第42話

 マルに顔を舐められて諦める事から俺の朝は始まる。

 諦めて、されるがままになっていると鼻の穴まで舐められてしまい、耐え切れずに思いっきりくしゃみをするとマルは驚き、弾けたみたいに後ろに跳躍すると、着地をフローリングの床で足を滑らせて転倒した。

「くぅ~ん」

 恥ずかしそうに床に顎をつけて上目遣いで鼻を鳴らすが、元はと言えば全てマルのせいである……あるのだが、つい可愛くて「よしよし」と言いながら撫でてしまう自分は駄目な飼い主なのだろう。


「おはよう」

 台所に立つ母さんに声を掛けて、洗面台のある脱衣所へと向かう。

「おはよう隆」

 こちらを振り返り笑顔で挨拶を返してくれた。

「あら、マルガリータちゃんはご機嫌ね。今朝は珍しく私が起きてきても寝てたのに」

 ……ごめんなさい、多分それは俺のせいです。それにしてもマルは【催眠】を受けて五時間くらい寝ていたわけか、犬と人間の差はあるにしても成人男性でも一時間や二時間は眠らせる事が出来そうだ。


 洗面台で顔を洗う。髪の生え際の当たりも舐められていたのでしっかりと洗う。

 ちなみに俺の髪型は左右と後ろを軽く刈り上げて、他は三センチメートル程度の長さに刈り込むのだが、前回の散髪からそろそろ一ヵ月になるので五センチメートル位といったところなので、そろそろ散髪に行く必要がある。

 ちなみに散髪に月一で散髪に行く事は大島も認めている……というか髪を長くすると殴られる。

 その為、散髪に行くのに練習を抜ける事は許されているのである。


 短髪なので普通の中学生の様に整髪料などでヘアスタイルを整えるとか気を使う事はしていない。

 だから、洗顔の後タオルで髪の水気を拭い手櫛で整えて終了だ。

 まだ小学生の頃の方がお洒落に気を使ってたよな。当時は女の子達にもそこそこモテたもんな~……思い出に浸れば浸るほど空しく、今の自分の身の上に悲しくなる。



「おはよう」

 早目に家を出て走った事で、かなり早く部室に入ると既に紫村が居た。

「おはよう高城君」

 挨拶を終え、おれは改めて周辺マップで周囲に人や盗聴器などが無い事を確認する……オールクリア。

「教頭の動機は、調べてくれた通りに息子がストーカー行為で北條先生に通報されたのが原因で自殺した事への逆恨みだった」

「役に立てなかったみたいで悪かったよ」

 すまなそうに頭を下げてきた。

「いや、むしろアレだけの情報を短時間に調べ上げたお前が怖いくらいだ……それで教頭は鈴中が生徒と不適切な交際をしている事をネタに脅迫したが、鈴中が教え子をレイプして、それをネタに脅迫していた事は知らなかったみたいだ」

「そうなんだ……でも鈴中の被害者の事を考えれば教頭も許されるべきではないよ」

「ああ、学校を退職して退職金と家や土地を売った金を被害者に渡すように頼まれた」

「それで教頭本人はどうするつもりだと言うんだい?」

「死ぬ気だな」

「そう……か……」

 紫村も教頭の選択を無責任と詰る事はしなかった。教頭には他に責任を取る方法は無い事と彼も思ったのだろう。


「息子の事さえ無ければ、悪い人間ではなかったのかもしれない。この学校に転任してきた時、北條先生が新任教師としてこの学校に赴任して来るなんて偶然が起こらなければ、怒りを胸底に沈めたまま生きていけたかもしれない。だが結果は聞いての通りだ……俺達も教訓として胸に刻んでおくべきだろう」

「そうだね……」

「しかし面倒なのは金をどうやって渡すかだ。個人を特定しないとならない。被害者が全てこの学校の卒業生だと良いんだが、他校の生徒だった場合はなぁ~」

「それじゃあ鈴中の前の赴任先の学校で鈴中が居た期間の卒業アルバムのデータを集めておくよ」

 ……軽く言いやがった。


「どうやってとは聞かないが、聞かないけど聞きたくなるよ。怖い奴だな」

「君が鈴中の部屋をどうやって『掃除』したのか教えてくれたら僕も教えるよ」

「じゃあ、聞かない」

「それがお互いのためだね」

 そう言って、爽やかでありながら艶っぽい笑みを浮かべる。本気でこいつに狙われたら転んでしまいそうだという危機感すら覚える。何せ一瞬見惚れてしまったのだ。ヤバイ! ヤバイったらヤバイ! 大丈夫なんだろうな俺。


「集合だ!」

 不機嫌な大島の声が格技場内に響き渡る。昨晩俺を徹夜で見張っていたのだろう目も赤い。その目が俺を睨む……が華麗にスルー。

 俺の態度に大島の右の眉が上に跳ね上がる。

 大島の身体から立ち上る怒気に飲まれ一年生達は身体を震わせ立っているのも辛そうだ。二年生達は身体を揺らしながらもしっかりと立ち……竦んでるねこれは。


 無理も無い。大島の怒りのオーラで背後にある格技場の壁が歪んで見えるくらいだった……勿論幻覚だ。部員全員で見た同じ幻覚に違いない。


 三年生ともなれば顔を強張らせながらも、何とかしろと言わんばかりに肘で俺の脇腹を突く櫛木田の様に多少の余裕はある。

「……ふん、ランニングに出るぞ」

 鼻を鳴らしながら俺を一瞥し格技場を出て行った。

「主将。今のは一体?」

 三年生達は今回の北條先生の件に関して大島が俺に見張りまでつけていた事を知っているので察しがついたのだが、下級生達には大島の態度が何を意味するのか全く分かっていないので不安なんだろう……だがその不安は正しい。

「さあ? 女性の気分と同じで、奴が不機嫌になる理由など俺には理解出来ないな」

 そう誤魔化したものの、不機嫌な大島に今日の朝練は荒れるのは必然だろう。



 結局、ランニング中に一年生全員が倒れ、二年生も香籐を除く六人が倒れる大惨事となり、俺達三年生と香籐は倒れた奴らの回収を二回に分けて行う事になり、練習はそれだけで終わってしまった。


「流石に十二体もマグロが並ぶと壮絶だな」

 水浴びを済ませて出て来ても、まだ倒れている一年生と二年生達を見て田村が感想を漏らす。

「お前、昨日大島に何をしたんだ?」

「奴が張り付けた見張りや尾行をかわして完璧に出し抜いてやった。奴からしたらコケにされたと怒り狂ってるんじゃない?」

 その出し抜かれた奴らの中に大島が居た事は内緒だ。


「そ、そんな恐ろしい事を」

「…………俺、転校しようかな」

「どうにかならないのか?」

「しゅ、主将謝りましょうよ。お願いします!」

 何時もの3人組と香籐が、自分達に迫る大島の理不尽を思いうろたえる。


「高城君の判断は正しいと思うよ。事の真相は大島先生が興味半分で手を出して良い問題じゃない。勝手に怒らせておけば良いさ」

 紫村が冷たくきっぱりと言い切った。俺が大島から隠そうとする真相を知ってる彼としては大島の興味本位な姿勢は許せるものではないのだろう。

「しかしな紫村──」

「櫛木田君。高城君は人として大切な事を守るために大島先生を敵に回した。彼自身のためではなく他者の名誉と尊厳のためにだよ」

「……それは大島を敵に回すに値する事なんだろうな」

 いきなり櫛木田の目付きが変わった。何と言うか男の顔になっている。


「当然だよ」

「分かった。元々奴を味方だ何て思ったことは一度も無い。潜在的な敵だ。そして潜在的だろうが敵は敵──」

「誰が敵だって?」

 皆が振り返るとそこには大島が居た。俺は周辺マップで大島が戻ってくるのを確認してはいたのだが、覚悟を決めた櫛木田が男前な雰囲気を醸し出していて止めるタイミングが掴めなかったのだ。


「何でもありません!」

 しなびた大根の様な顔になってしまった櫛木田は声を裏返して答える……おい。

「さっさとこのマグロどもを片付けたら飯食って教室に行け!」

「ひぃ、はい!」

 三年生だけでなく香籐が櫛木田を見る目までが冷たい……一瞬で、ここまで己の株を下げた奴を見たのは初めてな気がする。



 北條先生は少しだけ昨日よりも明るい顔をしている気がする。

 彼女が表情が明るければクラスの雰囲気も明るくなる。美人の明るい表情にはそれだけの力があるって事だろう。

 今まではそれが逆に働いていただけだ。美人の張り詰めた緊張感のある顔は怖い……俺にとってはそれも十分にご馳走なのだが。

 これから少しずつでもクラスの雰囲気が良くなっていき、北條先生も笑顔で生徒達と話し合えるようになれれば良い。

 そんな風に思いながらも、心の何処かで北條先生が自分達だけの先生じゃなくなるように感じている。

 自分の心の狭さが嫌になる。これじゃストーカーとなった教頭の息子の事をどうこう言える立場じゃないな。

 そう反省するものの、前田が「やっぱり北條先生って美人だよな」などと今更当たり前な事を鼻の下を伸ばしながら抜かすとイラっとするのは止められなかった。


 美術の時間。

 先週に引き続き静物画のデッサンだが、俺は先週の段階で仕上げてしまっていたので、もう一枚描くようにいわれた……二枚も描くんだから評価を上げろよ。

 この二週間で完全記憶を瞬間記憶というべきレベルまでに引き上げてしまった俺はイーゼルに備え付けられた画板の上の画用紙の上に、目で見た光景を全く同じく再現できるので、後はそれを木炭でなぞっていくだけの簡単な作業で、そこには美術だ芸術だというあやふやなものは一切含まれていない。

 彫刻なんてやらせたら、3Dプリンターに負けない精密さで対象の立体彫像を作り上げる事も出来るだろう。しかも3Dプリンターよりも圧倒的に速く。


「何だろう……何が足りないのだろう?」

 五分も掛からずに描き上げた俺のデッサン画を前にして美術教師が頭を掻き毟る。

「何かが足りない。構図に問題が……いや沢山の生徒が一つの対象を描くんだから構図云々を言える状況じゃない……ただ正確なだけで絵に何の足し算も引き算も無い。目に映るものをそのままに描き写すだけで、一体本人が見た物の何を描きたいと思ったのかが少しも見えてこない……もしかして足りないのは人間として大事な何か?」

 とんでもない事を言い始めやがった。本人は聞こえないように小さく呟いているつもりなのだろうが俺にはまる聞こえだ。

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