EVE

第一話:「夜霧に揺蕩うケルベロス(1)」

ある少女が、私に言った言葉がある。


それが暗殺対象の家族だったのか、あるいは道端で出会ったしがない一期一会の一つだったのかは定かではないが、その出来事はよく覚えている。


彼女はチェリー味の飴を私にくれようとしたが、私が赤色は好きだがチェリーフレーバーは嫌いなんだという旨を伝えると、彼女は年端の行かぬ子供特有の感情の見えない、まるで私の素性、様々な事情や異常まで全て見透かしているような顔で言った、「チェリーが嫌いな人がいる訳ないじゃない。」と。


私はその一言がいまだに忘れられない。


始めに断っておくが、決して私の主張を否定された事に憤慨している訳ではないし、チェリーと言う物に心に残るような思い出があるわけでもない。


少女が何気なく口にした、いる訳がない。と言う言葉、ひいてはその言葉を発言するに至った思考そのものが最早人の本質を体現しているのではないかと思ったからだ。



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例えばある人間が何かに対して「な訳がない」と思う。


それは否定でも肯定の意味でもどちらでも構わないが、やがてその考えに賛同するものが現れる。俺もそんな訳がないと思ってたんだ、と。


そうしている内にまた賛同者が現れる。しかし、その者は前者のように純粋にその考えを支持している訳ではない。


ただ面白がっているか、自分の不満や怒りの捌け口をその考えに賛同する事で発散できるのではと考えている。


そして、もう一人、また一人、と賛同者は増えていく。


先ほどの二つのパターンに加え、友人や恋人が賛同しているからと言う理由の者、多くの人間が賛同しているから自分もしたほうがいいのではと言う理由の者など。


その共感の波はやがて徐々に肥大化して行き、ある者の一つの「な訳がない」という考えは、大衆を扇動する一つの思想になる。


後は様々な歴史が語るように、その思想は様々な物を生み出し、破壊し、この世界に跡を残す。


「な訳がない」と言う言葉は、人の行動理念そのものと言える。


人は誰しも「な訳がない」と言う思考の柱に支えられ生きていて、それを守る為に集い、争う。


私達暗殺者にもそれは共通している。依頼人は、正に自分達の「な訳がない」を守る為に我々を頼る。


それを汲み取り、どれだけ尊重できるかがこの仕事の全てと言ってもいい。


暗殺者とは対象にとっては正に死の手先でしかないが、依頼人にとってはその日常を護るこの上ない守護者なのだ。


もう一度言うが、この考えを齎してくれた少女との出来事を私は生涯忘れないだろう。


何事においても、子供とは伝える力こそ少ないが、目は常に物事の本質を覗いている。実に素晴らしい。



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私は馴染みのティーサロンへ向かう為、早朝のグロウサイドを散歩がてら歩いていた。


普段であれば歩いて向かいはしないのだが、たまにはこういう日があっても良いと感じる。


特に私は散歩に限らず、有意義な無駄がこの上なく好きだ。


退屈なほど精密に整えられた歩道を進み、目覚めたばかりでまだ全力を出し切れていない太陽が作る夕焼けのような美しい空を眺める内、私のネストに次ぐ第二の故郷といっても過言ではない、現代の数学的な建築物の中では異様な、前近代的な外装の高級サロン「オルカ」に辿り着く。



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木製の厳格ながら気品を感じさせる扉についたドアノッカーを数回叩く。


このドアノッカーが模している、海老反りの不細工な魚の様な生物は、いまだに何の動物なのか把握できない。


扉に付いている巧妙に隠された小型カメラのレンズを覗き込む。


少しの間を置いて電子錠の外れる機械的な音が鳴ると、厳かにドアが開かれる。


中に入り、地下への階段を下りると、この美しくも古めかしい建物が驚くほど良く似合う、このサロンの経営者でもあるマダム・アラエナがカウンターからとびきりの笑顔で出迎えてくれる。



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「まあ!嬉しい顔ね!」彼女はこれ以上ないという程紅い口紅が塗られた盛った蛞蝓の様な唇を歪ませる。


裏で暗殺屋の集会場を運営していた夫に先立たれた彼女は、突如右も左も分らぬ状態でこのサロンの経営を引き継いだが、気丈に頑張り続けた結果、現在もここは様々な暗殺者が集う憩いの場となっている。


私はその事に最大限の敬意を表しながら、やあ、と挨拶する。


「今日は誰なの?」細めた目から無数のしわが顔中に現れる。


「判らないかい?エドガーだよ。」私は被っていた帽子を取ると恭しく大げさに礼をする。


「まあ!エドガーだったのね、貴方達皆お顔が似てるから判らなかったわ。」それは冗談のつもりだろうか、私は取り合えず微笑みを返す。


「プリンシバルは元気かい?」プリンシバルは彼女が亡き夫と一緒に飼っていた、アヒルの羽を生やした人工獣(キメラ)の猫の名だ。


その名を聞いた途端彼女はただでさえ大きな瞳をより一層見開き、凍り付いたかの様に固まると、先程の笑顔が嘘の様に暗い声を落とす。その猫が最近亡くなってしまったという事らしい。


「遺体は?」私は同情の念を表情で表して見せた後、尋ねる。


「剥製にしたの、だからいまでも一緒よ。」彼女はそういって微笑むが、夫亡き後、唯一の家族だった猫を亡くした事の悲しみは暫く癒えはないだろう事は想像に難くない。


「そうかい。じゃあ、僕の分まで彼の額にキスしてあげてくれ。」じゃあ、と私はマダムに上着を手渡し、ここで待ち合わせた依頼主を探そうとする。


「今日は何か冗談を聞かせてくれないの?」奥へ向かう私に彼女が問いかける。彼女は私のジョークがお気に入りのようで、最近は会うたびこう言ってくれる。


「ジョークならこの前も聞かせたじゃないか。マダム、愉快とは非日常であるから愉快なんだ。分かるかい?だからピエロはいつも泣いているのさ。」私は言いながらカウンターを数回指で叩くと、奥のアーチを抜け、静かながらも賑わう、スイーツや豪華な家具で溢れた部屋を見渡す。



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短い赤毛に若葉の様な緑の瞳の若者、という私が聞いた依頼人の特徴に見事に合致する人物が、奥の席に落ち着かない様子で腰掛けているのを見つけ、そこへ向かう。彼は、正面から向かってくる私に最初は気づいていなかったものの、私がこちらに近づいているのを悟ると、こちらを窺いながらより一層そわそわとし出す。


「やあ、君が依頼人?」私が席の前に立ちそう言うと、彼は慌てて立ち上がり挨拶しようとするので、それを軽く手で制しながら私も椅子に腰かける。依頼人と丁度向かい合う形になる。


「あ、貴方がエヴァさんですか?」彼は、疑うのが失礼と思いながらそれが隠せない様子で恐る恐る訪ねてくる。


しかし彼に限った話ではなく、私と初めて会う、厳密にいえば私と友好的に日常会話ができる立場の初めて会う人間は、皆同じような疑問を私にぶつけてくる。


女かと思った、と。


現に私がその様な類の事を尋ねると、彼はおずおずと首を縦に振り肯定する。


「エヴァと言うのは私の名前ではないんだ。コードネーム、もといチーム名みたいな物でね、三人の頭文字を合わせてエヴァ(EVE)、と誰かが呼び始めたんだ。」私は足を組みながら彼に説明する。


じゃあ貴方は?と彼が聞いてくるので、宣誓する様に片手を軽く挙げ、簡単に自分はエドガーだと自己紹介する。


実際、その説明は事実とは若干ディテールの異なる説明なのだが、ややこしくなるので、リピート性のなさそうな客にはあまり多くは語らない。


「それで、まずはここの朝のお勧めを教えようか?」冗談のつもりだったのだが、彼はその言葉を余計な質問をするなと言う皮肉に捉えたのか、小さく謝ると静かに依頼の話を始める。


私は、こういう弱気な印象の人間はアーネストは嫌いだろうな、と思いながら話を聞く。

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