039『実験室:交渉』


「マヒト!」

 私は叫びながら部屋へと飛び込んだ。


「なんじゃ、騒がしいの」奥の方から小さな声が聞こえてきた。

 見るとビーカーに水を入れた病院服のマヒトが立っていた。

 ――ふう、良かった。どうやら連れ去られたのではないようだ。


「セイラは無事なのか」私は近づきながらマヒトに声を掛ける。

「鈴木殿もすでに目覚めておるぞ」そう言ってマヒトはビーカーを持ってセイラのベッドに近づき、セイラの被っているヘルメットのバイザーを跳ね上げた。「それ、少しずつじゃ……」

 そう言ってマヒトはセイラの口へビーカーの水をゆっくりと傾けた。

 僅かに喉を動かし水を飲むセイラ。


 ああ、セイラは動けないのだ……。――まあ、二十日以上寝たきりだったので無理は無いだろう。八十年以上寝たきりだったのに普通に歩いているマヒトの方が可笑しいのだ。

 取り敢えず二人の確保は出来た。お次は安全な場所に移動して救助を待てばいい。


 ――だが、セイラを動かすのは危険かもしれない。エコノミー症候群の例もある。このままベッドで移動して搬入用の大型エレベーターで外へ出よう。

 私はベッドの下に潜り込み取り付けられたケーブルのコネクターを外し始めた。


 その時……。


「ほら、言ったとおりだろ。起きてる。ちゃんと記録に合ったとおりだ」

 出入り口の扉の方からしゃがれたような声が響いた――。


 扉の方を見ると階段の上に二人の男が立っていた。

 一人はよれよれのスーツに白衣を着た五十代のメガネを掛けた学者風の痩せ男。もう一人は、筋肉でスーツがはち切れそうな三十代の厳つい顔の角刈り――石堂だ! 確か名前は石堂静樹いしどうしずき……。


「む、浅見か?」石堂がこちらを睨みつけて唸った。

「へ? 彼、誰?」白衣の眼鏡が問う。

「例のマヒトの夢に取り込まれた男です」

「ああ、彼……何故ここにいるの?」

「さあ、わかりません」

「あのマヒト君は、何とかいう術が使えるそうだから、その所為かな?」

「はあ……」石堂が気の無い返事を返す。

「ねえ、捕まえてよ」

「はい」


 どうやら、白衣の眼鏡は石堂の上司の様だ……。だとすると、奴がセイラの次のプロジェクトリーダーだろう。

 それにマヒトの名を知っている。――成る程、こいつが黒幕か……。


 石堂はこちらを警戒しながらゆっくりと近づいてきた。

 ――どうする? 戦いになっても先ず勝ち目はない。ウエイト差があり過ぎる……。なにもここで対立する必要はない。ここはあと少し時間さえ稼げれば……。


「なあ、石堂さんちょっと事情を説明してほしいのだが、何故私が捕まえられなければならないんだ」

「浅見、お前は何故ここに居る」そう言いながら石堂はこちらへゆっくりと向かって歩いて来る。

「それは……気が付いたら誰もいなかったからだ……」

「ふん、説明になって無いな」

「……いや、ほら最後に倒れたのここだったから、ここに来れば何か思い出すかと思ってさ」

「そうか、それなら捕らえてからゆっくり尋問しよう」両手の拳を構え石堂がさらに近づく。


 ――くそ! 時間稼ぎにならない! だったら……。

「あ、そう。だったら晴海埠頭冷蔵倉庫事件の話でもしようか……」

「何っ!」驚きのあまり石堂が立ち止まった。


 晴海埠頭冷蔵倉庫事件――約半年前、晴海埠頭にある冷蔵倉庫の段ボールの中から人の物と思われる五体分の遺体が発見された。

 段ボールのラベルの張り間違いで荷受業者が残して行ったものらしい。手足がバラバラに切断され、そして頭部と内臓が一部取り除かれていた。当初は臓器売買が疑われた。しかし、検死官の解剖の結果、移植目的にしてはあまりに雑な手術であると判明した。

 詳しい分析結果の末解ったのはその肉体が生前に何らかの化学物質に侵されている事だった。人体実験が疑われる……。

 その化学物質の分析がなされたが人体に入ると急速に分解が進む一種の生物毒と判明した。

 そこで急に浮上してきたのが第二次世界大戦中に同じく人体実験を繰り返していた関東軍防疫給水部本部:通称満州第七三一部隊だったのである。遺体の状況が彼らの行ったサンプルの採取マニュアルに酷似していたのだ……。


「浅見、何故、お前がその話を知っている……」

 物凄い形相で石堂が睨みつけて来る。

「さぁてね。何故だろうな……」

「お前、法務省保護局の人間では無いな」

「どうだろう……」


 確かに私の履歴書には前職は保護局更生保護振興課職員と記載されている。そしてデータ上はそこから給料が支払われ、在籍していた事にもなっている――。しかし……。


「どこまで知っている」

「交換条件だ。先ずはマヒトとセイラの身の安全を保障してもらいたい」

「こっちは捕えて拷問にかけてもいいだぞ」脅すような低い声を上げる石堂。

「さて、果たしてそんな悠長な時間が残されてるのかな……」ここで余裕の笑みを浮かべる。

「……」沈黙し思案する石堂。そして……「いいだろう」唸る様に声を上げた。

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