第66話【11月14日】代替わり
「あー、中止にならないかなあ」
朝晩の冷え込みが厳しくなってきている今日この頃。毎日のように早苗先輩が発する言葉は、わたしの気持ちも代弁していた。
霧乃宮高校では一週間後にマラソン大会があるのだ。
文芸部の女性陣は三人とも運動が苦手である。憂鬱なため息をつくのも致し方ないだろう。
そんな中で、ひとり涼しい顔をしているのは結城先輩だ。
中学生の時には陸上部で長距離が専門。さらに今でも毎日のように走っているというから、かなりの活躍が期待できそうだ。
距離は女子は五キロ、男子が十キロとそれほどでもない気がするが、これはあくまでもマラソン大会だけの距離である。
さすがに千人ちかい生徒がいっせいに霧乃宮市街を走るわけにはいかないので、スタートとゴールは学校ではない。まずは郊外の運動公園まで歩いていくのだが、それだけで片道三キロほどあるのだ。
走る前に疲れてしまいそうだった。
「距離が短縮されたから棄権するわけにもいかないしさあ」
早苗先輩のさらなる愚痴に「ですよね」と同意しかけて止まる。
「え、短縮されたのですか?」
「あれ、知らなかった? 数年前に半分にされたんだよ。時代の流れに沿って、あまり無理はさせないようにってことらしいけど。実際のところは棄権者の回収が大変らしいんだよね」
「半分ということは以前は女子十キロ、男子二十キロだったのですか?」
早苗先輩が頷くのを見て、わたしは今の時代に生まれたことに感謝した。
絶対に十キロなんて無理だ。走れない。
「学校側の言い分としては、半分にしてやったんだから歩かないで完走しろってことなんだよね」
たしかにそれを聞いては、走りきらないわけにはいかなくなった。
わたしたちがマラソン大会の愚痴をひと通り言い合ったところで、結城先輩が読んでいた本を閉じてこちらを向いた。
ちなみに今日の本は『パラークシの記憶』マイクル・コーニイだ。
「俺からもちょっと話があるんだが、いいか?」
これは珍しいことなので思わず居住まいを正す。
結城先輩が自ら話を振ってくることはほとんどない。それだけにそういう時には何かしら大事な要件ということが多い。
わたしは緊張した。
「期末テストが終わって十二月になると、来年度の予算折衝が生徒会執行部とのあいだで行われる。それが終わると予算委員会なんだが、それらを有村か北条のどちらかに出てもらいたいんだ」
これにはわたしも亜子ちゃんも驚いた。
来年度の部活動予算についてはわかる。だが何故それにわたしたちが出なくてはいけないのだろう?
結城先輩はわたしたちの戸惑いに構うことなくさらに続けた。
「予算委員会だけでなく、それ以降の中央委員会や部長会議にも出席を頼みたい。要するにどちらかに文芸部の部長になって欲しいということだな」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
わたしは慌てて口を挟んだ。
「先輩たちは来年の文化祭までは部活を続けると言っていましたよね? それなのに何故わたしたちが?」
まさか先輩たちは考えを変えて、文芸部を引退するつもりなのだろうか。
隣では亜子ちゃんも不安そうな顔をしている。
「誤解しているようだが、まず俺たちは引退はしない。そのうえで部長を頼んでいるんだ。理由としては文芸部の運営をスムーズにするためだ。
霧高の部活や委員会が生徒主体で動いているのは知っているだろう?」
わたしと亜子ちゃんは安堵のため息を漏らしながら頷いた。どうやら最悪の事態だけは起きないらしい。
「来年になってから有村たちが部長になった場合、わからないことがあってもすぐには聞けないわけだ。なにしろその頃には俺たちは引退しているんだからな。
しかし、今の時点で部長になれば、わからないことはすぐに俺たちが教えることができる。
これは文芸部だけでなく他の部でもそうしている。運動部だとゲームキャプテンや主将は三年が務めるが、部長は二年がやっている。言ってみれば霧高の伝統だな」
有用性を説明され、さらに伝統とまで言われると反論の余地がない。
わたしは亜子ちゃんと顔を見合わせた。
こんなことを言うのは情けないのだが、わたしも亜子ちゃんも部長という肩書がまったく似合わないと思う。
「あの、ちなみになのですが、今ってどちらが部長なのでしょう?」
これについては聞いたことがなかった。
「二人しかいないから特に肩書は名乗らなかったが、いちおう俺がやっている。中央委員会や部長会議にもちゃんと出ていたぞ」
結城先輩の発言にそういえばと思い当たることがある。先輩はそれなりの頻度で部活に遅れて顔を出していたのだ。
その時には「委員会があった」と言っていたので、あれはクラスの代表が出席する代議員会のことだと思っていたのだが、文芸部長としての委員会もあったのだ。
すると今度は亜子ちゃんが質問をした。
「具体的に予算折衝とは何をするのでしょうか?」
たしかにそれは知りたい。予算折衝とはいかにも大変そうである。
「まずは生徒会執行部に呼び出されて来年度予算を提案される。これは前年度の予算、部員数、活動実績などから割り出されるものだな。それに不満があるのなら交渉をするわけだ」
わたしたちが不安そうな表情を浮かべるのを見て結城先輩が笑う。
「そんなに心配しなくてもいい。文芸部の予算なんて毎年最低額なんだ。あれ以上減らされようがないから、実質サインをしにいくだけだ」
それを聞いてほっとした。どうやらそこまで面倒なことではないらしい。
ところが結城先輩は笑みを悪戯気に変えて続けた。
「もちろん有村たちが来年度、新しい活動をしたいと思うのなら予算増額を要求することもできる。その時は新規活動予定案と概算書――要するに企画書みたいなものを提出することになる。
執行部がそれを精査して、不備や部活動にそぐわないと判断したらやり直しだ。まあ一回で通ることはほとんどないと思ったほうがいい。それが承認されると、やっと予算委員会に回されることになる」
わたしと亜子ちゃんは再び顔を見合わせ、異口同音に「今のままで十分です」と声を出した。
そしてたぶん無理だろうと思いつつも、後ろ向きな質問をする。
「たとえばですが、そういった委員会に二人で出席したり、交代で出るということは可能なのでしょうか?」
「それはよっぽどの理由がないと難しいな。まず複数人での出席は純粋にキャパシティの問題がある。すべての団体が複数の出席者を出すようになったら会議室に入りきらない。
交代制が推奨できないのは、交渉の窓口が複数あると伝達の食い違いがどうしてもおこるし、相手からしてもやりにくい」
理路整然と説明されてわたしはあっさりと諦めた。
それまでずっと黙ってやりとりを聞いていた早苗先輩が口を開く。
「瑞希も亜子も部長をやりたがらないけど楽しいらしいよ。普通なら関わることのない人間と知り合いになれるし、生徒主導の委員会は活発で参加しているだけでおもしろいって聞くし」
「早苗先輩は部長をやったことがないし、これからもやらないからそんな無責任なことを言えるんですよ」
わたしが不貞腐れたように口にした言葉に、早苗先輩が敏感に反応した。
「今のはちょっと聞き捨てならないなあ。あたしが部長をやらなかったのは、べつに結城に押し付けたわけじゃないよ。単にあたしより結城のほうが優秀でふさわしかっただけ。
もし結城が無能で使えないヤツだったら、あたしは喜んで部長をやったよ」
早苗先輩は口こそ笑みを浮かべているが、その目は笑っていなかった。
たしかに今のはわたしの失言だ。
結城先輩が隣にいるから霞んでしまうが、早苗先輩も文句なしに優秀な人だ。少なくともわたしなんかとは比べ物にならない。そして責任を放棄するような人でもない。
わたしは素直に謝るべきだと思った。
「ごめんなさい。自分が責任を背負うことになるかもしれないからと、八つ当たりをしました。すみませんでした」
深々と頭を下げると、早苗先輩は「気にしてないよ」と笑って許してくれた。
すぐに調子に乗って考えもせずに発言するのはわたしの悪いところだ。猛省しないといけない。
結城先輩は真面目な顔になってこちらを見た。
「鈴木が言ったのは本当のことだ。さっき窓口はひとつに絞ったほうがいいと言ったが、部長になると委員会での票数獲得のために根回しの相談を受けることがある。弱小文芸部でも一票は変わらないからな。
それを人脈が広がると取るか、面倒だと思うかは有村たち次第だ。もし面倒なら安請け合いをしておけばいい。さすがに荒唐無稽な提案は執行部が却下しているだろうしな」
「いえ。もしそういった相談を受けたら、もちろん真剣に考えます」
わたしがそう答えると、結城先輩がおもしろそうに微笑んだ。何かおかしなことを言っただろうか?
「どうする? 時間をかけて二人だけで考えてもいいぞ」
わたしと亜子ちゃんは何度目かになる顔を見合わせて、首を横に振った。
先延ばしにしても意味はない。先輩たちのいる場で決めた方がいいだろう。
わたしは考えに沈んだ。
わたしも亜子ちゃんも部長に向いていないのはたしかだ。わたし自身、小学校の頃から成績は良かったが学級委員長などをしたことはない。
これは勉強はできてもクラスをまとめたり先頭に立つ能力がないと、級友たちから思われていたということだ。
それはおとなしくて控えめな亜子ちゃんもそうだと思う。
どちらも向いていないのに、どちらかがやらなくてはいけないのなら自分でやったほうがマシだと思えてきた。
少なくとも亜子ちゃんに押し付ける罪悪感からは逃れることができる。
わたしが決心しかけた時に、亜子ちゃんが小さく手を上げた。
「わたしは瑞希ちゃんがふさわしいと思います」
驚いて亜子ちゃんを見ると「ごめんね」と謝ってくる。しかし亜子ちゃんは、わたしから目を逸らしたりはしなかった。
「押し付けるとか消去法とかではなくて、わたしは瑞希ちゃんが部長にふさわしいと思うの。
瑞希ちゃんは自分の考えをしっかりと持っていて、それを目上の人にもはっきりと言える強さを持っているから。
他に候補となるふさわしい人がいても、わたしは瑞希ちゃんを推薦すると思う」
わたしが馬鹿みたいに口を開けていると、早苗先輩も続けて発言をする。
「あたしも瑞希がいいと思う。べつに亜子がダメっていうわけじゃなくてね。
瑞希はさ、素直なんだよね。さっきあたしに謝ったけど、あれって口だけじゃなくて本当に自分が悪いと思って心から謝ってる。
人間は誰しも自尊心があるから、そういうのって簡単にできないのよ。責任のある立場の人間が、素直に他人の意見を聞けるのって大切だと思う」
わたしがさらに驚いていると、結城先輩までもがそれに続いた。
「俺も二人に賛成だな。有村は生粋の
「ライトスタッフ――ですか?」
聞きなれない言葉だった。
結城先輩がわたしを見て頷く。
「ああ、正しい資質を持った人物のことだ。さっきの根回しの相談についての回答にもそれがよく表れている。
自分に関係がなくても、どんなに面倒なことでも、相談を受ければ真剣に考えることが当然だと思っている。打算じゃなくてそう思えるのは得がたい資質だ。
というわけで三人からの推薦を受けたわけだが、どうだ?」
結城先輩、早苗先輩、亜子ちゃん。三人からの視線を受けてわたしは俯いてしまった。
どう考えても自分がみんなの言うような大層な人物であるとは思えない。
他の人間に言われたら――たとえそれが両親であっても――わたしはその言葉を信じなかっただろう。
しかし文芸部の仲間以上にわたしが信用している人間などいなかった。そのみんながわたしならやれると言ってくれている。
わたしは顔を上げた。
「わかりました。どこまでやれるかはわかりませんが、部長を務めさせてもらいたいと思います」
それを聞いてみんなが笑顔で拍手をしてくれた。
わたしはその光景を見ながら呆然としていた。
信じられない。わたしが伝統ある霧乃宮高校の文芸部長になるなんて。
一年前の自分に教えても絶対に信じないだろうなと思った。
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