第21話【6月10日その2】早川書房よ魂の叫びを聞け!
先輩たちを放っておくと際限なく脱線していきそうだった。
わたしは話を強引に『氷と炎の歌』に戻すことにする。
「あのっ! それでどんなストーリーなのでしょう?」
先輩たちは会話を中断してこちらを向いた。一瞬のアイコンタクトでどちらが説明するのかを決めたらしい。早苗先輩が口を開く。
「えっとね、いろんな要素があるから説明が難しいんだけど、とにかくスケールの大きな大河ファンタジーだね。
中世のブリテンをモチーフにしている七王国が舞台の群像劇で登場人物がとにかく多い、だけどひとりひとりにちゃんと存在感があって魅力的なの。個々のキャラのファンも多いよ。ところが主役級のキャラクターでもあっさりと死ぬ、そこがまたリアルで良いんだよね。
いわゆるエログロな描写もあるからダークファンタジーって呼ばれることも多いかな。あとSF的要素もあるんだよね、純粋なファンタジーじゃないのよ。
七王国の覇権争いと北方からの異形の脅威、それに玉座の奪回を目指す復讐劇が並行して語られていくんだけど、ほんっとにおもしろいから絶対読むべきよ」
なるほど、かなりの大作らしい。説明を聞いただけでもいろんな要素が複雑に絡み合っていることがわかる。
けれどその続編が長いこと出ていないらしい。ファンとしてはさぞ気を揉んでいるのだろう。結城先輩が再びそのことに言及した。
「問題は原作が書かれたとしても早川から翻訳されるのか怪しいことだよな。どんな契約をしているのか知らないが『ゲーム・オブ・スローンズ』の大ヒットで翻訳権の金額は跳ね上がったはずだぞ。そうなったら貧乏な早川じゃ払えないだろう。角川あたりにかっさらわれるのが容易に想像できるんだよな」
「ちょっと不吉なこと言わないでよね。それでなくても『氷と炎の歌』には訳者の変更で振り回された暗黒史があるんだからさ……」
早苗先輩が苦々しげな表情を浮かべた。
結城先輩が言っていることは翻訳権が高くなった場合の影響についてだとわかる。だが早苗先輩の発言は腑に落ちなかった。
「翻訳者の変更ってそんなに影響があるものですか?」
長期間続くシリーズなら途中から翻訳者が変更になるというのは珍しくない気がする。その場合は読者が違和感を抱かないような配慮をするのではないだろうか。
「それがさ、表現や描写の差異じゃないのよ。第四部の『乱鴉の饗宴』から訳者が変わったんだけど固有名詞を変えたんだよね。それも何百個も。
愛着のあるキャラの名前が変更になったのは違和感があって嫌だったけど、それは実害がないからまだ許容できたの。問題はそれ以外よ。
さっきも言ったけどとにかく登場人物が多い物語だから、端役の名前が変わっているとそれが既存キャラなのか新キャラなのかわからないのよ。役職や地名なんかはもっと手に負えなかった。
これはあたしだけじゃないからね。当時物凄い抗議の声があったんだから」
それは酷い。何のためにそんなことをしたのか意味不明だ。
「あとこれは個人的なことなんだけどさ、あたしが読み始めたタイミングも最悪だったんだよね。小五の時に古本屋で第一部と第二部の文庫が十冊セットで売っていてそれを買ったんだけど、この文庫っていうのが旧訳版で今はもう絶版なのよ。
新訳版は文庫でも単行本と同じ上中下巻だから第三部以降を隣に並べると見映えが悪いし、第五部と外伝は文庫落ちまで我慢できなくて単行本買ったしさ……。
ああ、もう! なんか愚痴ってたら角川から刷新されてもいいんじゃないかと思えてきた。そうしたら綺麗に揃ったやつを買い直す!」
早苗先輩がやさぐれているのを見るのは忍びなかった。
「結城先輩もその被害にあったのですか?」
「いや、俺が読み始めたのは中学になってからだから訳の変更後だった」
結城先輩は危ないところで難を逃れたわけだ。
「そうだ、愚痴ついでにもうひとつ聞いてもらっていい?」
早苗先輩がわたしと亜子ちゃんの方に体を寄せる。結城先輩を横目で見ると、聞いてやってくれというようなジェスチャーをしていた。
どうやら思い当たることがあるらしい。
「海外産のファンタジーって三部作や上中下本が多いのよ。早川はそれを日本で出版する時にさらに分冊にするんだよね。つまり原書が三冊だとしたら九冊とかにして売りにだすわけ。もちろん冊数が増えるんだから合計金額も高くなるんだけど、まあそれはいいわよ。お布施だと思って払うわよ。
問題はそれが全冊発売されないんだよね。最初の三冊、つまり原書だと第一部や上巻の段階で打ち切られることがあるの。でもそれも百歩譲って許してあげるわよ。いちおう元の本では一冊分なわけだから。
だけどさ、それが二冊で終わるっていうのはありえないと思わない!? 原書では完全に話の途中だよ。なんでそんな中途半端なところで打ち切るのよ!」
そこで早苗先輩は下を向いて息をためたかと思うと天井を見上げて吠えた。
「聞こえるか早川書房!! あたしは『ブラッド・ソング』の恨みを死ぬまで忘れないからなぁああああああ!!!!!!」
わたしと亜子ちゃんはびっくりして思わずのけぞってしまった。
隣の図書室にまで聞こえたのだろう、図書委員の人が驚いたように顔を覗かせたのに結城先輩が謝っていた。
肩で息をしている早苗先輩の代わりに結城先輩があとを引き取る。
「まあそういう本があったんだ。鈴木が読め読めうるさいから俺も読んだけど、これが普通におもしろいんだよな。少なくとも内容で打ち切られるような本じゃないと思った」
そこで結城先輩は深刻な表情をして腕を組んだ。
「そもそも俺は早川の分冊手法は間違っていると思う。買う側だけでなく版元にとってもマイナスが大きい。結果的に自分の首を絞めていると思うんだ。
たとえば有村や北条が、早川から発売される新シリーズのファンタジーを買おうとする場合、さっきの鈴木の話を踏まえてどんな買い方をする?」
わたしと亜子ちゃんは先程の先輩たちのようにアイコンタクトを交わした。代表して亜子ちゃんが答える。
「最低でも最初の三冊、できれば全九冊が出揃ってから買うと思います」
結城先輩は大きく頷いた。
「それが賢明な判断だよな。俺でもそうするし、実際にそういう人間が増えたんだと思う。その結果、新シリーズは出だしから売れ行きが悪くなる。そうなると版元としてもこのシリーズは売れそうにないと打ち切るわけだ。それを見てユーザーはますます全冊揃ってから買おうと思う。悪循環だな。
これは仮定の話じゃなくて現状すでにそうなっているんだ。その連鎖を断ち切るには版元がたとえ赤字を出したとしても、一度手をつけたシリーズは必ず最後まで
出版するしかない。そうすれば読者も最初から手にとってくれるはずなんだ。
ところが早川にはこんな当然のこともわからないらしい。わかっていても会社にそれだけの体力がないのかもしれない。どちらにしても企業としては末期だよ」
結城先輩は厳しい表情をしていたが、話す内容も厳しいものだった。
「そもそも海外ファンタジーを読む固定ファンというのは少ない。何千人という世界だ。それをファンもわかっているから、さっき鈴木が言ったようにできるかぎり買い支えようとしてくれている。
それじゃあ採算がとれないと判断したのなら、早川はファンタジー部門をすっぱりとやめるべきだ。打ち切り作品を連発してファンを裏切るようなことをするよりはな」
わたしが読んできた本はどちらかといえばベストセラーと呼ばれるものが多かった。だから意識してこなかったが、出版不況というのは本当に身近なものなのだ。
結城先輩は顔をしかめてさらに続けた。
「うがった見方だけど、そもそも早川は新規の読者を開拓することよりも、固定ユーザーに何度も買わせることを意識しているんじゃないかと思う。早川の文庫って他の出版社のよりも少し大きいだろう? あれも字を大きくして読みやすくするためっていうのが表向きの理由だけど、ファンに買い直させるためだって言われてる。マニアはコレクションにもこだわるから、本棚には綺麗に揃ったものを欲しがるからな。
ハヤカワ文庫SFといえば『青背』と呼ばれて親しまれてきたんだけど、最近は黒のカバーに変えてきているのもそう。やたらと完全版を出してくるのもそうだな。実際おなじ本を買い直しているファンも多いらしい」
それが事実ならあまり健全な商売とはいえないと思う。現状はそれで何とかなっても、新しい読者がいなくなれば先細りすることは目に見えている。
先程、打ち切られたシリーズの話をしたが、手に取ったのは固定ファンだけでなく新規読者だっていたはずなのだ。その人は続編が出ないことをどう思っただろう。
結城先輩の声も重い。愉快な話題ではないからだ。
「マット・デイモン主演の『オデッセイ』っていう映画があったろ。あれの原作の『火星の人』も早川から翻訳されていたんだけど、映画の公開に合わせて新版を出したんだ。旧版が発売されてからわずか一年しか経っていないし、一冊だったものを当然のように上下巻に分冊してきた。同じ文庫でだぞ。
商魂たくましいというより節操がないと感じるな。逆にいえばそうしなきゃならないほど経営が苦しいのかもしれない。潰れたり大手出版社に吸収合併されるんじゃないかと不安になるよ」
「そんなの嫌だな。あたし早川が好きだから……」
早苗先輩が迷子になった小さな子供のように、心細げな声を出した。
あんなに怒っていたのも愛情の裏返しなのだ。こんなに愛してくれている人を悲しませるようなことはして欲しくなかった。
結城先輩もそんな早苗先輩を見て、声に静かな怒りをこめた。
「出版ラインナップ的に早川には鈴木のような熱心なファンが多い。その好意にあぐらをかいてファンを裏切るようなことや、ましてや食い物にするようなことはしてくれるなと、俺はそう願っているよ」
わたしもその言葉に心から賛同した。
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