96 まほうつかいの国のアリス8

 女の子はすこしさみしそうな顔をしながら、手の甲でわたしのほっぺをすぅっとなでた。

 ちょっぴりくすぐったいけど、スベスベやわらかくて気持ちがいい。


「わたしが、あなたのその願いを叶えてあげる。アリスちゃんが今抱えている問題を然るべき時まで先送りにする。そうすることで、あなたの心が救われると、わたしは信じてる」

「あなたが、してくれるの……? でもどうやって?」


 覚悟を決めたはいいけど、具体的にどうするのかを知らなかったわたしは、目をパチパチしながらその顔を見た。

 女の子はゆっくりと笑顔を浮かべてから、すこし真剣な目になってわたしの目を見てきた。

 炎が燃えているような、鮮やかなルビー色の目だった。


「アリスちゃんの心の中で眠るドルミーレを封印するの。あなたから完全に隔絶して、奥底に閉じ込める。そうすれば、あなたはその影響を受けなくて済むようになるはずよ」

「ドルミーレを、封印!? そんなことできるの? だってドルミーレは、とっても強いんだよ……?」

「できるわ。今の彼女ならギリギリ。その方法は、ちゃんと聞いてきたから」


 今まで『始まりの力』に敵う力はなかった。

 それはつまり、ドルミーレに敵う力もないってこと。

 なのに、そのドルミーレを封印するなんて、本当にそんなことできるのかな。

 ドルミーレの気持ちや力を押さえられなかったわたしは、なかなか信じられなかった。


 でも、女の子は自信たっぷりに言うから、きっと何か方法があるんだ。

 ドルミーレを完全に封じ込めることができるのなら、それだけでわたしの望みはけっこう叶っちゃうかもしれない。


「でも、わかっていると思うけれど代償があるわ」


 気持ちがすこし明るくなったわたしに、女の子は真剣な顔のまま言った。

 わたしはあわてて気持ちを引きしめる。


「相手は『始まりの魔女』。それを封印するのは生半可なことじゃないわ。僅かにでもアリスちゃんの心の中に魔法の気配があれば、それがきっかけとなって封印が瓦解してしまうかもしれない。だから、あなたの魔法に関するもの、その全てごとドルミーレを封印するの」

「…………? それは、わたしにはもう『始まりの力』が使えなくなるってこと?」

「いいえ、それだけじゃないわ」


 女の子は悲しそうに視線を下に向けて、わたしの手をきゅっとにぎった。

 その手は、すこしだけふるえている。


「アリスちゃんの、魔法に関する全ての記憶と経験、力、その全部よ。簡単に言うと、アリスちゃんは『まほうつかいの国』に来た時からの記憶を、全部なくすことになる」

「き、記憶を……!?」


『まほうつかいの国』に来た時からの記憶をなくす。

 それはつまり、ここで出会ったたくさんの友達のことを忘れてしまうってことだ。

 それはとっても、どうしようもなくいやだった。


 でも、なんとなくそういうことなんじゃないのかなって、気はしてた。

 夜子さんが言っていた覚悟っていうのは、そういうことなんじゃないのかなって。


 何かを守りたいのなら、それを失う覚悟も必要だって。

 ドルミーレを押さえ込むためには、全てを失う覚悟が必要だって。

 夜子さんはそう言ってだんだから。


 だからわたしは、そこまで『どうよう』はしなかった。

 記憶がなくなるって言われたのはびっくりしたけど。

 でも────いやだけど────大切な人とはなればなれになっちゃうかもしれないって覚悟は、してきたつもりだから。


「完全に消えてなくなっちゃうわけじゃないから、安心して。あなたの魔法に関するものを心の本体から引き剥がして、それを蓋にしてドルミーレを封じ込めるの。もしいつか、その時が来て封印が解かれれば、あたなはちゃんと全てを取り戻せるから」


 女の子はわたしをなぐさめるように言った。

 きっと、わたしはとっても悲しい顔をしてたんだ。


 だってしょーがないよ。

 覚悟をしてても、友達のことを忘れちゃって、はなればなれになっちゃうのはかなしい。とってもさみしい。

 でもそうやってドルミーレを封じ込めないと、今のわたしじゃもうどうすることもできないから。


 だから、大好きな友達を守るために、今はガマンしないと。

 かなしいし、さみしいし、つらいけど。でも全部、わたしの大好きな友達のため。

 この国を、友達を、レオとアリアを守るためだから。


「…………うん、わかったよ。それでいつか、わたしがちゃんと立ち向かえるようになるまで、時間がかせげるんなら。わたし、がんばってガマンする」

「わかった。わかったわ。あなたが頑張るのなら、わたしも頑張る」


 そう言って女の子はにっこり笑った。

 すこし無理をしているような感じだったけど、でもわたしを元気付けるようにやわらかく。


「アリスちゃんの記憶とドルミーレを封印したら、あなたを元の世界に返す手筈になってるわ。あなたはその時が来るまで、魔法とは無縁の平穏な世界でゆっくりと過ごしてね」

「おうちに帰れるの!? それ、本当!?」

「ええ、本当。記憶を失った後のあなたにとっては、帰ってきた実感は無いと思うけど。ちゃんと、あなたが元いた場所に帰すわ」


 おうちに帰れる。それを聞いてわたしの気持ちはパァッと明るくなった。

 この世界をはなれるこや、ここの友達を忘れちゃって会えなくなるのはかなしい。

 でも、元の世界に帰れてみんなに会える。それは本当にうれしかった。


 だってわたしは、あんまりにも待たせすぎちゃったから。


「さて、それじゃあそろそろやりましょうか」


 女の子はそう言うと、わたしの手をはなした。

 その真っ赤な目を向けて、ふぅっと短く息をはく。


「全部わたしに任せてね。わたしがちゃんと、あなたを守るから。そしてその時が来たら、またこうしてわたしが、ちゃんと迎えに行くからね」


 真剣な目で、でもとっても優しい顔で女の子は言った。

 その言葉に、わたしは緊張しながらうなずく。


 レオとアリアにちゃんとお別れを言ってからの方が良かったかな。

 でも、レオにはちゃんとお願いして、約束もしてきたし。きっと大丈夫。

 それに、もう一生会えなくなるわけじゃない。

 だからお別れをするのは、ちょっとちがうよね。


 記憶がなくなっても、わたしたちの心はずっと親友としてつながってるはずだから。


 あらためて覚悟を決めて、女の子をまっすぐ見る。

 その赤い目と視線がぶつかって、女の子の手がすっとわたしの胸にふれた。


 その瞬間、わたしの心の中にすぅっと穴が開いていくような感覚がした。

 これが、記憶と力をなくす感じなのかもしれない。

 わたしの中のドルミーレが、封印されてくってことなのかもしれない。


 その感覚に合わさるように、わたしの目の前で白い光がポワポワして。

 それはなんとなく、バラの形になろうとしているように見えた。


「またね、アリスちゃん。私があなたを必ず守るから。必ず迎えにいくから。その時まで待っててね」


 女の子の声が、だんだんぼんやりとして聞こえる。


「私たちは友達。記憶をなくしても、きっとこの心は奥底で繋がってるから────」


 女の子がそう言って微笑む。

 でも意識がぼんやりしてきて、その顔もなんだかよく見えなくなっていった。


 今日初めて会う女の子。なのにどうしてだか友達だと信じられる女の子。

 あなたはだれなの? わたしはあなたを知らないはずなのに、どうして心はあなたを友達だと感じてるの?


 わからない。つながりは感じるけど、その先はぼんやりとしていて、その心がだれかはハッキリしない。

 でも、きっと大丈夫だ。わたしは自分の心を信じる。

 この心につながってくれているのなら、それはきっとわたしにとって大切な友達。


 だれだかわからないのは申し訳ないけど。

 でも、わたしは信じてる。



 今日初めて会ったはずの女の子。

 黒い髪がとってもキレイな美人さん。

 わたしはその子の名前を、ずっと後になって知ることになるのでした。

 その子の名前は……。




 神宮 透子────────。




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