38 私を守る友達の心

 私を背後から抱きしめて、ドルミーレが囁く。

 いや、そのように錯覚しただけだ。


 私の意識を飲み込まんと手を伸ばしてくるドルミーレ。

 その存在が急激に深淵から浮かび上がってきて、私の表層に割り込んでくる。


 その黒々とした重苦しい力。

 身の毛がよだつ冷ややかな気配。

 邪悪な感情が、深い闇から湧き上がってくる。


「じゃ、ま……?」


 体の力が抜けて膝が折れる。

 そのまま倒れ込みそうになるのを、剣を突き立てなんとか堪えた。

 心配そうに悲鳴を上げたクロアさんの声が、とても遠い。


 邪魔って何だ。

 これは私の身体で、私の心だ。

 ドルミーレに譲るものなんて、何一つないんだから。


「ふざけないでよ……私は、あなたになんて負けない。あなたの好き勝手になんかさせない。私は……私なんだ…………!」


 気を抜けばあっという間に飲み込まれそうな気持ちを、強く奮い立たせて堪える。

 どんなに強烈な力が襲ってきても、私なんかとは比べ物にならない存在だとしても。

 私は、自分を他人に譲るつもりなんてない。飲み込まれてなんかやるもんか。


 だって、たった今クロアさんと約束したばかりだ。

 それに沢山の友達が、私が負けないことを願ってくれている。

 例え力では敵わなくても、気持ちで負けるわけにはいかないんだ。


『あなたなんかの意志は、私には関係ないの。私の心を乱し、私の平穏を穢し、私を愚弄するやつがいる。私が眠っているのをいいことに、好き勝手に。目に物を見せてあげないといけないわ』


 ドルミーレの語気が強まり、私に迫る闇が深まる。

 頭の中で響くその冷め切った声に怒りがこもればこもる程、私を侵食する力が強まる。


 体の感覚が次第に薄れていって、剣にもたれかかっているのかも曖昧になる。

 それなのに頭が重くて、脳味噌が爆発しそうなほど痛い。

 心にはどす黒い悪辣な感情が次々と流れ込んできて、泣き叫びたいほどに苦痛が広がっていく。


 それでも、負けたくなかった。

 今飲み込まれたら、私はもう一生戻ってこられない気がして。

 そんなのは、絶対嫌なんだ。


 私は友達を守るって決めた。

 大好きな友達と、また平和で楽しい日々を過ごすために、戦うって決めたんだ。

 このままドルミーレに飲み込まれたら、二度とみんなに会えなくなるかもしれない。

 大好きな、みんなと…………!


『…………!? なぁに? 私の邪魔をするっていうの!?』


 突然、ドルミーレが訝しげに揺らいだ。

 それと同時に、闇に包み込まれて冷え切った私の心の中に、とても温かいものが宿った。

 深く安らぐ、暖かな日の光のような温もりだ。


 その温もりは私の心の中で急激に煌めいて、私にまとわりついていた黒い力を徐々に押し除け始めた。

 完全に掻き消すほどの力強さではないけれど、確かに私をドルミーレの魔の手から守ってくれている。


 この自愛に満ちた温もりを、私は知っている。

 いつもいつも私のそばに寄り添ってくれた、太陽のように暖かな心。

 誰よりも私のことを想って、誰よりも私に尽くしてくれた、愛すべき親友の心。


「晴香……!」


 私の心に宿る晴香の心が、ドルミーレから私を守ってくれている。そう直感的に確信できた。

 私の心に暖かな日差しを送ってくれるこの心は、紛れもなく彼女のものだ。


『存在も不確かな、小娘の亡霊が……私を妨げるなんて……! こんな矮小な存在に、どうして私が────』


 徐々に遠くなるドルミーレの声が、驚愕に揺れていた。

 確かに、一介の魔女であった晴香の心に、ドルミーレに打ち勝つだけの力は多分ない。

 でも、彼女の存在が事実ドルミーレを妨げていられるのは、きっと私たちの繋がりの力だ。


 一人孤独に闇を抱えているドルミーレに対し、私たちが優っているものがあるとすれば、それだ。

 私も晴香も弱い一人の女の子だけれど。手を取り合うことで強い絆を結ぶことができるから。

 孤独に喘ぐドルミーレには持ち得ない力が、私を守ってくれる。


『……生意気ね。所詮は紛い物だというのに。その存在に意味などないというのに。そんなお飾りの繋がりを振りかざして得意げになるなんて、滑稽よ』


 晴香の力が私からドルミーレを守ってくれているけれど、それでも完全に彼女を下がらせることはできなくて。

 少し遠のいたけれど、それでもまだ彼女の闇のような感情と声が私に響く。


 その怒りは収まっていないみたいだけれど、少しだけ勢いがすぼまった。


『いいわ。どうせ、何の意味もないもの。そこまで抵抗するのなら、まだ大人しくしていてあげる。けれど、この状況を私は赦さないわ』

「赦さないって……」


 ドルミーレが少し遠のいたことで余裕が生まれて、私はゆっくりと立ち上がった。

 まだ全身が重くて、ドス黒い感情に吐きそうだけれど。

 傍で心配そうにしているクロアさんの表情をチラリと窺うことくらいはできた。


『これは私を愚弄するもの。穢し、貶め、乱すもの。私の静かな眠りを妨げるなんて……』


 何故ドルミーレがそうまで怒るのか、いまいちわからなかった。

 けれどその惨烈とした煮えたぎる感情は、私の心にまでグラグラと届いてくる。

 由縁はわからないけれど、今この状況を作りしてるホワイトに向けられていることは確かだ。

 ドルミーレは、世界が、この街が今こうなっている惨状に、心を乱している。


『だから、大人しくは引き下がらないわ。あなたが私を拒むというのなら、その責任を取りなさい』

「え…………?」


 ドルミーレがそう言った瞬間、激しい力の奔流が内側から吹き上げてきた。

 彼女の存在が私の意識を押し除けることは無かったけれど、重苦しい邪悪な力だけが湧き上がってくる。

 私が今まで使っていた力と同質のはずなのに、全く違うものかと思うってしまうほどに悪辣な力が。


「あぁ…………ぁぁぁあああ…………!」


 私に、その怒りを代行させようとしているんだ。

 黒い力が内側で暴れまわって、ドス黒い力が全身から吹き出すのがわかる。

 表に出ない代わりに、その力を私に使わせて感情を発散しようとしている……!


 意識を、心を乗っ取られるわけではないけれど。

 それでもドルミーレの邪悪な感情が乗ったその力は、私を蝕んだ。

 心に黒い感情が伝播してきて、乱れ不安定になる。

 暗く悲しい怒りに満たされて、頭が真っ白になりそうだ。


 この強烈な感情のままに、暴れてしまいたくなるほどに。


『────アリスちゃん。気をしっかり、保って』


 そんな時、涼やかな声が私の頭に響いた。

 ドルミーレのものとは明らかに違う、優しく思いやりに溢れた声。

 その声が、暴力的な感情に蝕まれていた私の心を落ち着けてくれた。


『自分の心を……見失わないで。あなたに繋がる心を……頼りに。あなたの気持ちを、忘れないで』


 その声は、もう何度も聞いたことのあるもの。

 いつも私を守ってくれる、青い光をまとった優しい声。

 私はこの声をよく知っているはずなのに、どうしても誰だかわからない。


 そんな声が、私を蝕む感情の侵食を抑えてくれた。

 意識が、とてもクリアになる。


「そう、だ…………。私は、一人じゃない。私に繋がるみんなの心が、私を守ってくれる。こんな暗い感情になんて、流されたりなんかしない。私は私だから。それを、みんなの心が教えてくれるから……!」


 荒れ狂う感情の中で、繋がりを辿って自分自身を見つけ出す。

 私自身が感じている気持ち、私だけの心を。

 それを見つめ直せば、ドルミーレなんかの気持ちになんて飲み込まれない。


 頭の中で、ドルミーレの舌打ちが響いた。

 でもやっぱり引き下がるつもりはないようで、その邪悪な力は絶え間なく私に与えられる。

 それまでも跳ね除けることは流石にできなかったけれど、あの声のお陰で気持ちに余裕ができた。


 ドルミーレから流れ込んでくる力に対抗して、できる限り抑えこむ。

 気持ちを強く持ち、意識をはっきりと向ければ、そのドス黒い力を少し阻むことができた。


「……あぁぁ…………あぁぁぁぁああああ………………!!!」


 それでも完全に拒むことは、今の私ではできない。

 けれど、私を守ってくれる晴香と、導いてくれるあの声があるから、私は踏ん張れる。

『始まりの力』として私自身が使う力と、根源であるドルミーレからいずる力。

 その二つが混ざり合って、反発して、私の体から同時に溢れ出す。


 白く眩い純粋な力の輝き。暖かな魔力が、右側から吹き荒れる。

 黒く陰湿で悪辣な闇。冷え切った魔力が、左側から滲み出る。


 剣を右手で握りしめると、純白の剣は白く清らかな力で輝いた。

 それに対抗するように、溢れ出た黒い力が三本の『真理のつるぎ』を形作り、背中の左側に片翼のように展開した。

 そこから、黒くおぞましい力が迸る。


 相反する二つの力が私の体から吹き出して、激しく乱れる。

 その力の奔流に、三つ編みは乱暴に解けてバサバサと舞った。


 半身にドルミーレの力が巡っていることで、左側の感覚がやや鈍い。

 立っている感覚は怪しくて、左手にも力が入りにくかった。

 それでも、さっきドルミーレに飲み込まれそうになっている時に比べれば、断然意識がハッキリしている。


 これなら、自分の意志で戦える。


 感覚が明瞭な右足で、しっかりと床を踏み締める。

 剣を大きく振って自分に気合を入れ、頭上のホワイトを見上げた。


 手を止めていたホワイトは、つまらなさそうに私を見下ろしている。

 けれどそんなこと知ったことかと、私はこの心を守ってくれる繋がりを感じながら、剣の鋒を向けた。

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