2 無視できない疑惑
こんこんこん、と。控えめなノックが静かな部屋に響く。
その音で私はようやく、今現在に意識を引き戻された。
体の中身を全て吐き出してしまいそうなほどの気持ち悪さを抱えながら、私はのそのそともう一度起き上がった。
「……あの、アリスちゃん」
返事をする前に部屋の木の戸が開かれて、氷室さんがとても慎重に顔を覗かせてきた。
白い肌に垂れているサラサラの黒髪と、その隙間で静かに煌めいているスカイブルーの瞳。
私がよく知り、そして心から信頼しているその顔見て、途端に心がふにゃりとふやけてしまった。
沢山の不安や、苦しみに悲しみ。
理解の追いつかない出来事や事実、そして受け入れたくない現実。
そうしたあまりにも辛すぎる想いに苛まれて、とても張り詰めてズタズタになっていた心が、氷室さんの顔を見た瞬間に潤いを取り戻して。
私は今、ちゃんとここにいて、自分の意思で生きているんだと、そう自覚することができた。
「ごめんなさい……起こして、しまった……?」
「ううん。少し前から起きてたから大丈夫だよ」
私の様子を不安げに窺い見ながら、氷室さんはするりと室内に入り込む。
いつだって揺るがないポーカーフェイスだけれど、その瞳の色を見てみれば、彼女がなんて思っているのかはよくわかる。
そして、そうやって顔を見ることで、私はどんどんと落ち着きを取り戻すことができた。
神殿の地下に作られた石造りの部屋は、壁に吊るされた燭台の蝋燭で、チロチロと優しく照らされている。
簡素で少し冷ややかさを感じさせる室内の中で、私の眠っていたベッドの豪華さが浮いている。
これは昨日、レイくんが私用にわざわざ魔法で用意してくれたものだ。
それ以外はちょっとした机と椅子があるだけの、とてもシンプルな寝所だ。
部屋に入った氷室さんは、トボトボとベッド脇の椅子に向かう。
けれど私がそーっと視線を向け続けているのに気がつくと、少しビクリと足を止めてから、控えめな様子でベッドの縁に腰を下ろした。
そんな彼女がベッドの真ん中にいる私に向けて振り向く前に、私はその小さな背中に後ろからもたれかかった。
「ア、アリス、ちゃん……?」
「…………」
戸惑いの声を上げる氷室さんに返答をしないまま、私は後ろからその体に腕を回す。
氷室さんの身体は相変わらず少しひんやりして、簡単に折れちゃいそうなほど細くて、でも温かかった。
今の私はきっと、相当酷い顔をしているはずだから、それはあんまり見られたくない。
だから私は、氷室さんの細い肩の上に自分の頭を置いて、遠慮無しに後ろから甘え付いた。
「…………調子は、どう?」
「正直、最悪かな。ごめんね、心配かけちゃって」
少しの沈黙の後、ポツリと尋ねてきた氷室さん。
私が言葉を絞り出すと、そっと首を横に振って、自分の体に巻きついている私の手に自らの手を重ねた。
その手はやっぱり、ちょっとひんやりしている。
昨日から氷室さんには甘えっぱなしで、申し訳ないと思ってる。
お母さんが去っていってから、私の心はもうズタボロで、しばらく立って歩くこともできなかった。
そんな私を氷室さんはずっと支えてくれて、片時も側を離れないでいてくれたんだ。
ワルプルギスの魔女の反乱を止め、『まほうつかいの国』の各地で起きていた戦いを治めてきたレイくんが帰ってきた後、とりあえず神殿で休もうということになった。
リーダーの真奈実さんを失って、ワルプルギスの魔女たちはとても宙ぶらりんになってしまったから、彼女たちもまた神殿に居場所を確保して、みんなでここを仮の拠点にしたんだ。
でもそうしたことは全部レイくんがまとめてくれて、私は隅っこで氷室さんに寄りかかりながら、呆然と流れ行く状況を眺めていることしかできなかった。
今のワルプルギスの魔女には、向こうの世界から連れてこられた、右も左もわからない人たちも沢山いた。
真奈実さんの半ば洗脳のようなカリスマに導かれるまま、言われるがままに行動していた人たちは、彼女がいなくなったことでひどく不安がっていた。
そんな魔女たちをレイくんはテキパキと従えて、みんなにひとまずの安息を与えてくれたんだ。
その後にポツリポツリと、少しだけ氷室さんとレイくんと話をして、でも心も身体もクタクタで。
ロクに話も進まないまま、私は半ば気を失うように眠ったのを、何となく覚えてる。
とりあえず王都や各地の戦いが治まった。それが聞けてホッとして、後はもう余裕がなくなってしまったんだ。
我ながら情けない。でも氷室さんはそんな私に、それで良いんだと言ってくれた。
甘えてばっかりじゃダメなのはわかってるのに、今はどうしても心が彼女の優しさに寄り掛かってしまう。
「ごめんね、氷室さん。ずっとうじうじしてて……めんどくさいよね」
「そんなことはない、から。大丈夫。あなたちゃんと……頑張っている」
「……ありがとう」
顔を伏せる私の方を見ないまま、氷室さんはそう言ってくれた。
私はずるい。こんなことを言えば、氷室さんが優しい言葉をかけてくれるって、知っていたんだから。
性格悪いなぁと思いつつ、私は氷室さんを抱きしめる腕に力を込めた。
「前に進まなくちゃね。こうしてたって、時間ばっかり経っちゃうし。わかってるんだけど、でも色んな痛みが心に噛み付いてて、なかなか踏ん張れなくって……」
「前に進むことは、確かに大切、だけれど……でも、無理をしてはいけない、から。ゆっくりで、いい」
私が背中から抱きついているのに、まるで氷室さんに抱きしめられているかのように、彼女の言葉は私を暖かく包んでくれた。
口下手でたどたどしくて、控えめな言葉だけれど。でもその想いはとてもよく伝わってくる。
私を想ってくれているその気持ちが、ひしひしと心に染み渡る。
それがとても嬉しくて、だからこそこのままへこたれていてはダメなんだと、そう思わせる。
「……その、ごめんなさい」
「どうして氷室さんが謝るの?」
黒髪の隙間からチラリと私を窺いながら、氷室さんは消え入りそうな声でそう言った。
私もまた視線だけを少し向けながら尋ねると、彼女は微かに息を飲んだ。
「…………私も、あなたに気苦労を背負わせてしまっていると、思うから……」
「…………?」
こんなにも寄り添ってくれて、優しくしてくれている氷室さんに、私は寧ろ感謝しかしていない。
氷室さんからくる不安要素なんて、私は微塵もないのに。
意味するところがわからず私が頭を持ち上げると、氷室さんはそっとこちらに顔を向けてきた。
「……あの時、あの魔女が私に言ったこと……アリスちゃんは、心配していないの……?」
「えっと────あぁ、クロアさんが言った……」
少しだけ考えて、ようやく私は氷室さんが言わんとしていることを理解した。
クロアさんとの戦いの中で、彼女が氷室さんに向けて言った、どうにも信じられない言葉。
それを氷室さんは気にしていたんだ。それに対して、私が不安を覚えているのではないかと。
正直、あの時のクロアさんが正気だったかは定かじゃない。
でも彼女確かに言った。氷室さんのことを、「クリアさん」と呼んだんだ。
クリアランス・デフェリア。狂気の魔女と恐れられている人だと。
あの時の私は、そんなこと絶対にあり得ないと思った。
氷室さんだってはっきり否定したし、とても信じられなかった。
でも、クロアさんがそう言ったからには何か理由があるようにも思える。
もちろん、あの時点での彼女が錯乱していた可能性は、否定できないほどにあるのだけれど。
ただそれでも、そうした言葉が出た以上、疑念としては浮上してしまう。私がいくらあり得ないと思っても。
氷室さんは、それによって私に負担をかけてしまっているのではないかと、そう案じているようだ。
だってクリアちゃんは、同胞の魔女からも忌み嫌われている、狂った魔女とされているから。
私個人はクリアちゃんのことを、純粋に友達と思っているけれど。
でもそれはそれとして、確かにハッキリさせておいた方がいいかもしれない。これからのためにも。
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