勧善懲悪アナフィラキシー
※編者注:当手記者であった研究員は、研究所を退所してすぐに、都心部にて自爆テロを敢行しました。
甚大な被害を受けた犠牲者並びに遺族の方々に哀悼の意を示すと共に、今後、当研究所としてもこうした事例が出ないよう尽力することを約束します。
その上で、当手記には一切の編集を加えておりません。元研究員が犯行前に克明に記した手記は短いものではありますが、支離滅裂で意味が通らず、主張も一貫していないため矛盾が生じるものとなっています。
研究所としては退所済みであるとはいえ仮にも研究員であったという事実に基づき、当人の思想・思考を尊重するという方針の元、これを公開します。
閲覧の際はご注意ください。
正義と悪には見分け方がある。時々、悪は正義の仮面をかぶってやってくるので見分ける能力が必要となるのだ。
見分け方は簡単。暴走した方が偽の正義、すなわち悪だ。
+ + +
正義とは、私がこの世で一番嫌いなものだ。
人の死を止めることを賛美し、逆に死ぬ行為そのものを咎めるのは紛れもなく正義の賜物である。
私も含めたここにいる人間が、どうしてこうも自殺に関して世間とは違う考え方をしているのか、なんてことをずっと考えている。人と話もした。ただ私の場合は単純に、正義が嫌いなだけだ。
正義の名の下に人の死をどうこうしようという魂胆が忌まわしい。法の名の下に人を殺すという行為にも反吐が出る。だから私は死刑には反対の立場だ。死にたいがために国に殺されようとするのは、卑怯では?
人の自殺願望に茶々を入れる気は更々ないが、自分が死ぬために人を殺すのであれば少し違ってくる。私はそんな彼らに死ぬことを許したくない。
私は単純に「好きか嫌いか」のレベルで、歪んだ回りくどい自殺についてあれこれと思うけれど、この世界というものはそういうレベルで考えることを許してくれない。誰もが同じレベルで思い考え話す状態が集団を作り世界を作る。だけど集まりすぎて「好きか嫌いか」のレベルでは扱いきれなくなり、判断の余地を「正しいか正しくないか」に託すことを余儀なくされる。「正しいか正しくないか」の判断基準はまだいい。純粋に正誤の二つだけで構成されるのであれば問題ない。「好き」にも「嫌い」にも頷ける二律背反の状態が、「正しい」と「正しくない」の二項対立へ状況が移されるだけだ。
問題は、その正しさに憎しみが加わることだ。
この研究所が救われている数少ない点は、電話以外の殆どがオフラインを保っている状態である。研究対象の自殺願望を外部から集めるためにだけ、オンライン設備は使われている。私達を含む研究員が、不意に自殺願望を持ってしまわないようにするためだ。そんな環境にいるものだから、私達は外からの憎しみや正しさを煽られることなく、一人の自殺願望者と向き合って話ができて、研究ができる。
これまで地球の裏側にいる人間の憎しみなんて知る由もなかった。それが常識だったのに、もうまるきり変わってしまった。言葉のわからないストレスを微弱ながらに感じ取り、怒号と悲鳴と轟音で更にストレスを貰い、そうしてボロボロになった末、憎しみの詳細を知る羽目になる。
その憎しみにしても、本来あったものが派閥によって分割され、それぞれ違う主義主張としてコンポーネント化されたあと、正義の膜でコーティングされた加工物でしかない。結局、その商品のどれを選ぶか、知る側が取捨選択を迫られる羽目になる。
たった今手にした情報も、正義のパッケージを取り払い、剥き出しになった加工済みの憎しみとして取り込まれ、それぞれの人間の中にある正義の糧となる。
正義と名のついた憎しみを恒常的に取り込み続ければ、人間もおかしくなるもので。
最初に話した死刑制度もそういうふうにしか見えてこなくなる。正義の名のもとに人を殺す。それが概念的な話であり、実際は、正義の皮を被った憎しみの塊が首吊りボタンを押すのである。
死にたがりの死刑囚がようやく一人死んだところだ。
加工されまくった憎しみのそれぞれの断片を継ぎ合わせても、もうもとの憎しみには戻らない。色が変わり、質が変わり、液体固体気体ですらなくなり、情報として取り込まれた後の話となり、出涸らしが地面を転がる。
+ + +
あいにく私は研究所の理念に一部反した行動を取っていることを、ここに告白しよう。どうせ私がいなくならなければこの告白も見ることはできない。この違反行為を告発できるとすれば、それは私だけだ。
ある死にたがりがいた。
死にたがりは死にたくてたまらないことを私に相談してきた。
「死刑になりたい」とも。
私は「人を殺しましたか」と訊いた。
死にたがりは「人を殺しました」と答えた。
理由を訊くと、死にたがりは更に答えた。
「殺されるために」と。
「自分で自分自身を殺そうとは考えなかったのか」と訊いたら、「自分の手が及ばない領域やタイミングで殺されたい」と。そして、「正義に殺されたい」と、確かにそう言った。
その言葉を聞いた時点で、私はこの人を救うべきではないと思ったのだ。
正義に殺されたい。それも明確な正義に。個人の正義など当てにならない。己の感覚と裁量次第でブレる正義などただの憎しみだ。だからその部分にだけ共感した。
自分自身が正義となり自分自身を罰する形で自殺することを嫌がる気持ちもわからなくはない。法こそがこの世界じゃ確固たる正義なわけで、底知れぬ規模の正義だ。
こんなこと、概念という概念そのものを扱うことに酔いしれる人間がいかにも言いそうな言葉ではあるが。
とにかく私はその時、「自分で死んでみてはどうです?」と言った。
矛盾が生じる。
私は死を咎める行為を正義とし、その正義を嫌っている。念のため言うが、死を咎める行為も私は嫌いだ。
私が今話しているこの人は、端的に言えば死にたがっている。だからいつもなら咎めない。咎めたのは、その行為が、私が嫌い憎む正義そのものを含んでいたからだ。
だが私は彼に別の死に方を勧めようとしている。それはまあ言わば、死ぬことを咎めようとしていることと同じ意味だ。少なくとも、一度死ぬと決めた人間には、大体そのように捉えられる。
私の思想にはどうやっても反する行為だ。
私が最も嫌う行為だ。
だが私はわからなくなっていたし、今でもわからないままだ。私の信条と今回のケースを照らし合わせ、一体どうするのが最適であったのか。答えが出ない。このまま死刑になることを勧めても、この死にたがりの考えを否定しても、いずれにせよ私は自分の信条に反する行為をすることになってしまう。
「私の話を聞いてましたか?」
「聞いています……これから私は、研究所としてではなく私個人としてあなたにお伝えさせていただきます。これはその上での提案です」
「どういう意味です?」
構わず続ける。
「あなたは人を殺した。それはもういいです。生き返ることはありませんからね。ですが、あなた一人が死ぬのならばまだしも、死ぬことを本意としない人々の気持ちを、当事者でないあなたの意志で捻じ曲げてしまうのは、倫理に反します」
「私に言わせれば、あなたがたの方が倫理を外れてるように思いますが」
「異論は認めます。ですがあまり意味はありません。これはあなたの問題です」
あまりここに書いても意味のない応酬がいくつか続いた。言いたいことは一貫していて、私たちの倫理が壊れていること、国に殺されてこそ意味があること、そして国に殺されてようやく正義が意味を持つこと、だいたいこの三つだった。
そういう感じのことをあれこれと言ったあと、電話は突然切れてしまった。
彼は最後まで、私の言葉を否定した。
犯行、逮捕、裁判、刑執行。この手順までかなりの月日が費やされるだろう。その場で警官が射殺していなければそうなる。正義というものはとにかく時間がかかる。証明にも実行にも。欠陥の一つだと思う。彼としては、いち早く殺されたかったのだろうけど、国に殺されるのが一番手間を要することは明白だ。回りくどい自殺じゃないか。
+ + +
私は私をこの世に産み落とした人間を許せない。
それと同時に、私の中で正義の名の下に死ぬ方法を模索していた。
+ + +
きっと。
正義に殺された人間と救われた人間がいて、救われた人間だけが生きて存在しているものだから、正義を嫌う人間がこんなにも少ないんだろう。
正義の本質は憎しみだ。正しさに憎しみが加わるも何も、そもそも正しさの材料は怒りであり憎しみだ。
地球の裏側にいる人間の憎しみなんてわかるわけがないのが常識だったのに、それもまるきり変わってしまった。
+ + +
正義面が一番嫌い。
正当化、正義感。正義はなんとも思わないが、正義に何か付け足されるのは嫌だ。
+ + +
例外がなぜ例外なのかを考える必要はある。
正義が嫌い、正義の名の下に人を殺す国が嫌い、その制度に甘えて自殺しようとする人間が憎い。
だけど。
どうにもならないことはある。
私は例外。
なぜ?
例を挙げて定義したのが私だから。
定義した人間がたった一人だった時、定義した人間は好き放題できる。自分の匙加減で例の中に入れたり出したりできる。例外はそうやって生まれる。
だから私は例外。
+ + +
研究員としての手記はこれで終わり。
私は国に殺してもらう。
正義の名の下に。
正しさを美しいとは思わない。
憎しみに満ちた正しさが美しいものか。
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