012『笛の音:お祭り』


 何とか逢魔が時には宿に戻ることが出来た。逢魔が時……こんな所で魔物なぞには会いたくない。なんと縁起が悪い言葉だ。

 遅くなったことに心配していた宿の主人には、造り酒屋でつい話し込んでしまったと言い訳し、傘と合羽を返却した。


 夕食まで時間があるので先ずは温泉に浸かる事にした。勿論お土産にもらった酒瓶も一緒にである。

 雨に打たれながら露天風呂に浸かる。こっそりと持ち込んだ酒瓶も手桶に入れて浮かべて置く。


 セイラとの会話からアマヌシャの行動原理が何となく推測できたのは収穫だ。

 あれに神社に居た時にピンポイントで襲われたと言うのなら、あれを使っているのは多分マヒト様。そして、恐らく番犬の様な使い方をしていると思われる。なので、無暗に近づいたり、ばったり出くわしたりしなければ問題は無いだろう。中立であるここでのんびりしている分には襲い掛かってくることは無いと思われる……多分。――宿の主人も心配してないようだし、いつまでも怯えていても仕方がない……。


 手桶を引き寄せて酒瓶の栓を抜き、食堂から持ってきた湯のみに注ぐ。僅かに白濁した液体、むせ返る程芳醇な甘い香り……。

「こ、これは……」香りを楽しみながら僅かに口へと含む。古酒の生酒……熟成生酒である。まろやかにたおやかに、なのにすっきりとした酒精、甘みのある余韻……。水の硬度が高い所為だろう、広島のお酒と違いやや辛口だが、うまく甘みを残している。これはこれでうまいのだから、そのまま売ってしまえば良いのに……。そのままクイッと湯のみを煽った。


 喉を湿らせる程度でやめ、残りは明日に取って置く。

 湯船に浮かび、雨風に揺れる湯気を眺めながらぼんやりと考える……。

 セイラが言っていた事を思い出してみる。

 彼女はここをマヒト様が作った夢の世界と言っていた……。それは恐らく、シグナスと言う機械を使いここへやって来た研究者としての見解なのだろう。

 だが、何の予備知識も無くここへ来て、答えを探し回った私の感想はだいぶ違う。


 〝ここは多分、夢や記憶と言った単純なものでは無い〟 だろう……。


 いや、セイラ自身もここは随分異質と言っていた。気は付いているが同僚の死を目の当たりにした彼女は冷静な判断を欠いているのかもしれない……それとも、まだ何か私に隠している?

 取り敢えず、それを確かめる為にも私はマヒト様に会わなければいけない。


 僅かな酔いが心地よい……。温かくなった体の血液が全身を駆け巡る。天から降り注ぐ雨粒がランダムなリズムを奏でジャズのセッションを思い起こさせる。私は湯船から上がり近くの岩に腰かけた。

 ――ちょっと、のぼせた……。


 少し休憩した後、衣服を全て手桶で洗い浴衣に着替える。

 ――それにしても、帰り際に聞いた、あの笛の音が気になるな……。後で少し調べてみるか……。


 部屋に戻り、布団を敷いて横になる。疲れと酔いで次第に意識が遠のき始める。

 ウトウトとし始めたころ十吾さんが夕食を運んできた。


 いつもは忙しそうな十吾さんに気を使ってこちらからは話しかけないのだが、明日になると記憶がリセットされてしまうので、あの酒蔵の事を聞いてみた。十吾さんが重そうに口を開く。


 約十年前、丁度ダムの建設が始まり、軍人たちが頻繁に出入りし始めた頃、急にあそこにあの酒蔵は建てられたそうだ。何でも軍用酒専用の造り酒屋と言う事で、村にも緘口令が敷かれ、当初は軍の人間が常駐してたそうである。

 だが、二年ほど前から軍人の出入りはぱったりと止み、今では仕込みの時期だけ、広島から杜氏の人達がやって来て、帰って行くようになったそうだ。

 ――おや? 想像していたのと少し違う……。三つも大きな蔵を構えているのだからもっと大々的に生産してるのかと思ったがそこまでの規模では無い様だ。今は管理人の桧垣さん一人しかいないみたいだし……。どう言う事だろう。


 十吾さんは振り子時計のゼンマイを巻き出て行った。


 私は食事を終え食器を下げて宿の裏手に出る。外はもう真っ暗になっていた。

 離れに行くため用の番傘を一つ借り、裏口から外へ出て、宿の正面にこっそりと周った。

 この周囲は森に囲まれ宿以外には明かりが無い、白ぽい雨雲が物の輪郭を僅かに浮かび上がられている程度である。


 ――これは、夜に本格的に移動するなら何か明かりが必要になるな……。

 降りしきる雨の中、私は注意深くおぼつかない足元を見て一歩ずつ前に進んだ。そして、ゆっくりと坂を上り渓谷の上へ出た。


 ――ここからなら村が一望できる。

 視線を上げる、そして振り返る……。


 神社には煌々と明かりが灯っていた。

 真っ暗な森、降りしきる雨。

 その中でぽっかりと浮かび上がる泡嶋神社。

 本殿は明るく電気で照らされ、境内の石灯篭にも全て明かりが灯され揺らめいている。

 本殿の障子や襖は開かれていて多くの人間が出入りしているのが見て取れる。


「……」私は思わず唖然とした。


 ――泡嶋神社では今、加持祈祷が行われていると聞いていたが……多分これは違う、恐らくアレは……そう、〝お祭り〟 だ……。

 先程、聞こえた笛の音は祭囃子の音だったのだ。


 村人は夜ごと神社に集まり笛を吹き太鼓を叩き祭囃子を掻き鳴らす……。

 この村では、その光景が永遠と続けられてきたのだ……。八十年以上も繰り返し……。


 ――これは、マヒト様に聞かなくてはいけない事が増えたな……ん?

 さらに目を凝らすと本殿の後ろの階段の石灯篭にも明かりが灯り、それが、向こう側の崖の中腹まで続いている。

 そう言えば昼に見たときは確かあそこには、社が立っていたな……。成る程、マヒト様はあそこに居るのだな……。


「あっ……」その時、思わず声を漏らした。

 吊り橋の向こう側、商店の前に設置された電球の明かりに何やら動く物が見える。いや、あの大きさはアマヌシャで間違いないだろう。――まあ、優秀な番犬がいるのなら、警備が手薄になる夜に使うよな……。


 確認を終えた私は、来た道を急いで引返し、冷えた身体をもう一度温泉に浸かり温め直した。

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