第29話【7月10日その4】又吉直樹『火花』は傑作か?


「作者のキャラクター以外だと、話題性が重要になってくる」


 結城先輩の芥川賞談義は続いていた。


「『蛇にピアス』の金原ひとみ、『蹴りたい背中』の綿谷りさのダブル受賞は、最年少受賞者、しかもどちらも若い女性ということで反響が凄かったらしい。ただ当時も話題作りのためという批判があったし、その後の二人の活躍は正直なところあまりぱっとしない。

 逆に『abさんご』の黒田夏子は七十五歳という最年長受賞だけど、この作品は横書きで固有名詞や代名詞が使われていなかったり、漢字の表記にも特徴がある。詳しく説明するとネタバレになるからやめておくが意欲作だよ。

 そして近年で最大の話題作といったら、現役の人気芸人でありながら受賞をした又吉直樹の『火花』だろうな」


「あっ、『火花』なら読みました!」


 読んだことのあるタイトルが出てきて、わたしは思わず叫んでしまった。


「あたしも純文なんて普段は読まないんだけど、あれは読んだなあ」


 早苗先輩の言葉に亜子ちゃんも「わたしも読みました」と続いた。

 それを聞いて結城先輩は呆れたように息を吐いた。


「さすがは累計三百万部というのは伊達じゃないな。部員同士で薦め合った本以外で、全員が読んだことがあるのは初めてじゃないか?」


 そう言われてみればそうかもしれない。もっともその原因は読書量の少ないわたしにあるのだが……。

 すると早苗先輩が大きく手を打った。


「ちょうどいいじゃない。せっかくだから結城の批評を聞かせてよ」


 わたしと亜子ちゃんもすぐに賛同の声をあげる。

 結城先輩は未読の人がいるところでは本の評価をしない。したがってこれまでは批評というものを聞けていなかった。唯一の例外が二人だけの時に聞いた『そして、バトンは渡された』についてだ。

 ところが結城先輩は不満を表した。


「ちょっと待て。なんで俺の批評だけなんだよ。良い機会なんだから全員の合評でいいじゃないか」


 すると今度は早苗先輩が不満を漏らす。


「えー。だってあたしには純文なんてわからないもの。せいぜい芸人って大変なんだなーっていう感想ぐらい」


 結城先輩は力なく長机に突っ伏した。

 しばらくしてから顔を上げると、眼鏡の位置を直しながら早苗先輩を疑いの眼差しで見つめる。


「……おまえ、本当は読んでいないんじゃないのか?」

「なっ。失礼ね! ちゃんと読んだわよ! 最後はあの先輩がさ――」


 早苗先輩の語ったことは物語の最後のほうに出てくる印象に残るエピソードだから、読んだというのは本当だろう。


「わかったよ。じゃあ鈴木はもうそれでいいから、有村と北条の批評を聞かせてくれないか」


 そう言われて、わたしと亜子ちゃんは顔を見合わせた。

 困った。実はわたしの感想も早苗先輩と大差ないのである。

 それでもわたしと亜子ちゃんは順番に批評――のようなものを述べたが、正直なところ自分でも何を言っているのかよくわからない有り様だった。

 さすがに結城先輩も渋い顔をしている。


「二人とも少し批評について勉強したほうがいいな。重要なポイントは客観性と理由だ。ただそれだけだと熱量が少なくなって味気ないものになる。自分が本当に伝えたいことは主観であっても語ったほうがいい。そのバランスが大切だな」


 わたしも亜子ちゃんも首をすくめてそれを聞いていた。


「というわけで俺の番なんだが、実は言いたいことは三人と変わらない」


 それを聞くと早苗先輩が猛然と食ってかかった。


「なによあんた! 偉そうなことを言っておいて、結局はあたしたちと同じ感想なんじゃない!」


 まるで鬼の首を取ったような勢いだ。

 だが結城先輩は冷静にそれを受け流している。


「だからそれを論理的に伝えるのが批評なんだろうが。ちょっと黙ってろ」


 そして少しの間、腕を組んで目をつぶっていた。

 やがて考えがまとまったのか、わたしたちを見ると静かに口を開く。


「まず主人公の徳永は、あきらかに作者である又吉直樹がモデルだ。実際に共通点も多い。そういう意味でこの物語は私小説といえる。純文学には私小説家が多いんだが、有名なのは太宰治だな。さっき話題にした西村賢太もそうだ。

 人は誰でも一冊は小説を書けると言われているが、これは自分の人生を書けば物語になるからだ。処女作に私小説を書いたのは太宰を尊敬している又吉らしいともいえるけれど、堅実な選択だったと思う。

 そして物語の核となるのは笑いに対する探求だ。徳永と師匠である神谷は、いつ何時、どんなシチュエーションであっても、常に笑いについて考えている。それはもはや探求を越えて渇望と呼んでいい。

 自分の存在をかけて笑いを求める姿を書き切ったのは、さすが現役の芸人だと思う。職業作家がどれだけ取材をしてもこれは書けなかっただろう」


 そこで結城先輩は深く息を吐いた。


「ただ、それ以外の部分は読むべきところがない。若者がアイデンティティを求めて悩み、迷いながら生きていくというのは不変的テーマで目新しさはない。

 文章についても描写が過多なところと、平板な状況説明で淡々と進むところなどバラつきがある。

 この小説が他の芥川賞作品と比べて、文字通り桁違いの売れ行きをするほどの傑作かと問われれば、そんなことはないと否定する。

 それでも――」


 結城先輩はわたしたちを順番に見た。


「最初に言った、笑いに対する渇望。その一点だけでこの小説は芥川賞に値すると俺は思う。それは決して芸人又吉直樹というネームバリューで獲ったものじゃない。作家又吉直樹の実力で獲ったものだと強く言いたい」


 わたしはやはり結城先輩は凄い人だと思った。

 たしかに内容を要約してしまえばわたしたちの感想と変わらないのかもしれない。しかしちゃんと批評になっている。そして熱量もあった。

 先輩が伝えたいことはちゃんとわたしに伝わった。

 早苗先輩がわざとらしい空咳をする。


「うん、まあそういうことだよね。あたしもそれを言いたかった」


 結城先輩はジト目で見つつもそれを聞き流した。武士の情けか、それとも単に呆れているだけかもしれない。

 同じように咳をすると総括する。


「話題性がないと受賞作でも売れない、それ以前に受賞できないかもしれないという状況は悲しむべきことだと思う。ただ話題先行の受賞作が必ずしもつまらないものじゃないということを『火花』は証明してくれた。こういう作品が増えることで、本を読む人間が増えてくれたらいいなと俺は思うよ」


 わたしも同感だ。

 とりあえずは結城先輩を見習って純文でもなんでもまずは読んでみようと決めた。読まず嫌いはよくない。新規開拓も積極的にしようと思う。

 それと同時にちょっと恨めしい。

 結城先輩が本を薦めてくれたら話は早いのに。

 いつかそんな時がくるといいなと思った。


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