2 その生涯で唯一

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 現在より五年前、夏。

 夏休みも終わりに差し掛かったとある日の夜。

 雨宮あめみや 晴香はるか花園はなぞの アリスの部屋にいた。


 部屋の主人はベッドに横になってスヤスヤと穏やかな寝息を立てている。

 そのあどけない顔は、一年半前と何も変わっていない。

 背は幾分か伸びただろうか。しかしアリスはアリスだと、自分の知っているアリスだと、晴香は安堵した。


 アリスが忽然と姿を消してから、一年半の時が経った。

 小学四年生の冬休みに入ったその日、アリスは氷室ひむろ あられに会いに行くと言って出かけ、それ以降帰らなかった。

 あの日一緒に行っていればと、晴香は何度も何度も後悔した。

 けれどどんなに後悔しても、探しても、アリスは帰ってこなかった。


 そして小学六年生の夏休みの今、アリスが唐突に帰ってきた。

 それを知らせにやってきたのはアリスの母親、花園はなぞの ひいらぎ

 白いローブに身を包む奇妙な出立で晴香の部屋に唐突に現れた彼女は、自らをホーリーと名乗り、アリスの奇天烈な真実を語ったのだった。


 そして、晴香はホーリーの要請を受け、アリスを守るために魔女となった。

『魔女ウィルス』に強制的に感染し、至らぬ魔女となって封印の鍵をその身に宿すことを選択した。

 いつか遠くない未来、自分は必ず死に至る。そのことに恐怖がなかったわけではない。

 アリスのためならと選んだ道でも、恐怖が彼女の幼い心を締め付けた。


 しかし、久しぶりに見る幼馴染みの穏やかな寝姿を見れば、そんな恐怖など忘れてしまった。

 この子を守り、穏やかで幸せな日々を送らせてあげることができるのなら、それには命をかける価値があると。

 幼心に、晴香はそう感じたのだった。


「アリスがお姫様か……もぅ、似合わないぞ……」


 すーすーと寝息を立てるアリスの頬を、晴香はツンと突いた。

 アリスはほんの僅かに眉を寄せただけで、それだけでは到底目を覚ます気配を見せない。


 晴香はベッドに寄りかかって上半身を預け、眠るアリスの顔をゆっくりとながめた。

 アリスが背負う重く苦しい運命の、その全てを晴香は正確に理解する事はできなかったけれど。

 しかしそれに対してアリスが相当苦悩し、しかし自分を奮い立てていたであろう事は簡単に想像できた。


 いつだって人を思いやり、寄り添い、手を伸ばしてきた。

 アリスは昔からそういう少女で、それはきっと異世界でも変わらなかったはずだから。

 そんなアリスと過ごす日々が晴香は好きで、そんなアリスのことが好きで。

 だからこそ、守りたいと思うんだから。


 でも。それでも。

 長い間帰ってこなかったアリスに、何も思わない事は難しかった。

 アリスがいない日々がどんなに寂しく、色褪せて、苦しかったことか。

 どうして何よりも自分たちを優先さて帰ってきてくれなかったのか。

 そういう気持ちが湧いてきてしまうから。


 アリスが消えた一年半前のあの日、最後に会っていたはずの氷室に何度も問い詰めた。

 しかし氷室は知らぬ存ぜぬを通すばかりで、何一つとして解決はしなかった。

 今思えばそれもまた仕方のなかったことではあったし、そもそも氷室に詰問することそのものがお門違いだった。


 しかしまだ幼い少女である晴香に、そこまで感情と理性を擦り合わせる事はできなかった。

 喧嘩をしたわけでもない。仲違いをしたわけでもない。

 しかしアリスの失踪を機に、氷室とは疎遠になってしまった。


 アリスなら、例えどこにいたとしても自分たちのことを想ってくれる。それはわかっていた。

 だって、自分がずっとアリスを想っていたし、その心の温もりは、ずっと繋がっているように思えたから。

 それでも、会いたかった。会って顔を見て抱きしめたかった。

 どうして帰ってきてくれないのと、思ってしまう自分がいた。

 誰が悪いわけではないと、わかってはいたけれど。


 しかし、そんな悶々とした思いも、アリスの顔を見れば吹き飛んだ。

 帰ってきてくれたことが、また会えたことが嬉しくて、それまでの感情などどうでもよくなった。

 改めて晴香は、この幼馴染みのことが好きなんだと、そう思った。


「────ん……あれ、晴香……?」


 一年半ぶりの幼馴染みの寝顔を眺めていると、ようやくアリスが目を覚ました。

 ショボショボした目をしばたたかせて、トロンとした顔で晴香を見る。


「おはよう……晴香。えっと、ん? どうして晴香がわたしの部屋に────」

「アリス!!!」


 徐々にハッキリとしてきた意識で現状を理解しようと眉を寄せるアリス。

 しかしその疑問の言葉を最後まで聞かないまま、晴香は堪えきらずにその首に飛びついた。

 アリスは突然の突撃にあたふたしながらも、晴香の体をしっかりと両腕で受け止めた。


「アリス……アリス! よかった……よかったよぉ!」

「えっと……どうしたの? 晴香、何かあったの?」

「う、ううん。何でもない。何でもないけど。でも、もうちょっとだけこうさせて」


 自らの首にこれでもかとしがみ付く晴香のお願いに、アリスは首を捻りながらもうんと頷いた。

 困惑は無理ないけれど、この一年半の自分の気持ちに比べれば、と晴香はそれに甘えて強く強く抱きしめた。


 聞いた話によると、アリスは異世界に行っていたという一年半の間の記憶を一切失って、代替の記憶を持っているという。

 この世界の人たちにも混乱を避けるために、記憶を改竄してある。アリスの封印と同調しているため、封印が解かれない限り改竄が修正されることもない。


 それ故に、アリスは帰ってきたという自覚を持っていない。

 偽りの記憶の通り、普段通り生活し、昼寝から覚めたとでも思っている。

 だから、晴香が再会を喜ぶ意味がわからない。それを心得ている晴香だったが、しかし久しぶりの幼馴染みの体を中々放す事はできなかった。


「…………あれ、そういえばわたし、何かしなきゃいけなかったようなぁ……」


 しばらくベッドの上で寝転びながら抱き合っていた時、アリスがポツリと言った。

 その声を聞いて腕を放し、起き上がった晴香が首を傾げると、アリスはムムムと眉を寄せた。


 のっそりと体を起こし、ボンヤリと窓の外を見る。

 そして僅かにハッとして、それからまたムムムと唸った。


「わたし……行かなきゃいけないとこが、ある気が……でもあれ? どこに?」


 ひっくり返りそうなほどに首をひねるアリス。

 なんとなく悪い予感がした晴香だったが、その様子を見守ることしかできなかった。

 そして、またアリスが唐突にハッと飛び上がった。


「そうだ! わたし、行かなきゃ! 会いに、行かなきゃ────あれ、でも……どこ、だれに、だっけ? でも、約束をした、ような……」

「っ…………」


 ガバッとベッドから飛び降りたアリスを見て、晴香は身が縮む思いがした。

 以前氷室に話を聞いた時、彼女は何も知らないと言っていた。

 しかし、「アリスちゃんはすぐにわたしに会いに来てくれると、約束してくれた」とも言っていたことを思い出したのだ。


 氷室もアリスの身を案じていたが、それでも焦りがなかったのは、その約束を信じていたから。

 いつの日かアリスが帰ってこられた時、一番に自分のところに来てくれると信じていたからだ。


 しかし、魔女である彼女のことを、今のアリスは覚えていない。

 もちろん、その約束も。約束の名残だけはボンヤリと残っていたとしても、その意味するところは思い出せないはず。

 それでもその微かに残った約束が、アリスを突き動かそうとしていた。


「ごめん晴香。わたし、ちょっと出かけてくる! 大切な約束が……あった気がするの。だからわたし、行かなくちゃ!」

「ま、待ってよ!」


 部屋を飛び出そうとしたアリスの手を、晴香は慌てて掴んだ。

 氷室のことを覚えておらず、その約束も朧げなアリスがどこに行くというのか。

 それに今、アリスを不用意に外に出すわけにはいかなかった。


 ホーリーの話では、今アリスの身柄と鍵を狙って魔女が暴れているという。

 そんな最中の街に、当事者のアリスを放り出すことなんてできない。

 やっと帰ってきたのに、やっと会えたのに。またアリスがどこかに行ってしまったら……。

 そんな思いが、アリスの手首を握る晴香の手の力を強めた。


「今日は、大人しくおうちにいよう? 今日はわたしと、一緒にいようよ」

「で、でも……わたし、行かなくちゃいけない気が……」

「もう外は暗いしあぶないよ。こんな時間に外に出歩いたら、おこられちゃうから」

「そうだけど……」


 心を突き動かす何かと、幼馴染みの言葉に揺れるアリス。

 晴香の言葉を聞きたいという思いと、自分でもわからない衝動に反応する体。

 困ったように晴香を見ながら、しかしアリスの体は扉の方を向いていた。


「ちょっと、ちょっとだけ。すぐ帰ってくるから。そしたらゆっくり……」

「ダメ、ダメだって。ねぇアリス、行かないで」

「えっと……でも、大切なことな気がするし……ごめん、ちょっとだけだから!」

「っ………………!」


 その時、晴香の頭が真っ白になった。

 心の中で感情が弾け、一瞬わけがわからなくなった。

 そして、気がつけばアリスの手を放し、その手でアリスの頬を打っていた。


「行っちゃダメって、言ってるじゃん! ダメなんだよ!」


 自分が何を言っているのかわからなかった。

 けれど、アリスが赤く腫れた頬を押さえてポカンと自分を見ていることだけはよくわかった。


 この気持ちは、きっと怒りだ。

 辛く苦しい運命を背負って異世界で戦い、やっとこっちに戻ってきたのに。

 どうして自分から危険なところに飛び込もうとするのか。

 それ自体を自覚していないとしても。どうして言うことを聞いてくれないのか。


 しかし、そこには怒りだけではなく嫉妬もあると、晴香にはわかっていた。

 記憶を失っているにも関わらず、氷室との約束が心に残っているアリス。

 自分が止めているのに、覚えてもいない氷室に会いに行こうとするアリス。

 その姿に、心が焼けたのだ。


 一度膨れ上がった感情を、簡単には抑えることはできながった。

 怒りたくないのに、酷いことなんて言いたくないのに、「どうして言うことをきいてくれないの?」と恨み節を止めることができなかった。


「あの…………ご、ごめん」


 そして、アリスはポツリと謝った。

 まん丸の目を揺らしながら、晴香の顔を真っ直ぐに見据える。


「ごめん……ごめんね。わたし、どこにも行かないから。ここで晴香と一緒にいるから。だから晴香、泣かないで」


 そう言ってアリスの手に顔を包まれて、晴香は初めて自分が泣いていることに気がついた。

 アリスが大好きで大切だからこそ、自分を顧みず無謀に飛び込む彼女に怒りが湧いた。

 アリスのことをずっと想って待っていたからこそ、自分を差し置かれそうになったことに嫉妬した。


 そんな一方的で勝手な怒りが炸裂して、しかし溢れた感情はいつしか悲しみに変わっていた。

 自分を大切にしてほしいと、側にいてほしいんだと。そう思えば思うほど、涙が止まらなかった。

 気がつけば、ワンワン声を上げて泣き喚き、アリスに縋っていた。


 そんな晴香を、アリスは優しく抱きしめて慰める。

 怒られ叩かれ、泣きたいのは自分のはずなのに。

 晴香の想いが伝わっているからこそ、そこに軋轢など生まれなかった。


 そんなアリスの温もりに包まれて、晴香は改めて誓った。

 何があろうとも、アリスの平穏は自分が守ると。

 この鍵を然るべき時まで守り抜き、アリスが自らの運命に立ち向かえるようになるまで、自分が支えようと。


 大切な幼馴染み。大好きな幼馴染み。

 ずっとずっといつまでも、一緒に穏やかな日々を過ごしていたい。

 しかし自分にはそれが叶わなくとも、アリスにはこの世界で苦悩することなく平穏に過ごしてほしい。


 その為なら、何だってする。

 この身が朽ち果てようとも、いつまでもアリスの心に寄り添い続ける。


 アリスに生まれて初めて、その生涯で唯一怒ったその日。

 雨宮 晴香はそう誓ったのだった。




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