第18話【5月28日】距離を縮める菊池寛


「やあ」


 結城先輩がそう言いながら図書準備室に入ってきた。


「こんにちは」


 わたしと亜子ちゃんが軽くお辞儀をしながら挨拶を返す。

 結城先輩はそのまま定位置のパイプ椅子に腰を下ろすと、いつものように鞄から本を取り出した。今日のセレクトは『不見みずの月 博物館惑星Ⅱ』菅浩江。

 そのまま読み始める姿を見て、わたしと亜子ちゃんは顔を見合わせて頷いた。予想どおり結城先輩は知らないらしい。

 さてどうしたものか。

 結局わたしたちは静観することにした。あえて言い出すのもおかしいかなと思ったのだ。

 そのまま時間が過ぎて一時間ほど経ったころ結城先輩が顔を上げた。


「そういえば鈴木が来ないな」


 やっと気がついたらしい。

 わたしと亜子ちゃんも読んでいた本から顔を上げる。


「早苗先輩は学校もお休みですよ」

「休み? テストの結果が悪くて寝込んだのか?」


 さらっと酷いことを言う。たしかに中間テストは続々と返ってきている。ちなみに結城先輩に教えてもらった数学は得意科目を抜くほどに良い点数だった。


「風邪だそうです」


 ここのところ急激に暑くなったので体調を崩したのだと思う。


「なんとかは風邪をひかないって言うけどな」


 ますます酷い。本気ではないだろうけれど、あまりに冷たいのでわたしも亜子ちゃんも剣呑な眼つきになってしまう。


「というか結城先輩もLINEを見てくださいよ」


 わたしたちが入部してすぐに文芸部のLINEグループを作った。ところが結城先輩はそこにまったく顔を出さない。既読スルーとかそういうレベルではなく、本当に見たことすらないのだと思う。

 たしかにやりとりの内容は図書準備室でのお喋りの延長みたいなもので、結城先輩には興味がないのかもしれないけれど。


 わたしと亜子ちゃんのあからさまな非難の目に、さすがの結城先輩もばつが悪くなったらしくスマホを取り出した。

 わたしも自分のスマホで文芸部のグループを開く。そこは早苗先輩のメッセージで埋まっていた。


【寝てるの飽きた】

【病気の時って軽い本しか読む気しないよね】

【今そういうのないなあ】

【そろそろ部活の時間だね】

【二人ともなにしてるー?】

【結城にイジメられてない?】


 よかった、どうやら体調は大丈夫らしい。昼休みにチャットした時よりも元気そうだ。そこで結城先輩がスマホを操作するのがわかった。


【くだらないこと言ってないで寝てろ】


 すぐに返事がきた。


【あ、結城。あんた本なんか読んでないで二人の相手してあげなさいよ!】


【うるさい奴がいないから二人とも静かに読書してたぞ】


【それはあんたに遠慮してるに決まってるでしょ! ちゃんと話し相手になってあげなさいよ】


【わかったから寝てろ】


 そこで結城先輩はスマホをしまった。

 早苗先輩からはさらにメッセージが送られていたが読む気はないらしい。


「話し相手か」

「気にしないでください。わたしたち平気ですから」


 わたしも亜子ちゃんも結城先輩の読書を邪魔するつもりはない。早苗先輩に言われたからといって、無理にわたしたちに付き合う必要はなかった。


「いや、ちょうどいい。二人さえよかったらちょっと付き合ってくれないか」


 亜子ちゃんと顔を見合わせる。まさかお説教ではないだろう。わたしたちは頷いた。


「二人は菊池きくちかんを知っているかな?」


 唐突な質問だ。たしか文学関係者だったと思うがよくは知らない。


「聞いたことある気がするのですけれど。……どなたでしたっけ?」

「……有村さんのその反応、鈴木みたいだな」


 結城先輩が物凄く嫌そうな顔をした。

 それはわたしにも早苗先輩にも失礼だと思う。


「あの、文藝春秋の設立者ですよね」


 亜子ちゃんが答えた。さすが、わたしの親友は頼りになる。


「正解。芥川賞、直木賞の創設者でもあるな。他にも映画会社の大映の社長なんかもしていた。今では実業家としての功績のほうがクローズアップされてるけど、自身も作家として活躍していたんだ」


 芥川賞、直木賞はもちろん知っている。文藝春秋と合わせて考えると、日本文学界に多大な影響を及ぼした人だということがわかる。


「もっとも当時は人気作家だったけれど、今でもその作品が読まれているかというとそんなことはない。おそらく普通に本屋で買えるのは『真珠婦人』ぐらいだと思う。まあこれは菊池に限らないけどね。それこそ毎年版を重ね続ける、漱石や芥川、太宰なんかが特別だと思っていい」


 古典や近代文学にも読まれ続ける作品と消えていく作品があるということなのだろう。そう考えると今なにげなく読んでいる本も貴重に感じた。

 ところで結城先輩の話はどこへ向かっているのだろう?


「そして菊池は小説家としても有名だったけれど、劇作家としても人気だったんだ。その代表作に『父帰る』という作品があるんだけど、知っているかな?」


 これにはわたしだけでなく亜子ちゃんも首を横に振った。


「まあそうだよな、最初の発表が大正中期だし。そのあとも何度も舞台化されたし映画にも何回かなった。短い話だしシンプルだから最後までストーリーを言うと、

 長男である主人公が子供の頃に父親が出奔する。主人公は母親を助けながら、弟と妹を育てるために父親代わりとなって必死に働いてきた。

 その父親が二十年ぶりに帰ってきたんだ。母親と弟妹は温かく迎えるんだが、主人公は決して許さない。まだ幼かった弟妹は記憶にないが、主人公は母親が子供たちといっしょに入水自殺を図ったことを覚えているし、弟妹を中学卒業させるために自分はろくに学校へ通わず働いてきたことを恨んでもいる。

 主人公に拒まれ父親は家を出ていくんだが、母親は許してやってくれと哀願するんだ。翻意した主人公は弟に父親を呼び戻してこいと大声を出す。ところが見つからない。主人公と弟は街の中を必死に捜し回る。そういう話なんだ」


 なるほど、たしかに短いしシンプルだ。でも中身は濃いと思う。大正ということは百年前だが今の時代でも通じる物語だと感じた。


「この戯曲の一番の名場面といえばやっぱりクライマックスなんだけれど、他にも印象的なシーンがある。

 それは父親が帰ってきた時に、主人公が父親に対して「こんにちは」と挨拶をする場面なんだ。これは主人公と父親の関係性、主人公の心情がよく表れていると当時も絶賛されたらしい。何故だか二人はわかるかな?」


 わたしにはわかった気がする。そして結城先輩の話がどこへ着地するのかも。亜子ちゃんもわかったようだが代表してわたしが答えた。


「普通は父親に対して「こんにちは」とは言わないということですよね」

「そう。つまり主人公は父親に対して、あなたはもう他人であると暗に言ったわけだ」


 わたしも両親に対して「おはよう」と挨拶はしても「こんにちは」とは言わない。


「似たようなものは外国語の挨拶でもある。英語の「Hello」、中国語の「你好ニーハオ」なんかも初対面での挨拶に使うなら構わないけれど、親しい間柄では使われない。

 日本人は生真面目だからずっとそれで挨拶をしていて、現地の人から友人になりたくないんだなと思われていた。なんていう笑えない話もある」


 たしかにそれは笑えない。


「さて、二人とも俺が何を言いたいかわかったようだけど、あえてイジメてみようかな。今日、俺がここに来た時に二人はなんて挨拶をした?」


 結城先輩は悪戯気に笑っている。たしかにその質問はいじわるだ。

 わたしと亜子ちゃんは小さな声で返事をした。


「こんにちは……です」

「だよな。悲しいなあ、もう二ヶ月にもなるのにまだ「こんにちは」で挨拶されるなんて」


 結城先輩は芝居がかった様子で嘆いた。


「すみませんでした、それは謝ります。でも、そうしたらなんて挨拶したらいいんでしょう?」


 まさか結城先輩のように「やあ」とは言えない。


「別にきっちりと挨拶をしなくてもいいと思うけどね。どうしてもっていうのならやっぱり「おはよう」なのかな。業界人みたいだけどあれにも意味があって、二十四時間働いているから昼夜の区別がないっていう説とともに、今の話のように関係性に壁を作らないためとも言われている」


 本に限らず博覧強記な人だ。


「わかりました。今度から気をつけますけれど、こちらからもいいですか」


 結城先輩がそう言うのならわたしにも言いたいことがある。


「結城先輩はわたしたちのことを「さん付け」で呼びますけれど、それはおかしくないですか? 「こんにちは」といっしょで距離を感じます」


 思わぬ反撃に少し驚いた様子で先輩がこちらを見た。


「そうかな? 俺たちの間には学年差というあきらかな力関係パワーバランスがある。それを盾に呼び捨てにするのはいわゆるパワハラだと感じるな。 

 二人が鈴木のことを名前で呼んでも敬語を使っているように、親しい仲にも最低限の礼儀は必要だと思うけど」


「たしかに会っていきなり呼び捨てにされたら無礼な人だなと思います。だけど先輩の言葉を借りれば、もう二ヶ月も経っています。なによりわたし自身がそう呼んで欲しいんです」


 結城先輩と睨み合うような感じになった。隣では亜子ちゃんが、心配そうにわたしたちを見守っている。

 先輩相手にディベートで勝てるとは思わないが、わたしも一歩も引くつもりはない。でもこのままでは埒が明かないだろう。アプローチを変えてみた。


「じゃあ聞きますけれど、もしわたしが男だったら結城先輩は今でも「有村くん」と呼んでいますか?」


 結城先輩はわずかに逡巡したが口を開いた。


「いや、呼び捨てにしているだろうな」

「じゃあこれは男女差別になりますよね?」


 わたしは別にフェミニストではないが、ここは大義名分を利用させてもらおう。


「呼び捨てにしろっていう要求はフェミニズムの真逆な気がするけどな……」


 結城先輩は頭を抱えていたが、決心したように顔を上げた。


「わかった。そうして欲しいというならそうするよ。ええと、北条――さんは?」

「わたしもそうして欲しいです」


 亜子ちゃんが笑顔で答えた。


「じゃあこれからは有村、北条で呼ぶ」

「はい」


 わたしと亜子ちゃんは揃って元気よく返事をした。

 結城先輩はそれを見て苦笑しつつスマホを取り出した。わたしも文芸部のグループLINEを開いてみる。


【言われたとおり二人と話したぞ。おかげで距離を縮めることができた】


 すぐに早苗先輩の返信がある。


【なにそれ? 何の話をしたの?】


【気にしないで寝てろ。こっちは三人で仲良くやる】


【あんたまさか変なことしたんじゃないでしょうね!? 通話にするから出なさいよ】


 わたしも悪戯心を出してメッセージを送った。


【早苗先輩ありがとうございます! 結城先輩と仲良くなりました!】


 亜子ちゃんも同じように書き込んだ。


【お話もおもしろかったしとっても仲良くなりました】


【ちょっとあんたたち何やってたの!? ああもう、今から行くから待ってなさい!】


 悪戯が過ぎたのか早苗先輩がいきなり不穏なことを言い出した。先輩の家は市内だし本当に来かねない。そんなことをしたらせっかく治りかけの風邪がぶり返してしまう。

 わたしと亜子ちゃんは慌てて止めた。そんなわたしたちを尻目に結城先輩はメッセージを送ると再び本を開いている。


【ちゃんと説明してやるから今日はおとなしく寝て明日は必ず顔を見せろ】


 やっぱり先輩たちは仲が良いなとちょっと嫉妬した。


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