29 風と糸

 大きな蝶の羽が羽ばたいた。

 羽ばたき一つが暴風のような空気の圧力を生み出す。

 嵐そのものが突っ込んできたような荒れ狂う風が、私たちを飲み込まんと雪崩れ込んできた。


「…………!」


 私は咄嗟に剣を振るって迫り来る風を切った。

 しかしそれは書いて字のごとくただくうを切っただけ。

 迫り来る風はその勢いを失わずに私たちに襲いかかった。


 どうして!?

 顔を腕で覆い、荒れ狂う風に耐えながら疑問が駆け巡る。

 けれど答えはすぐにわかった。

 これはただの風圧だ。『真理のつるぎ』で切っても、打ち消せるのは魔法だけで元々の風の勢いは殺せない……!


「アリス、上!」


 地面に足をしっかり踏みしめて、必死で風に耐える。

 やっと吹き荒れる風を耐え抜いたかと思った時、千鳥ちゃんがけたたましい声を上げた。


 その声に従って上空に目を向けてみれば、アゲハさんがサファイアブルーの羽をはためかせて飛び上がっていた。

 星々の輝きと月の光を受けて、透けそうな程澄んだ羽がステンドグラスのように鮮やかに煌めいている。


「アリス! アンタじゃ私には敵わないって、教えてあげる!」


 両腕を大きく広げてアゲハさんが叫んだ瞬間、その十本の指から無数の糸が放たれた。

 視界を覆い尽くすように、私たちを包み込むように広がった糸は、曲線を描きながら私めがけて突き進んできた。


「させるかっての!」


 風を切り裂いて突き進んでくる糸たち。

 それが私に到達する前に、千鳥ちゃんが周囲に向けて放電した。

 無差別な放電に見えて、私にはそれが及ばないように気を使いながらスパークのように電撃を撒き散らす。


 糸の一本いっぽんが焼き切れてチリジリになって霧散する。

 冷たい空気の中で電撃が走ったせいか、バリバリと乾いた音がよく響いた。

 千鳥ちゃんがフッと息を吐き、上空のアゲハさんを睨んだ。


 しかしアゲハさんはそんな千鳥ちゃんには目もくれず、もう次の攻撃に転じていた。

 両腕をまっすぐこちらに向けて、手のひらを大きく広げる。

 するとその細腕を中心に台風のような風の渦が生まれ、そこからハリケーンのような竜巻が二つ放たれた。


 この場の音全てを搔き消す轟音を撒き散らしながら、唸りを上げて落ちてくる竜巻。

 触れたものを一瞬で粉々にしてしまいそうなそれが、私たちを飲み込まんと降り注ぐ。


「ぁぁああああ……!!!」


 それが正解かはわからなかった。

 でも考える前に体が動き、私は身を乗り出して無我夢中で剣を振るった。


 魔力を剣に込め、ただ力任せに振り上げる。

 斬撃にまとわせた純粋な力が、白い輝きを持って衝撃波のように放たれる。

 一面を埋め尽くすような斬撃が迫り来る竜巻とぶつかって、弾けた。


 私の放った斬撃が竜巻を二つとも打ち消して、そのまま上空にいるアゲハさんに向かった。

 と思ったけれど、既に上空にその姿はなかった。

 虚空を通り抜けた斬撃を見送って、どこへ消えたのかと辺りを見回した、その時。


「おっそいのよ!」


 上空を見上げていた私の正面に、アゲハさんが迫っていた。

 ニィッと口角を上げて、得意げな笑みを浮かべながら私に向かって腕を振るう。

 その手には糸で編み込んだ強靭な鞭が握られていて、ビュッと風を切る音がその鋭さを際立たせていた。


 咄嗟のことに反応ができず、私はただ振るわれる糸の鞭を凝視することしかできなかった。

 そんな私の前に、千鳥ちゃんが飛び込んでくる。

 電気をまとわせた拳を振り抜いて、降りかかる鞭をカウンターのように殴りつけた。


 バチンという乾いた音は、鞭がしなった音か、それとも電気が弾けた音か。

 私に届かなかった鞭は千鳥ちゃんによって弾かれて仰け反っていた。

 けれど勢いよく飛び込んできた千鳥ちゃんは思いっきり体勢を崩していて。

 その隙を見逃すアゲハさんではなかった。


「しまっ…………!」


 千鳥ちゃんが声を上げる間も無く、アゲハさんが脚を蹴り上げた。

 それは、ちょうど飛び込んできた千鳥ちゃんのお腹に突き刺さる。

 真下から蹴り上げられたことによって、千鳥ちゃんの体は宙に浮き上がった。


 魔力で強化された蹴りだったんだろうか。

 いくら小柄な千鳥ちゃんとはいえ、女の人の蹴りで人一人が浮き上がるとは到底思えない。

 目を剥いて吐きそうに顔を蒼白にした千鳥ちゃんは、声にならない呻きを上げた。


「千鳥ちゃん!」


 身をよじる千鳥ちゃんに追い打ちをかけようとするアゲハさんに、私は飛びかかろうとした。

 けれどそれよりも早く、アゲハさんは次の動きに出ていた。

 さっき弾かれた鞭をもう一度しならせ、地に着く前の千鳥ちゃんに振るう。


 私は瞬時に剣を差し込んでその一撃を防ごうとしたけれど、鈍い音を立てて風を切る鞭は私の剣を掻い潜った。

 ビチンと重い音がして、糸の鞭が千鳥ちゃんに打ち付けられた。

 そしてそれは千鳥ちゃんの体に巻きついて縛り上げた。


「んぁあっ────!」

「妹は、お姉ちゃんに逆らっちゃいけないんだよ!」


 千鳥ちゃんに絡みついた鞭を、アゲハさんが思いっきり振り抜く。

 成すすべのなかった千鳥ちゃんはそのまま体を放られて、思いっきり塀に打ち付けられた。

 肉が硬いものにぶつかるドスンという重い音が響いて、千鳥ちゃんはぐったりと項垂れて地面に倒れこんだ。


「千鳥ちゃん!!!」

「よそ見してる暇なんてあるわけ!?」


 急いで駆け寄ろうとした私に、アゲハさんが叫んだ。

 慌ててアゲハさんの方に顔を向けると、もう糸の鞭が私に向かって振るわれていた。

 咄嗟に剣を盾にすると、糸の鞭は触れた瞬間弾けて消えた。


 けれどそれに安堵している暇もなく、アゲハさんが大きく羽ばたいて強烈な風を引き起こした。

 目の前で起こされた強風に私は体勢を崩してしまって、その瞬間にアゲハさんの手が伸びてくる。


 アゲハさんの指から放たれた無数の糸が私の体に巻きついた。

 四肢をぐるぐる巻きにされたかたと思うと、どこからともなく色んな所から糸が飛んできて、私の至る所に巻きつく。

 細い糸一本いっぽんが肌に食い込んで激痛が走る。手に力が入らずに剣を取り落とし、『真理のつるぎ』は足元に突き刺さった。


 至る所から放たれた糸に雁字搦めにされ、私は空中に吊るされた。

 指一本動かすことができず、剣も手から離れてしまった。

 電気の魔法を放って糸を焼き切ろうと思ったけれど、鋼鉄のように固まった糸はビクともしない。


『幻想の掌握』で魔法の主導権を握ろうともしたけれど、どうすることもできなかった。

 今の私ではこの力も制限がある。アゲハさんが使う糸の魔法には、私のイメージがうまく通らなかった。

 私に掌握できるのは、私に力を貸してくれる魔女たちの魔法に類するものだけだから。


 私は成すすべもなく、ただ吊るされていることしかできなかった。

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