第3話 童話における『ざまぁ』バリエーションの考察 後編
<< 前編の振り返り >>
① 王道のチートざまぁ = シンデレラ
② 対比としてのざまぁ = アリとキリギリス
③ 舞台装置としてのざまぁされ役 = 桃太郎
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<< 続き >>
前編では、圧倒的な逆転劇を可能とする『王道のチートによるざまぁ』
加害・被害の関係が成立していない『対比としてのざまぁ』
そして『舞台装置としてのざまぁされ役』
について論じました。
今回は『後世で映画化された際に「ざまぁ」が改変された童話』について触れていきたいと思います。
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【 映画化で「ざまぁ」対象が改変された童話 】
原典
作品名:『ラプンツェル』
ざまぁ対象:ラプンツェル及び王子
映画版
作品名:『塔の上のラプンツェル』
ざまぁ対象:ラプンツェルの育て親である魔女
『ラプンツェル』は後世で映画化される際に『ざまぁの対象』が代わってしまったお話の1つです。
ラプンツェルの原典では『ざまぁされる対象』つまりは『制裁を受ける対象』は保護者である妖精の言いつけを破って密通してしまった『ラプンツェルと王子』の二人なのです。
つまり元のストーリーでは密通をしたラプンツェルと王子、そのうちでも特に王子が罰せられることで『不純異性交遊はよくない』という道徳観を刷り込むことに用いられる教訓話だったのです。
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しかし映画版では、よくある形式のストーリー構造である『魔女が自分の利益のためにラプンツェルを監禁していたが、なんやかんやあって最後はラプンツェルたちによってやっつけられてざまぁ』というストーリー構造に改変されています。
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これがなぜかと考えると、商業的な理由、つまりは人々にとって人気があってより観客動員数を稼ぐためにこのような改変が行われたのだと推測されます。
もし、これが原典をそのまま映画化した物であれば、それが現代の人々にとって受け入れられていたかと考えるとその可能性は低いと言わざるを得ないでしょう。
なぜならラプンツェルはまだ若い十八歳の少女とはいえ、個人の人格を持った存在であり、その意思は十分に尊重されるべきであるというのが現代社会における基準となっているからです。
また恋愛観念や貞操観念にあまり普遍性がないことは、現代を生きる人々にとっても国や地域によってそれが大きく異なることからもわかります。
つまり恋愛観念や貞操観念について扱うと『共感』が得られにくいのです。
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一方で、基本的なざまぁ構図である『魔女が自己利益のために
つまり、ラプンツェルは後世の映画化に際して、『ざまぁ対象』および『ざまぁ構造』をより人々の共感が得られる
なお『共感』について焦点を当てた考察は、次話以降の『追放モノ』における『ざまぁ』で扱いたいと思います。
――――――― ここまでのまとめ ―――――――
ラプンツェルは後世での映画化の際に『ざまぁ対象』および『ざまぁ構造』が改変された例。
ざまぁにも『普遍性が高くて共感が得やすいざまぁ』と『そうでないざまぁ』が存在する。
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【 映画化で『ざまぁ』が逆に薄まった童話 】
原典
作品名:『竹取物語』
ざまぁ対象:五人の
映画版
作品名:『かぐや姫の物語』
ざまぁ対象:かぐや姫(?)
日本の古典であり、超有名作品である『竹取物語』は『ざまぁ』をメインに据えた作品ではなく、ストーリーの一部に『ざまぁ』構造が含まれている作品です。
原典におけるざまぁ対象はかぐや姫に求婚した五人の
その末路は以下の通りです。
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登場人物名(かぐや姫に要求された宝物)
[末路]
■石作皇子(仏の御石の鉢)
山寺にあったただの鉢を持っていったがその嘘はすぐ発覚。嘘の発覚後、その鉢を捨てて言い寄るがもちろん却下される。
■車持皇子(蓬莱の玉の枝)
職人たちに偽物を作らせるが、報酬を支払わなかったため、職人たちが押しかけてきて嘘が発覚。恥をかく。
■右大臣阿倍御主人(火鼠の皮衣)
火鼠の皮衣を一応入手したが、かぐや姫が焼いてみると燃えてしまったので偽物と発覚。
■大納言大伴御行(龍の首の珠)
船で龍の首の珠を探しに行くが、道中で重病にかかり失明。入手できず。
■中納言石上麻呂(燕の産んだ子安貝)
実際にそれらしきものがある小屋の屋根に登って、子安貝らしきものをなんとか掴んだが、転倒し落下。しかも掴んだものは子安貝ではなく◯◯◯だったという、まさかのうんこ落ち。
つまり結果的にかぐや姫への贈り物に成功した者は誰もいませんでした。
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この他にかぐや姫に求婚する者として『
まあ、ある意味『心に傷を負った』ため計り知れないダメージは受けたのかもしれませんが、それが『ざまぁ』と言えるのかと問われれば、あまりそうは思えません……。
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一方で、この『竹取物語』を原作に後世で映画化された『かぐや姫の物語』では、そのストーリー構造は改編され登場人物たちの関係は複雑怪奇なこと極まりありません。
後世で映画化された物では原典では描かれていなかった『かぐや姫の幼少期の話』や『宮中作法を押し付けられる』つまり『少女が社会に取り込まれ、大人なっていく過程』というエピソードがこれでもかと挿入されています。
もちろん先ほどあげた五人の
つまり元々薄かった竹取物語の『ざまぁ』成分をさらに薄めるという改変が行われているのです。
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また映画版では、主役であるかぐや姫自身も罰を受ける対象となっており、ある意味『ざまぁされ役』となっています。
これを『ざまぁ』の一種とみるべきなのか『哀れ』とみるべきなのかは、観る人によって解釈がそれぞれ異なるところでしょう。
『結果的に誰も幸せになれない現実のビターさ』を表現されていると言ったところでしょうか……。
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さて、この原典を『より大人向けに改変したかぐや姫の物語』ですが、それが世の中の人に受け入れられて大ヒットしたのかと言えば、
映画がどれぐらい世間に受けたのか示す指標として『興行収入』という物がありますが、『かぐや姫の物語』は、
製作費 51.5億円
興行収入 24.7億円
という大赤字作品となってしまっています……。
またこれまで(2019年3月時点)に二回行われているテレビ放送での視聴率においても、
初回 2015年3月13日(金) 19:56 - 22:54 18.2%
二回 2018年5月18日(金) 21:00 - 23:49 10.2%
となっており、これは他のスタジオジブリ作品に比べてもあまりよい数字とは言えないところです……。
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もちろん、興行収入や視聴率がその作品の『面白さ』を表わすものではないことについては御留意ください。
現に、私はこの作品を観て『人間の生き方』について丁寧に描かれた素晴らしい作品であると感じました。
ただ、世の中に広く受け入れられているかと言えば『明らかにそうとは言えない』といわざるを得ません。
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――――――― ここまでのまとめ ―――――――
『竹取物語』は後世での映画化の際に『ざまぁ成分』または『ざまぁ構造』を複雑化させた。
つまり『大人向けにする改変』が行われている。
作品の出来はともかく、世の中の人にあまり受け入れられたとは言えない。
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<< 今回のまとめ >>
ここでは前編・後編に渡って、主要な童話の持つ『ざまぁ』のバリエーションについて考察しました。
改めてまとめると以下の通りです。
◇
①圧倒的な逆転劇を可能とする『王道のチートによるざまぁ』
現代ネット小説で主流の原型と言えるざまぁ。
②加害・被害の関係が成立していない『対比としてのざまぁ』
教訓話によく用いられる。あまり人気がないざまぁ。
③『舞台装置としてのざまぁされ役』
便利で使い勝手はよいが、最高のざまぁを表現することは難しいざまぁ。
◇
④映画化で「ざまぁ」対象が改変された童話
ラプンツェルはより普遍性が高い『加害者・被害者関係の逆転』へとざまぁ構造及びざまぁ対象が改変された。
⑤映画化で『ざまぁ』が逆に薄まった童話
竹取物語は後世の映画化に際して、大人向けの改変行われたが、それが世の中の人に広く受け入れられたとは言えない。
以上がここまでの内容となります。
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次話では『
<< 続く >>
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済 『ざまぁ』の面白さは「お約束」が持つ面白さ
済 童話における『ざまぁ』バリエーションの考察
→次回:『追放』が便利な理由の考察
・『悪役令嬢』にみる応用ざまぁの考察
・『ワンパンマン』に学ぶ"ざまぁ"表現方法の考察
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