17 日陰が潜む迷宮区

 アルバの建物は随分と縦に高く、密集している。そのため大通りから外れると途端に道が狭くなり、白い壁に光は反射するものの太陽光そのものは地上まで届かず、ぼやりとした薄暗さを感じさせた。

 上を向けば青空。左右に建つ純白の家々の隙間から窺える空は水廊のように澄んでいる。大通りの絢爛豪華な輝きも素晴らしいが、セスはこちらの静謐さを孕む景色のほうが好みだった。


「わあ……!」


 四つ葉を探し当てた子供の表情で、セスは再び足を前に出す。

 じゃりっと小石を踏んだ感覚。それすらどこか面白い。

 前方ではなく頭上に目線を突き刺したまま、地図にも表記されていない裏道をセスは陽気に進んだ。それこそ高揚感にすら抱かれながら、なにも考えずに好奇心のみに突き動かされる。が、唐突に腕を掴まれた。


「やっと見つけた!」


 振り向いたセスの顔に甘い香りがぶつかる。

 後ろからセスの腕を掴んで引き止めたのはロゼルだった。


「……どうしました?」

「どうしましたって……。一人で動いたら迷うわよ」

「一人、で? ……誰がですか?」

「嘘でしょう」


 ロゼルは絶句した。

 信じられないものを目の当たりにした様子で頬を攣らせる。セスが魔女であると暴露した時以上に驚愕している。

 セスは首を捻った。優艶な極彩に夢中だったセスは、彼の言葉を聞いても、態度を見ても、ロゼルが先程まで自分の側にいなかったことを――自分が好奇心に手を引かれていて勝手にロゼルの側から離れたことを理解しない。


「ベアトリーチェのお土産を買っている間にいなくなっちゃうんだもの……」


 ロゼルは頭痛に堪えるような表情で、ゆっくりと正方形の箱を持ち上げた。薄水色の箱の表面には、大きな羽のついた婦人帽を被る女性の横顔が描かれている。

 先程、ベアトリーチェになにを買っていくかと相談し合った二人は、ロゼルの提案で彼の甘党の妹がよく通っているケーキ店の品を持って行こうと決めた。王都アルバに住む者ならば誰でも知っている有名店ミセスクロッケーは、一品の値段がそれなりであるために特に貴族や上級市民に人気のある店らしい。だからこそ一般市民はお祝い事や特別な相手に買っていくとか。


 下手に奇をてらそうとして失敗するよりも、ここならば間違いがないとロゼルに推され、セスは承諾した。余談だが、セスは土産に西都ダマスクの錬金技術を駆使した金よりも固い角砂糖を提案したが却下された。

 王都アルバは東都ガリカと南都モスに挟まれている都のため両都からは勿論、そこの飛空港を利用して西都ダマスクや他大陸からも人や物資が豊富に流れてくる豊かな都だ。


「危ないわ。戻りましょう」

「どういう意味です?」

「ここらの裏通りは迷宮区って呼ばれていて、アルバ市民でも滅多に入ってこないの。入り組んでて……下手に動き回ったら、いつ出られるか分からないわよ?」


 ロゼルは「それに、いるのは表に出られない輩ばかりだし……」と付け加えた。

 確かに周りの風景は一変している。左右の壁や建物が白を基調としているのは変わらないが酷く汚れ、亀裂も入っている。足元に輝いていた極彩色の揺らめきは失われ、ヒビの刻まれた石畳が冷たく広がっていた。

 蕭然と細道を抜けた風は季節に相応しい温度でセスの肌を刺す。

 あからさまに世界は変わっていた。裏側の世界だとすぐに勘付く。煌びやかで美しい都だとは思ったが、眩しいからこそ陰も一層深いだろうことは察せる。


「迷宮区に入る前に見つけて呼び止めたんだけど、上を向いててまったく気付いていなかったわね」

「いつ呼びました? というか、その言い方……さっきからまるで側にいなかったような口振りですね……」

「だから、勝手にいなくなっていたのよ」

「誰が?」

「キミが!」


 ロゼルが声を張ったと同時。

 セスは手の中で杖を持ち直すと、尖った杖の先端を勢い良くロゼルへと突き出した。

 ヒュッ、と空を切る音。次いで「ぅが!」と野太い悲鳴が上がった。

 ロゼルの顔の真横を通過した杖が容赦なく第三者の額を鋭く叩いた。


「!」


 ロゼルが慌てて身体の向きを変え、セスはロゼルを庇うように前に出る。

 筋肉質の男が太い指を持つぶ厚い手で額を押さえながら呻く。

 背後からロゼルに迫っていたみすぼらしい格好をした男のこめかみを突いた瑠璃の杖を、セスは華麗に回した。


「知り合い……ではないですよね」

「そうだと言ったら、どうするつもりだったの?」

「謝ります」

「なら、謝らなくて良いわ。ありがとう」

「良かったです」


 セスは左手を器用に動かし、杖の持ち手の握り方を変える。地面につくほうを上に向け、杖を剣のように構えた。片足を半歩引きながら身体の重心と踏み込む足を意識する。

 呻いていた男が額を押さえたまま彫りの深い顔を上げた。飢えた獣のような濁った目がセスとロゼルを睨んだ。

 セスも前髪の間から相手を静かに睨み返す。と、ロゼルがセスの肩を掴んで、するりと後ろに下がった。


「……?」


 セスは身体の正面と杖を男に向けたまま、ロゼルを目だけで追い――――そちらを完全に意識するよりも先に、真紅が大きくはためいた。

 甘い香りが舞う。

 濁った声と乾いた打撃音。

 ロゼルの長い右足が、今度はセスの背後から近付いてきていた細身の男の横っ面を蹴りつけた。


 空を切る音は心地良く、それが軸のしっかりととれた、けして軽くはない一撃だと容易に判断できた。

 軸足となっていた左足の底がガリッと一瞬きつく鳴く。

 ぶれのない上半身から力が抜かれ、膝の柔軟性を丁寧に使いながら自分に掛かる負荷を分散させつつ、ロゼルは右足をおさめた。

 ロングコートの裾を摘み、まるで一曲踊り終わった淑女の仕草で舞った裾をふわりとまとめる。


「…………」


 ロゼルの放った足技の音は、足癖が悪かった師匠のそれと似ていた。

 あまりにも似すぎていてセスはそっと後退し、身体を横向きにズラしてロゼルの姿を――もとい前後を確認できるよう移動した。


「…………」


 セスの側にいるのは青ではなく、赤。

 当たり前なのだが、セスは大きく胸を撫で下ろした。

 横目で吹き飛ばされた細身の男を窺う。その側にもう一人、色黒の男がいた。

 筋肉質の男に集中させ、後ろから音もなく二人掛かりで襲う気だったのだろう。

 しかも倒れた男の側にはナイフが転がっており、色黒の男も懐からナイフを取り出した。

 アルバ硝子とは異なる乱暴な輝きが、薄暗い迷宮区の細道で嫌らしく笑う。


「意外と、動けるんですね……」

「あくまで自衛程度だけれどね」

「それにしては、様になってますよ」

「本当に? ありがとう。父が元は警備組合に所属していたの。それで少し。けど、さすがに刃物はこわいわ」

「自分も、取っ組み合いはきらいです。もし杖が折れたら……師匠に、殺されます」


 セスとロゼルは顔を見合わせ――互いに片足を引くとセスは踵を軸に、ロゼルは爪先を軸に反転した。

 二人は瞬時に向く方向を交換して、背中合わせになる。

 セスは杖を使ってナイフを振りかぶってきた男の手からそれを勢い良く弾いた。上を向いた杖の軌道を瞬時に変え、踏み込んだ前足にかかった体重を移動させると、今度は男の横っ面を杖で思い切り殴りつける。


 ロゼルは殴りかかってきた男の股間を容赦なく蹴り上げた。

 男は声にならない悲鳴を上げ、目の焦点を歪ませる。強く握られていた拳が解け、男は悶絶しながら崩れ落ちた。

 男の呼吸音はひいひいとおかしくなり、丸められた背中は痙攣している。


「……うっわあ……」


 振り返ったセスは縮こまる男の哀れな姿に片眉を歪ませた。

 しかしすぐに注意を前に戻す。

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