその場にしゃがみこみ、蒼白な顔で謝りつづけたが、メルも今の出来事に動揺し、彼女を許す言葉が出てこなかった。
――この人は、わたしを怖がっている。
今までの彼女の挙動不審な態度も、それで説明がつく。
ニイナもそれに気づいたのか、面白いおもちゃを見つけたように、笑みを浮かべた。
「わたくし、今の大きな音で寿命が縮まったかもしれませんわ。あなたを、ここで見るのが嫌になりそう。お父様に相談しようかしら」
大げさな口ぶりでニイナが言うと、彼女はさらに青ざめた。
「そんな……! お嬢様……お許しを」
ニイナは椅子から立ち上がり、給仕係と目線を合わせるように膝を折った。指を彼女の顎に添え、にっこりと笑う。
「でもあなた、恐ろしかったのでしょう? あの子が。闇の日に生まれて、悪魔の化身と噂される、あの子のことが。触れられでもしたら、神国の血が穢れると思ったのよね。それなら、わたくし、理解してあげられるわ」
「
「分からない人ね。それならば、許してあげると言っているの。さぁ、答えなさい。あなたは何故、カップを落としたのかしら?」
彼女はメルの顔をちらりと見て、唇を震わせ目を伏せた。そのまま、口を閉ざし石のように固まってしまう。
隣のテーブルの子どもたちも、この異様な光景を、緊張した面持ちで見守っていた。
「あの。さっきのカップは、わたしの手が……」
自分の手が当たって落ちたのだ、とメルが言いかけたのと、給仕係がすがるような目でニイナを見上げたのが同時だった。
そして少年の声が聞こえたのも。
「君はもう、下がってもいいよ。割れた破片は、僕の侍従に片づけさせるから。シラカ、悪いけど頼むよ。この灰皿を使っていいから」
柔らかな、よく通る声だった。
声の主は、ふわふわとした茶髪の、小柄な少年で、いつの間にかテーブルの傍らに立っていた。銀縁眼鏡をかけ、黒のチョッキと半ズボンの上下を着て、襟元には光沢のある深緑色のネクタイを結んでいる。
少年の後ろには、ヘルムスと同じくらいの年の、若い男が控えていた。
シラカ、と呼ばれたその男は、肩までのびた赤い癖っ毛を耳にかけると、やれやれというようにため息をついた。
少年から渡された灰皿を受け取り、厳しい視線を女中に送る。
「メイリ・キャンベル。何度目ですか。いい加減落ち着いてもいい頃でしょう。
ああもう、危ないから、素手で拾おうとしない。同じ従者課程の出として恥ずかしいですよ、まったく。ここを解雇になった暁には、ユニゴウル家で叩き直してやりますからね。そうならないよう、せいぜい頑張りなさい」
メイリは、ほっとした顔で立ち上がり、少年とシラカに深々と頭を下げた。
「シラカ先輩、いつもご迷惑をおかけして……」
「謝罪の言葉など、わたしは聞きたくないのですよ。早く新しい飲み物を持ってきなさい」
シラカがぴしゃりと言って、メイリはその場を立ち去った。
彼が破片を拾いだすと、少年はメルの方へ目をやった。
「お騒がせして悪いね。君の話しは聞いているよ、メル・ココット嬢。
僕はユニゴウル家当主の、コトラ・ユニゴウル。以後お見知りおきを」
彼が胸に手を当ててお辞儀をするので、メルも慌てて立ち上がり、両手を組んだ。
目の前の少年は、幼さの残る顔に似合わず落ち着きはらっていて、自分と同じ年齢には思えない。その戸惑いから、メルはしどろもどろになった。ニイナが彼を一目置くのも分かる気がした。
「コトラ様、お待ちしていましたわ。わたくしもう、今夜は来てくれないのではと、がっかりしていたところでしたの」
落ちたカップのことなど忘れたかのように、ニイナは甘い声で言った。
コトラは微笑むと「がっかりしていた?」と聞き返した。
「遠目からは、随分楽しそうに見えたんだけどな」
ぼうっと立っているメルが座れるよう、手で椅子を示しながら、彼は席についた。
「当然ですわ。コトラ様が、わたくしの方へ来てくださるのが見えたのだもの」
「そうなの? 気づいていたのなら、手を振ってくれればいいのに」
コトラはニイナと会話しながらも、メルに目線を送り、話す機会をうかがっているようだった。
しかし、メルの頭の中には色々な考えや感情が渦巻いていたので、視線に気づきながらも、顔を上げることが出来なかった。
ニイナが言ったことは、本当なのだろうか。
わたしが闇の日に生まれて、だから「悪魔の化身」だという噂がたっていると。
闇の日とは、年に一度訪れる、精霊の光が天に宿らない暗黒の一夜のことだ。普通その時間に子が生まれることは無い。先生からはロトの精霊月の最後の光に生まれたと聞いていたのに……。噂が真実なら、自分の存在はおかしい。
とにかくその噂のせいで、メイリという給仕係はわたしを怖がった。
いや、彼女だけじゃない。他の人たちが遠巻きに見てくるのも、その噂のせいなのだろう。
だけど、ネーデルさんはわたしを養子にしてくれたわけで、お兄さんも優しくしてくれる。コトラさんだって、親切——いや、彼も本心ではどう思っているか分からない。
お母さんの冷たい態度も、やっぱり、わたしを嫌っているせい?
メルは膝の上で、ぎゅっと拳をにぎりしめた。
その時、メイリが再びお盆で飲み物を運んできた。
隣に置いたポットから、空になったニイナのカップに黄金色の液体を注ぎ、コトラの前には水の入ったグラスを置く。最後にメルの前にもカップを置いた。
メルは熱々のカップを手にとった。見たことのない、金色の液体。口に入れると、甘ったるいどろりとしたものが喉に流れ込んで、思わずむせた。
コトラがすかさずハンカチを差し出す。
「大丈夫? 魔草の蜜のジュースを飲むのは、初めてかい?」
「うん、ありがとう。でも大丈夫」
メルはハンカチを受け取らずに手の甲で口を拭った。
それを見たニイナが信じられないという顔で眉をひそめる。
色鮮やかな料理が次々には運ばれてきていたが、メルにはすべてがぼやけて見えた。目の奥が熱い。
だめだ、もう。
メルは部屋の中をぐるりと見渡し、ヘルムスを探した。彼は扉の近くに立ってさっきのシラカという侍従と談笑していたが、すぐにメルの視線に気づいて、会話を切り上げた。
彼は迷うことなく段上まできて、メルの傍に跪く。
「お嬢様、お食事中失礼いたします。今しがた急用が入りましたので、今夜の宴を切り上げていただいても宜しいでしょうか」
控えなさい、とニイナが抗議の声をあげた。
「まだ料理も口にしていない段階で。今夜はわたくしがお招きしたのよ。その好意を無駄にしてもいい急用とは、一体どのようなもの?」
コトラがさっと片手を上げて彼女を止めた。
「君が他の家の事情に口を挟むほど無粋な人だと、僕は思っていないよ」
そして「メル」と優しい口調で言った。
「君に話したいことが沢山あったんだけど、今度の機会にするよ。ココリッアの安息を」
メルは顔を上げられないまま、小さくお辞儀をし、ヘルムスの手をとって席を立った。
テーブルから離れると同時に、メルの目からは大粒涙が浮かんだ。
嗚咽がもれると、ヘルムスがそっと肩に手をおき「無理もありません」と呟く。
食事をしているネーデルに視線を送り、そっと部屋から出た。ノエルを返してもらい、メルレの館を後にする。
家へ帰る道中、メルはぽつりと言った。
「お兄さん。わたしは、悪魔の化身なの……?」
ヘルムスがはっとして立ち止まり、怒りをにじませた声で「違います」と答えた。
「そのようなことをおっしゃったのは、ニイナお嬢様ですか」
「うん。だけど、みんなそう思ってるんでしょう」
「根も葉もない噂です。それを信じるような人は、能無しの臆病者だ」
穏やかな人の口から出た攻撃的な言葉に、少し驚いたが、この人はわたしの味方でいてくれるのだと強く感じた。
ノエルがメルの肩に足をのせ、目の下を丹念になめてくる。しょっぱくて美味しいのかな、と思うと笑みがこぼれた。
――この子も、わたしの味方だ。
それでも家について部屋にこもると、メルはこれからのことを考えて心細くなり、寝台の上ですすり泣きつづけた。
しばらくして、扉の向こうに誰かが立つ気配がする。
「メル」と母の声がした。
「悔しいのなら、屈辱は自分で晴らしなさい」
それから彼女は、メルの出生について話し始めた。
噂の通り、それは闇の日の出来事だった。
その日、内環の大堂で夜守をしていた貴族たちは、金卓の席にじっと座って暗黒の夜が明けるのを待っていた。
サナンの光が現れる直前、とつぜん闇の中から産声があがるのを聞いたという。
大堂の天窓からサナンの陽が差し込んだ時、金卓の上には生まれたばかり赤ん坊が仰向けに寝ていた。その下には、微かに煙を放つ円環が焼き付いていた。
赤ん坊をどうするかで、金卓、銀卓、そして天院までもが議論に関わる大騒動になったらしい。
円環の上に居たということは、魔術を使う何者かの意図によって飛ばされたということ。円環の解読がなされたが、巧妙に魔法の在り処が隠されており、結局魔術師が誰なのか突き止めることはできなかった。
その後、様々な憶測が飛び交った。
わざわざ闇の日に生まれるのは不吉だ。神国に禍をもたらす悪魔の申し子ではないか。
いや、女神様が授けてくれた子かもしれない。
卓で生まれた赤子が神国を導く、そんな言い伝えがあるだろう。
しかしそれなら、女神の化身であるマーダノムの立場はどうなる。
金卓、銀卓共に、圧倒的に「悪魔の化身説」を支持する者が多く、赤ん坊を恐れて
もしも神の申し子ならば、生きて戻ってくるはずだと。
そんな時、声をあげたのがネーデルだった。
「わたくしは、あなたがただの赤ん坊にしか見えなかった。誰かの意図によって、あなたが金卓の上に送りこまれたのは事実。
けれども、身を守る手段を持たない赤ん坊が
それを曖昧にしようとする人たちが、わたくしは許せなかった。
だから、言ったのです。この娘はココット家の養子にします。
認めないのなら、この場でわたくしがこの子の心臓に刃を突き立てましょうと」
メルは息をのんだ。ネーデルが続ける。
「そうして、天院の判断がくだった。ただし、少なくとも十の年を過ぎるまでは地方で暮らさせ様子をみること、という条件つきでね。
だからカタルに住んでいたペネの元に預けたの。
わたくしは、決してあなたが悪魔の化身だと思わない。夜明けと共に生を受けた希望の子だと、信じています」
それでも、と厳しい口調に戻してネーデルは言った。
「ここでは、そう思わない人が多いのも事実よ。
噂は真実でないと、自分の行動と生き方で、証明してみせなさい。そこにしか、あなたの生きる道はないのだから」
寝台に寄り掛かるようにしてうずくまっていたメルは、呆然と立ち上がった。扉の向こうで、足音が遠ざかってゆく。
――証明しなさいと言われても、どうすればいいの。
今のメルにその答えを見つけることはできなかった。
それでも、一つ確かなことがあった。
母だけは自分を信じて、守ってくれたのだ。
これから先、彼女が言った「希望の子」という言葉を、メルはお守りのように胸の中に置くことになるのだった。
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