56 お伽話
「ねぇ、イヴ。そういえば、なんだけれど……」
十九歳になってしばらく経ったある日のこと。
その日はイヴニング────イヴが一人で私の小屋にやってきていた。
彼女が単身訪れる際は、二人で読書をすることが多い。
思えば昔もそうだったし、ホーリーがいない時は大方静かな時間を過ごすことが多いかもしれない。
イヴはそういう時、大抵窓際に椅子を持って行き、日向ぼっこをしながら読書に耽る。
椅子に浅く座ってだらしなく傾いている様は、呑気な猫の昼寝を思わせる。
しかしそんな粗雑な風体も、陽の光の輝きを受けていると些か絵になっていたりする。
しばらく櫛を通していないであろう、絡まった焦げ茶や髪に暖かな日差しが反射して鈍く煌く。
その相貌は長い髪に隠れているけれど、隙間から窺える瞳は光を吸収して澄み渡り、本に記された文字のその奥を見通しているかのようだった。
ホーリーが言うように、イヴは美しいと思う。飾り気がまったくないから、それは見落とされがちだけれど。
読んでいた本が一区切りついた私は、そんな友人を観察しながらポツリと声をかけた。
当のイヴは私に見られていたことなど気付いていなかったようで、声でようやく私の視線に気づき、のっそりと視線をこちらに向けた。
「なんだいドルミーレ。その本はお気に召さなかったかな?」
「いいえ、そんなことはないわ。ただ、これを読んでいたら、昔読んだものを思い出したの」
椅子に深く座り直してふんわりと微笑んできたイヴに、私は今手にしていた本を示した。
それはいくつかの童話が綴られた短編集。子供向けとはいっても読み応えのあるもので、決して飽きがくるものではない。
「昔、ねぇ。君には色々本を貸しているけれど……どれのことかな?」
「タイトルまでは覚えていないのだけれど────たしか、魔物が出てくる話だったわ」
「…………」
そう私が口にした瞬間、にこやかだったイヴの表情が強張った。
大方、魔物という単語が引っ掛かったんだろう。イヴもホーリーも、私が悪魔と呼ばれたことを気にしているから、それを連想したに違いない。
私は蔑まれ拒絶されたことに傷付いただけで、悪魔という言葉単体はさして気にしていないのだけれど。
でもそれが蔑称であることは確かだから、二人はそれをよく思わなかった。
まぁ私も悪魔と呼ばれたことを揶揄して、自らの神秘に魔法という呼び名をつけたのだから、気にするなともあまり言えないんだけれど。
ただ、そこで詰まっていては話が進まない。
私は眉を寄せたイヴの様子に気付かないフリして、そのまま言葉を続けた。
「童話って子供向けにしてはシビアというか、子供向けだからこそ教訓めいた小難しさがあるけれど。あの物語は随分独特だったなと思って。あれは、なんの本だったかしら」
「…………魔物ってものが出てくるものはいくつかあるけれど、特に印象付くものといえば一つしかない。あれはどうやら、この国だけじゃなく世界的に有名な話らしいからね」
イヴは苦い顔をしながらも、自分の本を閉じてそう口にした。
私の様子を伺うように瞳を向け、それから小さく溜息をついて平静の顔を作った。
「君が言っている本は恐らく、お伽話の『ジャバウォック』だろう。私が知る限り、一つの物語で七つの種族が一堂に会す、唯一のものだ」
「ジャバウォック……」
その名前を聞いて、かつて読んだ物語がふわりと思い起こされた。
恐ろしい魔物ジャバウォックが登場するお伽話で、内容としてはとてもシンプルなものだった。
同じ村に住んでいた七つの種族の子供たちが、小さなことで諍いを起こし、それをきっかけに世界中に散り散りになってしまう。
その軋轢は時が経つほどに大きくなり、子供の隔たりは段々と大きくなってしまう。
そして誰しもが他人に向き合わなくなった時、ジャバウォックという魔物が現れ、世界そのものを壊そうとした。
邪悪な存在を前にした子供たちは、互いに手を取り合って一致団結し、清らかな心で魔物に相対した。
ヒトビトの自分勝手な考え、バラバラになった心、入り乱れた思想という、混沌から生まれたジャバウォック。
そんな魔物は、一つの芯を持った純粋な真実の心に敗れ、世界は再び平和になった。そんな話。
ヒトは手を取り合い、協力すべきで、誰しもが自分勝手に好き勝手し続ければ、世界は混沌としてしまう。
そんな感じの、やっぱり教訓めいた話だったように記憶している。
「七つの種族がそれぞれの国を持ったきっかけの話だとか、離れて暮らしているのに少なからず交流をしている理由の話だとか、諸説あるけれどね。まぁ、魔物なんてものが実在するのか、まずそこがあやふやなんだけれど」
「まぁ確かに、世界を巡ってみてもそんなものは見かけなかったわね」
平静を作ったイヴは、そうケロリと言った。
私が気にしている素振りを見せないから、合わせてくれたのだろう。
「前に君から聞いた、ヒトの神秘の始まり。それを考えてみれば、やはりこの話はお伽話の域を出ないだろうね」
「魔物や悪魔という概念は、神の概念に付随するもの、だものね。崇高なものの対象として作られた、邪悪なる物の象徴ってところかしら」
「……そうだね。ヒトが神秘を手に入れ、神と考えていたものの実態が見えてきたことで、そういった対照的な存在も、また限りなく空想に近くなった」
やや言葉を引っ掛けつつも、イヴは「だけど」と続けた。
「神の非実在が、必ずしも邪悪なる物の非実在を証明するわけでもないよ。概念としては対称だけど、それはヒトの認識と発想の中の話に過ぎない。神秘や世界についてヒトの認識が及んでいないところがまだ多くある以上、そういった未知の超常は否定できない」
「まぁ、それもそうね。あることを証明するのは簡単でも、ないことを証明するのは難しいでしょうし」
神と同じように、ほぼ存在しないとわかっていつつ、概念としては継続している。
実在とは無関係に、崇高なる物を象徴する言葉として『神』という単語が用いられるように。
邪悪なる物の、好ましくない物を差す言葉として『悪魔・魔物』は存在する。────かつて人間が私をそう呼んだように。
ヒトが神と認識していたものは、世界そのものが凡そそこに当て嵌まる。
けれど悪魔や魔物に該当するものは、私が知る限り表舞台には現れていない。しかしだからこそ、いないとは断定できない。
「────ま、そういう話だから、世界的に有名みたいだよ。話はだいぶシンプルなんだけどさ。ドルミーレはどうしてそんな話を急に思い出したんだい?」
「いえ、そんなに大したことではないのだけれど」
イヴはやや楽しげに尋ねてきた。
魔物や悪魔という単語に引っ掛かりを見せた彼女だけれど、議論めいた話に気分が盛り上がってきたのだろう。
ホーリーはあまり本を読まないし、それにあまり込み入った議論を交わすこともない。
本の内容について意見を交わしたり、世界に関して私見を述べ合うのは私としかできないのだと、以前こぼしていた。
「今読んでいた物語にも、そういうものが出てきたから。そういえば何なのだろうと思っていたら、ふと思い出したの」
「なるほどね。まぁ物語に出てくるのは、抽象的な悪い物の概念の現れだから、明確な定義はないね」
特に童話に出てくるそれらは、子供たちに正しいことを伝えるためのカウンター。
悪いことそのものや、それが呼ぶ災いを、恐怖を伴う形に据えた物。
ただそれはある意味、ヒトの悪しき部分の言い訳でもある。そんな気がする。
「まぁ、一つだけハッキリ言えることがあるとすれば────」
柔らかく微笑みながらも、イヴは私の目をしっかりと見た。
そして改まった口調で、はっきりと言葉にする。
「君には全く、それに当て嵌まる余地なんてないってことさ」
気にしなくていいと言っているのに。それでもイヴは、どこか憂いを帯びた瞳を向けてきた。
それは私の気持ちというよりは、私を想ってくれている彼女の気持ちによるもの。
私自身は気にしていないけれど、でも私を案じてくれるイヴやホーリーの気持ちは尊いものだ。
だから私はそれに、「ありがとう」と返した。
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