66 青年の来訪
とても心地の良い、柔らかな日差しが差し込む気持ちの良いとある日のこと。
深い森の奥でさえ爽やかさを感じるこの日和に、私は一人森の散策でもしようかと思い立った。
ホーリーとイヴに会うペースは変わっておらず、二、三日ごとが常だ。
一人で過ごす時はイヴに借りた本を読むことが多い私だけれど、今日はなんとなく気分が乗ったから、久しぶりに体を動かそうと思ったのだ。
昔はよく一人で、一時期は三人で森の中を色々と物色したものだけれど、成長してそんなこともしなくなっていた。
たまには自分が住う場所を見回ってみるのも良いだろう。
そんなのんきな思考で小屋を出た時だった。
唐突に妙な気配を感知して、戸を潜ってすぐ、私は身を固めて周囲を警戒した。
この森に何者かが侵入している。気配そのものはとても素朴で、特に突出したものは感じないけれど。
しかし森の動物たちとは明らかに違うこの感覚は、恐らくヒトのものだろう。
ホーリーとイヴ、というわけではないのは簡単にわかる。
二人と長らく共にいる私は、もうその気配を明確に識別できるからだ。
しかしそうなってくると、彼女たち以外の人間と関わり合いを持っていない私には、それが何者なのかを判別する
しかし人間であろうことには、ある程度の確証を持てる。
人間以外のヒトならば、その身に宿す神秘も同時に感じることができるからだ。
数は一人だけ。しかしそれにしても、大分奥まで入り込まれているように見える。
何事かと森全体に魔法で探知をかけてみれば、森の端辺りにも幾らかの人間の気配を感じることができた。
ここまで全く気づかなかったなんて、私はだいぶ気を抜いてしまっていたらしい。
今までここで暮らしていて、二人の友人以外が訪れることはなかった。
だからこの森で過ごす上では、あまり身の安全に意識を払っていなかったのだ。
これからは森全体に、魔法で人払いの結界でも張っておいた方がいいかもしれない。
「────そんなことを考えている場合じゃないわね」
冷静に反省をしてから、私はふと我に返った。
今後のことよりも、まずは今目の前のことに注意を払わないといけない。
いくら一人とはいえ、見知らぬ人間がこの森にやって来て、今も尚この奥地に向けて進んでいる。
森の端にいる幾人のことを鑑みれば、恐らく迷子の類ではないだろう。
目的を持って立ち入り、そして明確に私を目指している恐れがある。
初めてのことにやや緊張を覚える。
たった一人の人間相手なら、私が遅れをとるようなことは万に一つもありはしないだろうけれど。
でもその人間が、一体どういう目的でここに訪れたのか、それが問題だ。
いや、今の私が置かれている状況を考えれば、思い当たることは一つしかないのだけれど……。
小屋に認識阻害の魔法を掛けて隠し、自分は一旦ここから身を隠したの方がいいだろうか。
そんなことを考えていた時、周囲の茂みがガサリと音を立てて騒めいた。
ヒトの身長を優に超える巨大な草を掻き分け揺らし、何者かがもうそこまで迫っていたのだ。
「っ…………!」
咄嗟に息を飲む。ヒトに遭遇することは別に初めてではないというのに。
けれど何故だか、自分のテリトリーに踏み込まれたという事実が、私の警戒と緊張を強めた。
それに何より、今この国に住むホーリーとイヴ以外の人間が、私に友好的な感情を持っているとは考えにくいから。
今からでも遅くない、急いで身を隠すべきかもしれない。
固まった思考の中でそう考えを巡らせ、いざ実行に移そうとした時。
しかしそれは僅かに遅く、巨大な草を掻き分けて一人の人影が姿を現した。
「これは、なんと……」
天幕をめくり上げるようにして身を乗り出したその人物は、私を見るなり気の抜けた声をこぼした。
それは人間の男だった。私たちと近しい年頃の、身なりの整った青年だ。
僅かに差し込む木漏れ日に照らされる鮮やかなブロンドヘアに、森林のような澄んだエメラルドグリーンの瞳。
端正に整った顔立ちからは気品が漂い、身にまとうガウンやマントの上質さも相まって、位の高さが窺える。
こんな片田舎の、更に外れの森には全く相応しくない青年は、私を呆然と見つめ、一切目を離さなかった。
草地から身を乗り出したまま、その整った顔を惚けさせ、まるで時間が止まってしまったかのように動かない。
ただそれに関しては私も同じで、青年の姿を見とめた瞬間、全ての神経が彼に集中してしまった。
こんな場所にやってくるという物珍しさからだろうか。
普段気にも留めない、他人の風体をまじまじと観察してしまったのは、私にしてはとても珍しい。
唐突な邂逅から、どれほどの時間が経ったのかわからない。
私たちはお互いに呆然と見つめ合って、お互いの驚きをじっくりとしっかりと堪能した。
しかし恐らくしばらくの時間がたった頃、ようやく私は、この先どうするべきなのかという思考を取り戻した。
このまま互いに惚けていたって、どうしようものないのだと。
小屋から出たところの私と、茂みから出たところの青年。
お互い中途半端な状態での対面の中、彼も同様のことに思い至ったようだった。
青年は巨大な草をしっかりと押し除けて、完全に茂みから出てくると、そっとスマートに微笑んだ。
「突然押しかけたご無礼をお許しください。少々、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
全く毒気のない笑みともに、爽やかな声が私に向けて放たれた。
若々しい活気と覇気があり、しかし慈愛に満ちた柔らかな声だ。
丁寧に紡がれたその言葉は、見た目通りの気品を感じさせる。
話しかけられたことに若干の警戒を感じつつ、しかし当人からは敵意や害意の類は感じられない。
こうして二人きりで対面した以上無視を決め込むのもどうかと思い、私は静かに首を縦に振った。
すると青年は「感謝致します」と更に顔を綻ばせ、嬉々として言葉を続けた。
「森の最奥に住う美しいひと。どうか、貴女の名を教えては頂けないでしょうか。私に、貴女の名を口にする許しを与えて頂きたい」
「…………?」
深々と丁寧なお辞儀をしながらそう言う青年に、私は思わずキョトンとしてしまった。
てっきり魔女だのなんだのと、そういう類のことを言われるのかと思っていたから、正直拍子抜けもいいところだった。
この青年が何なのかはわからないけれど、今やこの森に住む魔女の噂は、国中の人間が知るところであるだろうから。
しかし青年は、そんなことなど微塵も気にしていないというふうに、純粋な笑みで問いかけてくる。
その姿にはあまりにも毒気がなく、なんだか警戒するのがバカらしく思えた。
静かで穏やかで、それでいて凛とした佇まいは誠実さを思わせるし、正直今のところ悪い印象は覚えない。
だから私は、まぁそれくらいはいいだろうと、そんなことを思ってしまった。
「ドルミーレ」
私がそう口にすると、青年はふわりと顔を綻ばせた。
爽やかかつ甘やかな、歓喜を表したとても純粋な笑みだった。
「────ドルミーレ。麗しい貴女に相応しい、とても美しい名だ」
青年はそう言って、そっと目を細めて微笑んだ。
その声の柔らかさ、私の名を紡ぐ音色の軽やかさが、なんだか無性にこそばゆくて。
私は言葉を返すことも忘れ、つい視線を外してしまった。
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