4 心は決まっている
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『まほうつかいの国』王都、『ハートの館』内。
ロード・ホーリーは自室内にあるバスルームで、一人湯に浸かっていた。
大きな白いバスタブに湯をたっぷりと張り、口元まで沈み込んでいる彼女の表情は浮かない。
「………………」
大きなバスタブの中で膝を抱え込んでいるホーリーは、まるで小さな子供のようだった。
吐いた溜息は水中で泡ぶくとなってポコポコと小さな音を立てる。
それもまた、どこか幼げに映る。
普段は溌剌と笑顔に溢れた彼女だが、今はその面影はない。
しかしここは彼女のプライベートな浴室だ。
誰の目もないこの場所だからこそ、他人には晒せない苦悩を垂れ流せる。しかし────
「元気ないなぁホーリー。君らしくもない」
思いもよらない声が室内に響いて、ホーリーはビクリと飛び上がった。
浴槽の湯が大きく波打ちいくらか溢れたが、そんなことを気にしている場合ではない。
慌てて顔を上げ、声がした入り口の方に目を向けていれば、そこには一人の女が佇んでいた。
「イ、イヴ……!」
「こんばんは、ホーリー」
ひっくり返るような声を上げるホーリーに対し、イヴニングこと夜子は何でもなさそうにニヤリと微笑んだ。
ここが浴室であることから、その姿は当然一糸もまとってはおらず、だというのに夜子は恥じらう素振りもなく片腰に手を当てしなやかに立っていた。
平均的な成人女性よりもやや小柄な体格であるが、しかし無駄な脂肪がないスレンダーな体型は相対的にすらりと艶やかに見える。
四十代ほどの風体のはずだが、童顔じみた柔らかな相貌と張りのある白い肌は、生娘のような初々しさすら感じさせた。
旧来の友である夜子の衰えることのない肉体をまざまざと見せつけられ、ホーリーは驚きをすぐに引っ込めて溜息をこぼした。
羨望の溜息ではなく、呆れた溜息だ。肉体的な条件は、彼女もさして変わりない。
夜子とは同年である彼女も、決して年齢相応の外見をしていない。
彼女の顔に年齢を感じさせるシワやシミの類はなく、滴を弾く滑らかさを持っている。
彼女の普段の快活さを合わせれば、十七歳の娘を持つ女には到底見えない。
浮力を持つ二つの乳房は嫋やかで、臀部の丸みも豊かで女性的。
その分夜子に比べて大人らしい身体つきではあるが、若々しいしなやかさを持つことには変わりない。
故にその溜息は、文句のつけようのない裸体を見せびらかされたからではない。
何故こんなところにいるのかという、困り果てたものだった。
「お邪魔するよ〜」
しかしそんなホーリーの溜息など聞こえていなかったかのように、夜子はニヤニヤと笑みを浮かべたままペタペタとバスタブに歩み寄った。
最早ものを言う気にならなかったホーリーが無言を返すと、夜子は脚を大きく開いてダイナミックにバスタブ内に侵入した。
バスタブ自体は大人の女が二人で向かい合って入ってもまだ余裕がある大きさだ。
しかしたっぷりと張っていた湯は人一人分の体積に押し出されて、ザバンと大きな音を立てて溢れ出した。
その様子を楽しそうに眺めながら、夜子は肩まで湯に沈み込んで低い声を鳴らした。
「……どうして、こんなところにいるの?」
「ん? どうしてって言われてもなぁ」
膝を抱え直してホーリーが尋ねると、夜子はとぼけた声を返す。
そのままニヤリと微笑むと、両脚を大きく広げて水面から突き出し、その足先をホーリーの肩に乗せた。
水中ではその脚の付け根の先が大っぴらげになっているが、彼女は全く気にした素振りを見せない。
「────久しぶりにホーリーと一緒にお風呂に入りたくてね」
「……はしたないわよ、もぅ」
「体の隅々どころか、心の内側まで見尽くした仲だ。今更隠すものなんてないだろう?」
溜息交じりの指摘に、夜子はカラカラと笑って答える。
そんな彼女を受けて、ホーリーは無駄な質問だったと内心で反省した。
向こうの世界を見守っていた彼女が今、こちらの世界の自分のところに来る理由など、わかりきっているのだから。
彼女は自分を案じて顔を出しに来てくれた。
そして、もう目の前まで迫っている
「私のあられのない姿を目にしたらホーリーが欲情してしまうというのなら、まぁ仕方がないから控えるけれど」
「あなたの裸なんて見飽きたわ。下手をすれば自分のよりね。それでも見て欲しいのなら、仕方ないから見てあげる」
「別に見てとは言ってないけどね〜」
スケベめ、とのんびり笑いながら足先で頰を突いてくる夜子に、ホーリーは少し笑みを取り戻した。
しかし湯気と水面の揺らぎで友人の秘部が不鮮明であることに、僅かに安堵する。
今更目にしたところで何も思いもしないが、股間をあからさまに開示された状態ではやはり何となく話しづらいからだ。
「────私、酷い女だなぁと思ってね……」
しばらく二人で静かに笑い合ってから、ホーリーは思い出したように口を開いた。
やっと取り戻した笑みを再び曇らせた彼女に、夜子は腕を浴槽の外に投げ出しながらふむふむと相槌を打った。
「私は結局、今になっても選べないでいるから。ドルミーレとの約束を守りたい自分と、アリスちゃんが愛おしくて堪らない自分がいる。どっちかなんて、私……」
自分を責めるように言葉を並べながら、ホーリーは自身に乗せられた夜子の脚に縋るように両手を乗せた。
露出した膝から湯を潜って水中の太腿まで滑らせ、その柔らかな肉にそっと指を食い込ませる。
その柔らかく包み込むような滑らかな感触が、とても頼もしく感じられた。
「もういい加減あの子に、自分自身として向き合おうと思った。でも面と向かうとどうしても、娘にしか見えなくて。親友と秤にかけている私に、母親の資格なんてないのに……」
「ホーリー。君は、立派なアリスちゃんの母親だと思うけどなぁ」
懺悔するように自分の至らなさを吐露するホーリーに、夜子は呑気な口調で答えた。
しかしそれを受けても表情の浮かばないホーリーに、夜子は大きく脚を上げて引っ込めると、浴槽の中で尻を滑らせ器用にくるりと回転した。
呆気にとられているホーリーを尻目に背中を勢いよく倒し、反射的に脚を開いた彼女の内側へと入りこんで湯に浮いた胸元に頭を預ける。
浮力と弾力を持つ胸を枕にし、夜子はホーリーに全身を委ねる。
まとめていない夜子のこげ茶の髪が、まるで落ち葉の絨毯のように水面を揺らめき満たす。
しかしそんなことは厭わず、夜子はホーリーの顔を仰ぎ見ながらそっと手を伸ばして頭を抱いた。
「大丈夫。君はちゃんとアリスちゃんのお母さんだよ。例え君が、彼女を
「…………真面目な流れでふざけないでよ。ホント、相変わらず」
自分の胸を枕にした挙句、頭を動かしてその抵抗感を楽しむ友人に、ホーリーは唇を尖らせた。
顔だけはいっぱいしに真剣なくせに、言動が全く伴っていない。
しかし、その言葉は真っ直ぐに彼女の心に届いていた。
ホーリーは溜息をつきながらも、胸の内に収まる夜子をやんわりと抱いた。
それに気を良くしたのか、夜子は包んでいた彼女の頭を引き寄せ、コツンと額同士をぶつけて微笑んだ。
「ホーリー。君はそこに疑問を抱く必要はないよ。あの時から君は、ドルミーレの親友でありアリスちゃんの母親になった。どっちかなんて、分けて考える必要なんてないさ」
「そう……なのかな。でも、どっちかは選ばなきゃいけないでしょ? 私は、どちらかを切り捨てる勇気なんて……」
「私が思うに、きっと君の心は決まってるんだ。決まっているからこそ、悩んでるのさ。でもその時が来れば、きっと君の心はそれを選ぶ。だから今は、もう悩まなくていいじゃないか」
「………………」
何も考えていなさそうな気楽な口ぶりで、しかしやんわりと確信をつく夜子の言葉に、ホーリーは苦笑するしかなかった。
この親友は、なんでもお見通しだと。自分ですらわかっていないことを、いとも簡単に言ってのけてしまうのだなぁと。
そしてそれでも尚、何事もなかった様に子供みたいにじゃれついてくる様が、可笑しくて仕方ない。
確かに今、悩まなくてもいいかもしれない。
「ありがとうイヴ。ちょっと楽になったわ」
「別にお礼を言われる様なことは何も。寧ろ私が言いたいくらいだ。今までありがとう、ってね」
「うーん。改まって言われるとムズムズする」
そう言って、二人はクスクスと笑い合った。
まるで年頃の少女の様に。
「あれから二千年、か。あっという間だったね、と言いたいところだけれど、流石に無理があるなぁ……」
「ええ。でも、ここまできた。あともう少しよ、イヴ」
「長かったね。遠い昔だよ、もう。でも、目を瞑れば今でも鮮明に思い出すんだ……」
ホーリーの胸に頭を預け、額を合わせながら、夜子は赤子の様に目蓋を閉じる。
そんな彼女を抱きながら、ホーリーもまた緩やかな過去の風景に想いを寄せた。
「あぁ……会いたいよ、ドルミーレに。でもきっと、怒られるんだろうなぁ」
「ええ、きっと」
二人の女は身を寄せ合いながら、慈しみ合いながら、遠い日を思い起こす。
磨耗した心に焼き付いている、かつての鮮やかな日々を。
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