66 本当の出会い

 しんしんと、空から綿菓子のような雪が降ってくる。

 夕暮れ時で射す光は赤く、白い綿雪がオレンジ色に染まっていた。

 人気のない路地は街灯の数も少なくて、ちらほらとしか灯っていない光のせいで、かえって薄暗く思わせた。


 今瞼の裏に映ったこの光景が何なのかは直感的にわかった。

 私の記憶ではない過去の出来事。少なくとも、今の私は知らない記憶。

 きっとこれは、氷室さんが私に伝えてくれているものなんだ。


 薄暗い路地の電柱の物陰に、ひっそりとうずくまっている一人の女の子。

 顔を覆っている黒髪の隙間から僅かに覗いている、澄んだスカイブルーの瞳。

 この女の子こそが、かつての氷室さんなんだろう。

 つまりこれは、こちらの世界に捨てられた時の氷室さんの記憶。そしてきっと、私たちが出会った時の記憶だ。


 一人で膝を抱えてうずくまっている氷室さん。

 頼れる人はいなくて、どうすればいいのかもわからなくて、寂しく途方に暮れていた。

 見知らぬ場所で寒さに震えながら、孤独と戦っている。


 身なりはどこか見すぼらしかった。

 服はボロボロで煤汚れているし、髪も今のように艶やかじゃなくて、汚れて白ばんでボサボサだ。

 けれどそんな見た目よりも、張り付いた無表情の方がよっぽど可哀想に見えた。

 幼い女の子が一切の笑顔を見せず、この世の終わりを知ったかのように真顔で虚空を見つめているのだから。


「あれ? どうしたの?」


 舞う雪が積もっても意に介さずにただ座り込んでいた氷室さんに、語りかける声があった。

 それは女の子。見ればすぐにわかる。私だった。

 脇には晴香と創もいて、うずくまる氷室さんを三人で心配そうに覗いていた。


 幼い日の私たちだ。

 この頃から既に私は今と同じ三つ編みのおさげを垂らしている。見た目は十歳くらい。小学生だ。

 晴香はこの頃確か二つ結びにハマっていて、まだそんなに長くない髪をちょこんと可愛らしいヘアゴムで結わいていた。

 創は別段変わり映えしないけれど、でも大分幼い顔立ちは、今のちょっと憎たらしい姿から見ると大分可愛らしい。


「一人でどうしたの? おうち、帰らないの?」


 私が声を掛けると、氷室さんは僅かに顔を上げて、その鮮やかな瞳を向けた。

 その瞳に見つめられて、私はハッと息を飲んだ。きっと、その透き通るような輝きに魅せられてしまったからだろう。


「わたし…………その……」

「一人じゃ退屈、じゃない? わたしたちと一緒に遊ぶ?」

「え……?」


 我ながらなんて呑気な、と思ってしまった。

 道端で一人座り込んでいた女の子にかける言葉なのかと。

 でもきっとこの私には、氷室さんが酷く寂しそうに見えたんだ。

 それを埋めるためには、一緒にいてあげることが一番だと思ったんだろう。


「そろそろ帰ろうかどうしようかーって話してたんだけど、もう少しくらい大丈夫だし。一緒に遊ばない?」


 はらはらと雪が降っている夕暮れ時。

 けれど子供にとっては、雪なんて格好の遊び道具だ。

 夕方もまだまだ遊んでいたい頃合い。

 ニパッと笑みを浮かべて私は手を差し出して、氷室さんはそんな私をまじまじと見つめた。


「いい、の……?」

「もちろん! お友達になろ!」


 おっかなびっくり、恐る恐る手を伸ばした氷室さん。

 そんな控えめな手を、私はバシッと掴んだ。

 びっくりしている氷室さんをよそに私はニコニコと微笑んで、ぐいっと引っ張り上げた。


 少しよろける氷室さん私がガバッと支えて、晴香と創も駆け寄って取り囲んだ。

 おろおろと動揺している氷室さんは、恥ずかしそうに俯いた。


「とも、だち……?」

「うん、友達! わたしは花園 アリス。アリスって呼んでね。あなたのお名前は?」

「私は……へ────あの、その……」


 氷室さんは口ごもった。

 口にしようとした名前は、家族に否定されたものだから。

 最初からいなかったものにされ、捨てられた名前だからだ。


「名前は……ないの。わたしには、何も……」

「え? 困ったなぁ。じゃあなんて呼ぼっかぁ……」


 恥ずかしそうに、消え入りそうに呟く氷室さんに、私は首を傾げていた。

 そして晴香と創と顔を見合わせてから、いいこと思いついたというようにパッと笑った。


「じゃあ、私がつけてあげる!」

「……え?」


 キョトンとする氷室さんをよそに、私は腕を組んでうんうんと唸った。


「『あられちゃん』、なんてどう? 知ってる? あられって、見てるとキラキラしてて綺麗だよ? 当たると痛いみたいだけどね……でもでも、あなたにぴったり!」

「おいアリス。それ、今朝あられが降ってたから思いついただろ」

「そ、そうだけどいいでしょ! この子綺麗だし、キラキラなあられぴったりだし!」


 私の安直なネーミングを創がぴしゃりと窘めた。

 この頃から創は少し意地悪っぽくて、私たちより冷静だった。


「わたしはいいと思うよあられちゃん。お肌白くて雪みたいだし、ひんやりしてて綺麗だしね」

「そうでしょ! やっぱり晴香はわかってる〜」


 やんわりとにっこりと、優しく笑いながら頷いてくれる晴香。

 私のことをいつだって受け入れてくれる晴香は、やっぱりこの頃から穏やかで暖かだ。


「ねぇ、あなたはどう思う? あられちゃんじゃ、いや?」

「あられ…………わたしの、名前……」


 私たちだけ盛り上がって、当の本人を置いてけぼりにしていたと、私は慌てて尋ねた。

 氷室さんは俯き加減で控えめにその言葉を繰り返しながら、口元は僅かに綻んでいた。


「いいえ……嬉しい。あり、がとう……」


 きっとこの時の私には、大して深い考えなんてなかったはずだ。

 でも居場所をなくし、存在を否定され、縋るものを失って自分自身さえわからなくなっていたであろう氷室さん。

 その気持ちを思えば、これは確かに救いになっていたのかもしれない。


 これは氷室さんの記憶の断片。

 私はあくまでそれを映画でも見るように眺めているに過ぎない。

 だからこの頃の私自身の気持ちは、まるで他人のように想像することしかできない。


 けれど氷室さんから見た私は、何だか光り輝いて見えた。

 この世の終わりの中で手を差し伸べた女神のように。

 何だかそれは気恥ずかしく思えたけれど、でも嬉しかった。

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