24 壁ドン
「私、そろそろ帰ります」
「えー」
私がおずおずと切り出すと、アゲハさんは口を尖らせた。
これ以上アゲハさんとお喋りをしていても仕方がない。
それに、やっぱり千鳥ちゃんが心配だからもう一度探したかった。
「もうちょっとくらい良いじゃん。もっとお喋りしよーよー」
「すいません、でも帰らないと。家で家族が待ってるし……」
駄々をこねる子供のように拗ねた顔のアゲハさんに、私は苦笑いを浮かべるしかなかった。
アゲハさんとのんびりお喋りをするような仲になった覚えはない。
まして、こんな暗くなった人気ない路地のど真ん中で。
それに、今はお母さんが家で待っているから、あまり遅くなると心配をかけてしまう、というのも実際ある。
普段娘を一人家に置いて長期出張に行ってしまうくらいだから、割と放任ではあるけれど。
だからといって無闇に遅くなるのもいただけない。
「あの、一応、助けてくれてありがとうございました。それじゃあ私────」
「まぁ待ちなって」
一応ペコリとお辞儀をして感謝を述べ、少し足早に立ち去ろうとした時だった。
アゲハさんの手がすっと伸びて来て私の手首を掴んだ。
私が反応する前にぐいっと力強く引き寄せられて、勢いそのままに路地の塀に背中向きに押し付けられた。
「そんな寂しい事言わないでさぁ、もうちょっと構ってくれてもよくない? ね、アリス」
アゲハさんの口から囁くような甘い声が紡がれる。
そして塀に背中をぴったりとくっつけた形で追い詰められた私の頭の横に、アゲハさんの手がトンと落ちた。
俗に言う壁ドンだ。すらっとした長身でおまけにヒールの高い靴を履いているアゲハさんは、私を壁に追い詰めて覆いかぶさってくる。
本能的に身の危険を感じてすぐさま腕の下を掻い潜ろうとしたけれど、アゲハさんの方が動き出すのが早かった。
アゲハさんの片脚がぐいっと上がって、私の太腿の間に膝を差し込んできた。
股下を固定された私は全く身動きが取れなくなってしまう。
「えっと、あの……アゲハさん?」
「逃げなくても良いじゃーん。傷付くなぁ」
私に覆い被さるように覗き込んでくるアゲハさんの目は、少し鋭さを持って煌めいていた。
あくまで楽しげにニコニコしているけれど、私を逃がすつもりがないという目をしている。
私の太腿の間に差し込まれた膝が、少しずつ持ち上がって私をガッチリと固定する。
短めのショートパンツから伸びた雪のように白い太腿は、それだけを見ると目が眩むほどに艶かしい。
夜の薄暗さも相まって余計に扇情的に、情欲的に映る。
けれど私の拘束具となっている今、その魅力も半減だった。
「助けてくれてありがとう、それじゃあバイバイはないっしょ。代わりにってわけじゃないけどさ、私のお願い聞いてくんない?」
「お、お願い……?」
縮こまる私を面白そうに眺めながら、アゲハさんニヤリと言った。
その顔を近づけて、間近で目と目を合わせてくる。
爛々と輝く瞳が、夜の暗さの中でも明るく煌めいている。
「そ。別に大した事じゃないよ。ただ、アリスの知ってることを教えて欲しくてさ」
「な、なんですか?」
何を頼まれるのかと少しビクビクしたけれど、質問に答えるだけならいいかな。
ワルプルギスのところに来いとか、何かしろとかそういうことを言われるのかと思った。
私がおっかなびっくり尋ねると、アゲハさんはニンマリと微笑んだ。
「真宵田 夜子の居場所、教えてくんない?」
「え? よ、夜子さんの居場所……?」
予想だにしていなかった要望に、私は素っ頓狂な声を出してしまった。
どうしてここで夜子さんの名前が出てくるんだろう。
ワルプルギスと夜子さんって何か関係あったっけ。
そう思って思い返してみれば、晴香の件の時、鍵を持ち去ろうとしたレイくんと夜子さんは戦った。
あの時の二人の仲はとても良さそうに見えなかった。
それに思えば、アゲハさんは前も私を使って夜子さんの居場所を探ろうとしていた。
私の知らないところで、ワルプルギスと夜子さんの間に何か確執があるのかもしれない。
だとすれば、私が勝手に居場所を教えて良いとは思えない。
「どうして、ですか? 夜子さんに会って何を……?」
「何をって、うーん……挨拶、とか? ほら、クイナのやつ今、真宵田 夜子のとこいるんでしょ? 姉として妹が世話になってるなら挨拶しておかないとねぇ。うんうん」
あまりいい予感がしなくて尋ねると、アゲハさんは取り繕ったような言葉を返して来た。
良いこと言ったとでもいうようにニコニコ笑うアゲハさん。
けれど、そんなことのためにわざわざ夜子さんに会いに行くようには到底見えなかった。
「すいません。私には教えることはできません。私が勝手に教えたら怒られちゃいますし。だからあの、お礼ってことなら別のことで……」
「えぇーダメ? ちぇ。アリスが教えてくれれば楽チンだったんだけどなぁ」
アゲハさんは意外にもあっさり引いた。
もっとぐいぐいと迫られるかと思って身構えていたけれど、そこまで切迫した要望ではなかったのかもしれない。
けれど未だ私を壁ドンからは解放してくれなかった。
壁に追い詰められているという状況だけでも、単純にハラハラしてしまう。
それに加えて獲物を狩るような鋭い目を向けられたら、思わず身が竦む。
女の人であろうと、こうも覆い被されたら圧迫感を覚える。
目の前に迫るくっきりと浮かび上がった胸の谷間と、私の股下に押し付けられるもちっとした太腿の感触が、辛うじて私の緊張感を少し誤魔化してくれる。
けれど、だからといって状況が良いとはとても言えないんだけれど。
「うーん、じゃあ仕方ないから別の方にするかぁ。本当は順序通り進めた方が良かったんだけど。でもま、こっちの方が私の性に合ってるし」
飽くまで軽い調子で言いながら、アゲハさんは更に顔を近づけて来た。
鼻と鼻がくっつきそうな距離。僅かに緊張して荒くなった吐息はきっとかかってしまっている。
化粧をバッチリ決めている上に、元々が目鼻立ちのはっきりした美人のアゲハさん。
顔を近づけられるとその端整ぶりがよくわかるけれど、同時に威圧感もあった。
なまじ美人であるが故に、迫力がものすごい。
「あの、私は何をすれば……?」
「大丈夫、簡単だから。全然難しくないよ」
恐る恐る尋ねると、アゲハさんは朗らかに答えた。
その笑顔は明るく華やかなのに、少し影を感じる。
生唾を飲み込んで見上げると、アゲハさんは軽い口調で言った。
「私に殺されて? ただそれだけ。簡単でしょ?」
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