第67話【11月21日その1】マラソン大会で思うこと


 息は苦しいし足はまったく前に進まない。もう歩こうかなと何度目かの考えが頭をかすめたが、かろうじて思いとどまった。

 今日は霧乃宮高校のマラソン大会である。

 わたしの晴れ女っぷりが遺憾なく発揮され、雲ひとつない快晴。雨天中止とはならなかった。

 男子十キロ、女子五キロ。運動部の人ならたいした距離ではないのかもしれないが、文芸部で運動が苦手なわたしにとっては苦行でしかない。


 スタート前に「いっしょにゆっくり走ろう」と言ってきてくれたクラスメイトの誘いは丁重に断った。

 理由は彼女たちの想像より、自分がはるかに遅いという自覚があるからだ。

 気を遣わせるのも嫌だしこちらが気を遣うのも面倒だ。肉体的負担だけで手一杯である。

 そういうわけでわたしはひとりで走っている。最後尾ではないが、後ろから数えたほうが早い順位なのは間違いないだろう。

 

 そこで残り一キロの表示を越えた。

 気分的には「あと一キロだ」ではなく「まだ一キロもある」だ。やっぱり歩こうかなと思った時、わたしの横を熱い塊が駆け抜けていった。

 びっくりして目で追うと霧高のジャージを着た男子生徒だった。これまで男子には抜かれていない。ということは彼が一位ということになる。

 男子のほうが先にスタートしたとはいえ、もう九キロも走ってきたのだ。驚きしかない。


 すると再び背後から足音が聞こえ、また男子生徒がわたしを追い抜いていった。

 ただ一位の人に比べるとその息はかなり荒かった。スパートをかけられて離されてしまったのを、必死に追いかけているのかもしれない。

 そんなことを考えていると今度は複数の足音が聞こえ、三人ほどの集団がわたしを追い抜いていった。

 これからはどんどん男子に抜かれるだろう。わたしは邪魔にならないように道路の端に寄った。


 さらに二人に抜かれると、また背後から足音が聞こえてきた。いままでと違うのはその音が真っ直ぐこちらに近づいている気がすることだ。

 わたしがさらに端に寄ろうとすると声をかけられた。


「有村、頑張れ」


 あっと思った瞬間、結城先輩がわたしのすぐ横を駆け抜けていった。

 先輩は前を向いたまま手を振る。

 わたしも声をかけようとして迷った。先頭とのタイム差を伝えるべきか、現在の順位を教えるべきか。

 しかしどちらも確実なことはわからない。だとすると下手な事は言わないほうがいいのかもしれない。

 迷っている間に結城先輩の姿は小さくなってしまった。


 難しいことを考えずにわたしも「頑張ってください!」と言えばよかっただけと気づいた。本当にわたしは機転が利かない。

 しかしこれで歩くわけにはいかなくなった。

 結城先輩に「頑張れ」と言われたのである。これで歩いたら女がすたる。

 わたしは気持ちを奮い起こすと足に力をこめた。





 わたしはなんとか最後まで歩かずにゴールすることができた。

 ふらふらになりながらクラスメイトと合流すると友達がねぎらってくれた。その手にはミネラルウォーターのペットボトルを持っている。

 ゴール後に貰えるそれを、わたしは受け取りそこねたらしい。まったく自分の要領の悪さが嫌になる。

 足を引きずるようにして運営テントへと引き返した。


 運動公園のグラウンドには多くの女子生徒に混ざって、ちらほらと男子生徒が点在している。やはり十キロもあると差も大きくなるのだろう。男子の集団が戻ってくるのはこれからだ。

 ミネラルウォーターを受け取ると喉を鳴らしてそれを飲んだ。

 一息ついたところでグラウンドの端にひとりで立っている結城先輩に気がついた。どうやらクラスメイトはまだゴールしていないらしい。

 わたしが近づいて行くと先輩もこちらに気がついた。


「おつかれ。歩かないでゴールできたか?」

「はい、なんとか」


 結城先輩を観察すると、すでに汗も引いているし呼吸も落ち着いている。疲れている様子はまったく見えない。

 中学では陸上部で長距離が専門、今でも毎日走っているというのは伊達ではないようだ。


「先輩は何位でしたか?」

「八位だった」


 凄いの一言だ。現役の運動部員を相手にその順位は十分に誇れるだろう。

 結城先輩の隣に並ぶと、抜かれた時に何と声をかけたらよいのかわからなくて、結局なにも言えなかったことを謝った。

 それを聞いて結城先輩は笑う。

 その視線がずっと同じところを見ているので追っていくと、五人ほどの男子の集団がいた。


 その様子から同級生ではなく先輩と後輩のようだ。この時間にすでにゴールしているということは運動部だろう。

 先輩と思しき人が何やら追及しているのを、後輩らしき人が手を振って否定している。といっても怒られているのではないようだ、周りも含めてみんな笑っている。

 おそらく先輩より遅くゴールしたら罰ゲームとかそんな決め事がしてあって、嘘の順位を言って誤魔化しているのだろう。


「やっぱり陸上部に入っておけばよかったと思っています?」


 わたしが唐突にそんなことを聞いたので、結城先輩は少し驚いたようにこちらを見た。


「いきなりどうした?」

「羨ましそうに見ているので」

「男同士がくんずほぐれつしているのをか?」


 気がつけば先程の集団では後輩が先輩から必死に逃げ回っている。とても十キロ走った後とは思えない。

 だがすぐに捕まるとプロレス技をかけられていた。ギブアップと叫んでいるが、当人は笑っている。みんな楽しそうだった。

 結城先輩もそれを見て笑った。


「やっぱり羨ましそうですよ」

「なんか俺まで、鈴木の好きなBL趣味の持ち主みたいだな」


 そういう意味で言ったのではない。先輩だってわかっているはずなのに、あえて誤魔化している。

 わたしの胸の内を察したのか先輩は茶化すのをやめた。


「たしかに文芸部に男の後輩はいないからな、ああいった男同士の馬鹿騒ぎが羨ましくはある。

 それで思い出した。ちょうど一年前の今日、俺は文芸部を辞めて陸上部に入り直そうと考えていたんだ」


 わたしは驚いて結城先輩を見た。


「そうなんですか?」

「ああ。実は去年のマラソン大会では五位だったんだ」

「さすがですね」

「いや、走る前は三位には入るつもりだった」


 結城先輩は自嘲するように笑う。


「事前に記録会のタイムを調べたんだよ。陸上部の長距離選手で俺より速いのは二人だけだった。他には勝てるだろうし、ましてや他の部の人間には余裕だろうと」


 なんと言えばいいかわからず黙ってしまう。


「結果は天狗の鼻を折られたわけだ。それで陸上部に入り直そうと考えたんだ」

「なぜそうしなかったんですか?」

「鈴木をおいていけなかった」


 思いがけない答えだ。

 やっぱり結城先輩は早苗先輩のことを――。


「有村がいま考えたことは違うぞ」


 考えを見透かされてわたしは顔を赤くする。でもだとしたら何故だろう?


「去年の文化祭であんなことがあったわけだけど、それで終わりというわけじゃなくてむしろその後が問題だった」


 結城先輩が言っているのは、現在三年生である元文芸部の女子たちが、文集寄稿者の名前を入れ替えた事件のことだ。

 先輩たちには伝えていないが、先月の二年生の修学旅行期間中にわたしと亜子ちゃんは彼女たちに会っていた。それは友好的対面とは言えないものだった。


「彼女たちのしたことは許せなかったし、少なくともそのまま何事もなかったように文芸部に居させる気はなかった。だから文化祭が終わってからも図書準備室に通うことにしたんだ。

 向こうがこちらと顔を合わせたくないのはわかっていたから、俺が居れば彼女たちは寄り付かない」


 それはそうだろう。彼女たちにしてみれば合わせる顔がない。


「すると図書準備室には同じことを考えている奴がいた」

「早苗先輩ですね」


 結城先輩は頷く。


「そのことについて話し合ったりはしていなかった。それでも二人とも同じことを考えていたわけだ。

 俺たちが放課後に居座っていたからだろう、彼女たちが顔を見せることはなかった。もっとも置いてあった私物がなくなっていたから、昼休みなどに取りにきたんだと思う」


 早苗先輩は言っていた、結城先輩は戦友なのだと。それは文化祭での出来事だけでなく、その後も含めてのことだったのだ。


「それでも二ヶ月も経つと、もう大丈夫だろうと思ったんだ。だからマラソン大会で負けた時に陸上部に移籍することを考えた」

「でもしませんでしたよね」

「ああ。あの部屋に鈴木を置き去りにすることはできなかった」


 その気持ちは痛いほどわかった。

 わたしたちは普段四人でいるから意識しないが、図書準備室は薄暗くて静かで少し怖い。回りを本に囲まれているというのも圧迫感がある。

 隣の図書室に人がいるとわかっているから耐えられるが、ひとりでいる時などはやはり心細い。

 早苗先輩は怖がりだ。それでも結城先輩がいなくなってひとりきりになったとしても、図書準備室に通い続け文芸部を守っただろう。

 それがわかったから結城先輩は文芸部を辞めることができなかったのだ。


「ありがとうございます、辞めないでくれて。結城先輩が残ってくれたからこそ、今の文芸部があるのですから」


 わたしは心からそう思った。

 しかし結城先輩は自嘲するように笑う。


「礼は言わなくていい。なにしろ俺は文芸部を廃部にしようと思っていたからな」

「えっ!?」


 わたしは思わず声をあげて結城先輩を見つめた。


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