第48話
「おはよう、いや、こんばんはと言った方が正しいのかな。閑谷圭君。」
顔に十字の傷がある、如何にも「生きてきた」証をありありと見せている老人が俺に言う。
黒を基調としたスーツで、首元は若干緩められている。さながら極道の世界に生きているような老人であった。俺はそもそも身動きが取れていない状況でありながら、委縮する。
「あ・・・」
何か言葉を返さないといけないと思った。無視してると思われるのはごめんだった。
「ああ気にしないで。イエスの時は首を縦に、ノーなら横に。どうだい、簡単だろう?」
俺が返事をしようとするのを首を振って止めた。なんだかその後の言葉は幼児をあやしているように聞こえて少しムッとしたが、そんな素振りはおくびも見せなかった。
第一、怖いしね。
俺が寝転ぶベッドの横に備え付けられているソファのような柔らかな椅子に腰を掛ける老人。手にはコーヒーカップが握られている。ほんのりと漂う香りからも察するにコーヒーなのだろう。紅茶かもしれないが、ティーカップかもしれないが。まあそんなことはこの際どうでもよかった。
些細なことなどどうでもよいと結論付けてしまうほどに、この老人から放たれる強烈なオーラに俺は釘付けになっていた。
顔に十字の傷がある人間なんて、ドラマや映画の世界でしか見たことが無い。くっきりと、皮膚の再生が他とずれているのが分かる。痛々しくもないが、見ていて気持ちの良いものでもなかった。
老人は俺に答え方を教えた後、すぐに俺に話しかけるでもなく、ひとまずコーヒーを啜り切ろうという様子だった。俺の視線に気づくと、愛想のよい笑みを返して、またコーヒーを啜る。
なぜコーヒーを先に啜ってから来ないんだ、と俺は焦らされている感覚に陥った。
長濱先生とシオンは奥の方に消えてしまって声すら聞こえてこない。防音がしっかりしているのかもしれないが、それだけで俺の心は若干曇りがかるのだ。ギャル橿原の悲しむ顔がちらつくし、そもそもこの現実がまたも夢の可能性だって捨てきれたわけじゃないんだから。
俺は元の世界に戻った時、それを元の世界だと認識できるのか、ふと不安になった。いわゆる錯覚というか、混乱というか、気が狂ってもおかしくはないだろう。
当の俺が一番困惑して、混乱しているのだから。
その困惑も混乱も、相手取っている時間がないだけだ。
目の前の老人が、コーヒーを啜っているよくわからない老人が、俺の幻想だとか妄想だとか言っていられる余裕がないだけなのだ。
余裕があったら唇を強く噛んで、夢から覚めるためにありとあらゆることに尽力している。俺はこんな夢見ていたいとは思わないからな。
「ふむ、さて何から話せば良いものかな。」
俺が老人にツッコみを入れ終わったころ、どうやらコーヒーも飲み切ったらしく老人が俺の方にしゃべりかけてくる。
まだイエスもノーも返すタイミングではないが。
「とりあえず。自己紹介をした方が良いかもしれないね。」
多分ここも、頷く場面ではない。頷いたらなんか偉そうなやつになってしまう。
「私はゼッカ。君ももう知っているであろう『機関』の会長、というべきかボスというべきか、まあそんな感じだ。よろしく頼むよ閑谷君。」
滞りなく言葉が耳に流れてくる。俺の脳から発せられる『?』のシグナルも無視してドバドバと。
ゼッカ?なんだそれ、人名じゃねえだろ。
機関?あー長濱先生と佐藤の所属してる実在の怪しい組織か。
会長?ボス?やっぱ裏社会で生きてるとかそういう感じ?
どの疑問も、正しく反芻できない。まとめて理解できない。
まったくもって理解が追い付かない。
俺は目を見開いたまま、首を振っていた。無意識だった。
「はは、なるほど。まだこちら側の人間ではないようで安心したよ。実のある話し合いが出来そうだね。」
髭を揺らしながら軽快に笑う老人。なんでこの状況で笑ってんだ。
恐怖とも不安ともいえる感情が渦巻いている中で、俺は首を振る速度を速めた
え、こわい。いやこわ!!!!!!!!!!!!
痛みを忘れて、此処から逃がしてと縛られたベッドの上で悶える俺だった。
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