034『決戦:退却』


 私は銃を左手に瓶を右手に持ち、立ち上がった。

 そして、右手を大きく振りかぶり、落下時間を稼ぐため管理棟の上空に向けて瓶を放り投げた。大きな放物線を描きクルクルと飛んでいく四合瓶。

 すぐさま左手の三八式歩兵銃を右手に持ち替え、適当に管理棟二階を狙い引き金を引く。

 パン! 軽い発射音と同時に二階の窓が砕け散る。


「敵襲ー!!!」

 屋上から怒号の様な警告が響き渡る!

 銃を投げ捨て地面に這いつくばる。そのままごろごろ転がって木の幹の裏側に身を小さくして隠れた。


「敵襲ー、敵襲ー」管理棟の二階の方からも声が聞こえた。

 そして、タン! タン! タン! タン!…………。 規則正しい炸裂音と共に軽機関銃が火を噴いた!


 ――しまった! どうやら四合瓶は建物に届かず手前に落ちた様だ! これでは意味が無い!


 ビィーンと蜂の羽音のような音を立てて頭上を弾が通り過ぎていく。パスパスと軽い音を立て周囲の木の幹を弾が貫通していく。地面に当たった弾が砂塵を巻き上げ、木に当たった弾が木の葉を散らす。体の上に砂と木の葉が落ちて来る……。


 完全な奇襲だったのでこちらの位置は正確には判っていないだろうが、銃声の方向と遮蔽物の位置で凡そはバレているみたいだ。自分の周囲を重点的に狙われている。――怖い……自分が死ぬことは無いとわかっていても、本能的に手足がすくむ。


 さらに、軽機関銃の連射音に混じって二階の方から単発的な射撃音が混じり始めた。――ちきしょう! バカすか撃ちやがって!


 その時、軽機関銃の音が止んだ。弾切れか?

 私はすぐさま地面の瓶を拾い上げ、中腰のまま屋上へ向けて投げつけた。すぐに地面に伏せる。


 タン! タン! タン! タン!…………。また銃撃が始まった。今度はさらに正確にこの位置を狙っている。

 目の前の木の幹にパスパスと銃弾が当たっている。貫通した弾が嫌な音を立てて頭上すれすれを通り抜ける。


 ――まずい! このままではやられる!


 だが、そう思った次の瞬間、軽機関銃の銃声は止んだ。



「き、きい弾だー!」悲鳴が上がる。


 同時に二階からの単発の銃声も止んだ。

「きい弾? きい弾!!」「急げ装置を作動させろ!」「退却だ! 退却! 退却!」怒号と悲鳴が入り混じる。

 私はもう一本の瓶を掴み上げ屋上の方へと投げつけた。


「急げ! 急げ! 全員退却! 急げー!」叫び声が聞こえる。

 私は雑嚢袋に手を突っ込み、次の瓶を取り出し立ち上がった。

 もう、だれも撃っては来ない。そのまま山の斜面を駆け下りて管理棟の二階の窓の中へ瓶を投げ込んだ。


 きい弾――日本が極秘裏に開発をしていた化学兵器の一つで、びらん性のあるイペリットガスを弾頭に詰めた砲弾のことである。

 このガスにやられると、皮膚や呼吸器に激痛が走り爛れて動けなくなってしまう。彼等はこれらの化学兵器や生物兵器の人体実験をやっていた部隊なのである。だから彼等はこの兵器の恐ろしさを十分に知っている……。


 そして、このイペリットガス……またの名をマスタードガスと言い、精製時に含まれる不純物のお陰でマスタードの匂いがするガスなのだ。勿論、この村に原料となる二塩化硫黄やエチレンなどは無い……。


 使ったのは辛子レンコンに使われていた粉辛子(ジャパニーズマスタード)である。

 それを匂いが立つように徹底的に練り込んで、さらに匂いが拡散しやすい炭酸温泉の水で溶かした。それに加えて温泉の僅かな硫黄臭もついている。はたして、彼等は詳しく嗅ぐ事の出来ない毒ガスと、この暗い月明かりの元でそれを見分けることが出来るだろうか?


 ましてや、彼等の記憶ではつい昨日まで日中戦争の戦場で戦っていたのである。やられたと思ったら自分たちが過去に全滅させた村に帰ってきたのだ。だから彼等はマヒトを恐れている。何らかの超常の力でまた引き寄せられここに居る……。きっと何か罰が当たった……と。そんな心理状態の中で自分たちが行った、非人道的な実験と同じもの投げ込まれたらどうなるかである。


 管理棟の裏の扉が開かれ、男たちが飛び出していく。

 私は建物の陰からその音の方へと瓶を投げつけた。「ひぃ!」声にならない悲鳴が聞こえる。

 ドカドカと桟橋を走りボートに乗り込んだようだ。


「急げ! 急げ!……」

 ボートの櫂を漕ぐ音が次第に遠ざかっていく……。


 私は残りの瓶を取り出し、建物の周りや桟橋に向けた投げ捨てた。

 どうやら本当に全員で退却した様だ。物音一つ聞こえてこない。

 と言う事は、本当に爆破装置のタイマーは既に作動していると考えていいだろう。


 本来なら管理棟の中へ入りタイマーの時刻も確認したいのだが、彼等だってバカでは無いのだ、何らかの防護策をとっているだろう。それに、いくら人体に害は無いとわかっていても、こんな辛子臭い所に入りたくはない……。目に来る。


 ボートに乗り込むまでに十分。ダム湖を渡り切るのに二十分。上陸して安全地帯に移動するのに十分の計四十分が残り時間だろう。

 現在の時刻は十時五十五分。

 ダムの爆破は十一時三十五分に始まる……。


 ――急いで西の崖に戻らないといけない。

 私は歩兵銃と雑嚢袋を近くの茂みに投げ捨てた。


 ――さて……。

 手首を回して、足首もほぐす。



 On your mark! (位置について)


 Get set!(用意)


 Go!(ドン)


 私は一気に駆け出した。

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